活動レポート

6年越しの難民認定。エチオピアへの帰国を断念、ここが私たちの「ホーム」

世界で起きている難民の状況は、現地で直接目にするか、伝える人がいなければ、私たちのもとには届かない。ノルウェーのNGO「ノルウェー難民評議会(Norwegian Refugee Council)」は、メディアの関心度や援助機関からの支援額の不足度合いなどを指標に、「世界で最も忘れられた強制移動危機」を毎年発表している。2024年、エチオピアは第2位だった。エチオピアでの難民危機の規模や深刻さに対して、関心や支援が全く及んでいないということを表す。

アフリカ北東部「アフリカの角」に位置する内陸国エチオピア。人口は約1億3,200万人(世界銀行, 2024)を抱えるアフリカ第2の”大国”だ。豊かな文化と歴史をもつ一方、近年は紛争や干ばつが続き、32万人が他国に逃れているほか、227万人が国内での避難生活を強いられている(UNHCR, 2024)。

こうした状況の中、日本でも近年では毎年のようにエチオピア出身者が難民申請を行っているが認定される人はごくわずかだ。

アベベさん(仮名)はその一人。エチオピアから来日して約10年、数年前に難民認定を受け、現在は家族4人で都内に暮らしている。ご自宅を訪ね、当時のことや今の暮らしについて話を伺った。(インタビューは英語で実施)

エチオピアでの出来事ー父の死や不当逮捕

ーーまず、故郷エチオピアについて教えてください。

エチオピアについて質問してくれてありがとう。私の母国は本当に色彩豊かで美しい国です。言葉も宗教も多様です。80を超える民族グループがあります。私の家族も多民族なんです。国の言葉はアムハラ語ですが、家庭では民族の言葉を使っていました。言語的にはまったく違います。でも、隣人が他の言葉を話すので、使わざるを得ないですよね。いろいろな言語を学ぶのは当たり前でした。英語も話せますよ。気候は、一年を通じて20度から25度ほどで、とても過ごしやすいです。

エチオピア暦を知っていますか? 1年は13か月なんです。30日の月が12か月続き、最後に5日か6日の短い13番目の月があります。エチオピアは植民地化されたことがなく、独自の文化を保っています。とても誇りに思っています。

ーーどんな暮らしでしたか?

何不自由なく育ちましたが、中学生のころ父が亡くなってから、生活が一変しました。ある時、父が政府に殺されたんです。

父に何があったのか詳しいことはわかりません。活動家だったのかもわかりませんが、政府に対して「これは正しくない、これは良くない」といった主張をしていたことは覚えています。政府は父を国の反体制派だとみなし、殺害しました。

私の国には問題があります。民主主義がなく、政府は人々を調和に導くのではなく、分断や差別、弾圧を通じて権力を維持しようとしていました。その結果、人々の間には不信と対立が広がっていました。

ーーアベベさんご自身もその後大変だったでしょうね。

状況は悲惨でした。とにかく、教育と生活を両立させるのに本当に苦労しました。残された家族はきょうだいと母。生きていくだけで精一杯でした。それでもなんとか勉強を続け、ビジネスに関する修士号を取得しました。

でも、父とのつながりで、私も政府から狙われるようになりました。私自身は、政府を批判したことはなかったのに、それでも、かれらは私を敵だとみなしたのです。

当初は逃げようとは思いませんでした。どこに行けばいいかわからなかったですし。

20代で働き始めたころ、ある日突然、警察が自宅に押し入ってきて、連行されました。私のことをテロリストの一員だと言うのです。靴、ベルト、財布を取り上げられ、どんなテロを計画しているのか、誰が指示を出しているのか、財源は何か、と問い詰められました。もちろん何も知らないので答えられません。血が出るほど銃で殴られました。殺されるかと思いました。結局、そのまま刑務所に連行され、半年ほど拘留されました。

ーー不当に逮捕されたんですね。

そうです。政治活動とは無関係だったんですよ。ただ、ビジネスを学び、エチオピアで自分の会社を立ち上げたくて勉強してきただけです。

ドラマ『おしん』が導いた日本へ

拘留を解かれた後、職を探したのですが、ほとんどの採用が政府によって管理されているため、仕事を得ることができませんでした。何もしないわけにはいかないので、大学に戻り、MBAを取得しました。母が学費を工面してくれて。

卒業後は、無事就職先が見つかり、しばらくエチオピアの民間企業で働いていました。来日したきっかけは、仕事を通じて、日本でビジネスを学べるプログラムがあることを知ったことです。先進国の日本で経験を積み、母国に戻ってアフリカと日本をつなぐビジネスをしたいと思っていたこともあり、自ら応募しました。それに、日本企業と提携できれば、政治的なことで攻撃されづらくなるかと考えました。

ーーなぜ日本だったんですか?

『おしん』って知ってますか? 

ーーはい。随分古いですが、日本では有名なテレビドラマです。

エチオピアでもとても人気がありました。子どものころ、年に2、3回、おしんの映画を観る機会がありました。せりふは日本語、字幕は英語。日本語はわからなくても、物語には夢中になりました。苦難を乗り越え、事業を成功させたおしんに、私は励まされました。それが日本に興味を持つきっかけでした。

ーーなるほど。それで来日されたんですね。

はい。でも、日本で学び、3年ぶりに帰国したら、国が大変な状況になっていました。エチオピアで大規模なクーデターが発生したのです。多くの死者が出て国は非常事態に陥りました。自分の生い立ちを考えると、命の危険を感じました。あのまま残っていたら、どうなっていたかわかりません。それですぐに日本に戻り、難民申請をしました。

まさか自分が国を逃れるとは思ってもいませんでした。もともとはエチオピアでビジネスをしたかったんです。海外でビジネスをするにはいろいろ大変ですから。若いころに苦難は十分経験しました。だから、勉強したら自分の国に戻りたかったんです。でも、状況がそれを許してくれなかった。

ーー日本以外の国で申請するつもりはなかったのですか?

なかったですね。すでに日本には縁がありましたから。カナダにいくチャンスがありましたが、日本を選びました。

ーーカナダの方が魅力的に感じますが…。

「家族1人につき1年暮らせるだけの資金を預金すれば、カナダに移住できる」と言われました。それでも日本に留まることを決めたのは、心の平和と安定した生活を求めていたからです。日本の良いところは、平和があること。ここで暮らせて幸せです。

あえて言うなら、日本社会は少しプライベートすぎるかもしれません。私の国では人との関わりが多すぎなのですが、対照的ですね。

ーーアベベさんにとって「平和」とはどういうものだと思いますか?

平和というものは、あなた自身が何か問題の中にいない限り、理解できないものなんです。

平和とは「存在すること」です。何かのものではなく、「ただ在ること」。つまり、平和とは「生きること」そのものなんです。平和がなければ、教育も家族も人生もありません。平和は全ての基本だと思います。

平和は測ることができると思っています。たとえば、日本では、財布を落としても誰かが届けてくれる。新宿駅で迷子になった時は、見知らぬ日本人が助けてくれました。学校で銃の乱射が起きることもない。行政が機能している。大小、さまざまなレベルがありますが、こうした一つひとつが平和の証です。

6年越しの難民認定

ーー難民申請中の暮らしはどうでしたか?

RHQ(※)への保護費の申請が却下されてしまったので、生活は大変でした。難民申請をして、しばらくしたら就労ができる6か月間有効の在留資格に切り替わったので、専門を活かせる会社に応募しました。でも会社からは「6か月の在留資格では雇えない」と言われてしまい、ダメでした。最低でも1年はないとと。

それで、イタリアンレストランで皿洗いの仕事をしていました。自分の経験を活かせなかったことは何の問題もありません。母国での苦労を考えたら、生きていくためにどんなことでもできます。

それに、私の中では、どんな仕事も等しく尊い。レストランでも、清掃員でも、人に仕える仕事ですから。難民認定を得てからは、日系企業でこれまでの経験を活かして働いています。毎日、電車で都心まで通っていますよ。

ーー認定を得るまでにはどれくらいかかりましたか?

6年です。短くはなかったです…。難民申請書を提出して、入管での最初のインタビューまで5年待ちました。その1年後に認定されました。ただひたすら待つだけでした。

「入管のインタビューが早く行われるようにしてほしい」と、JAR(難民支援協会)にも何度か電話をしましたが、入管からの連絡を待つしかないんですよね。JARのスタッフからは「インタビューでしっかり答えられるよう、弁護士と相談して、入念に準備することが大切」とアドバイスを受けました。

迫害の証拠書類はいろいろと提出しました。拘留されていたことを示す証拠も提出できたことは審査に影響したかもしれません。通常はそういった証拠書類を出すことは難しいのですが、私の場合、国で起きた出来事が、国際的に様々なメディアでも報道されたので、客観的証拠を出しやすかったということがありました。 

ーー認定を受けてから数年、今のお気持ちを教えてください。

よそ者の私たちに故郷を与えてくれて感謝しています。JARの皆さんはじめ、助けてくれたすべての日本の人々、日本政府に心から感謝します。困っていたとき、私を理解し、支え、住まいや希望を与えてくれたのは日本の人々でした。

恩返しをするにはどうしたらいいか、この美しい社会にどう貢献できるか、どう関われるかを考えています。一生懸命働くこと、人に親切にすることも私にできる貢献の一つです。

ここはもともと私たちのホームではありませんでしたが、皆さんがここを私たちのホームにしてくれました。私たちは15,000キロ離れた異国の部外者でしたが、いま、このコミュニティの一員だと感じています。

難民の人にもっと機会が与えられたらよいと思います。難民には、命を助けてくれた社会に何かを返したいという思いがあるのです。社会の一員としての意識を持つ人も増えると思います。一人ひとりの力はとても小さいかもしれませんが、小さな滴が集まって川となり、やがて海になると信じています。

日本の学校に通う子どもがいる。幼少のころ来日した娘は母語より日本語の方が上手だという。100点の国語のテストを見せてくれた。

〈取材後記〉

インタビューが一段落すると、アベベさんが笑顔で「エチオピアのコーヒーはどうですか」と勧めてくれた。エチオピアでは、日本の茶道のようにコーヒーを淹れてもてなす「コーヒーセレモニー」という習慣がある。

そばで話を聞いていた妻ハンナ(仮名)さんが手際よく準備を始める。生豆を小ぶりのフライパンに入れ、優しくゆすりながら炒る。生豆はそら豆のような青い匂いがする。10分ほどすると豆の表面が艶っぽく黒光りして見慣れたコーヒー豆が現れてくる。香りが徐々に立ち上がる。ミキサーで豆を粉砕すると、さらに濃い香りが放たれる。粉砕した豆をツボに入れて中火で煮だし、温度が下がるのを待つ。ハンナさん手作りのパンをつまみながら、ゆっくりと出来上がりを待つ。

その間、子どもたちが玄関先で育てているハーブを摘んできてくれた。甘さと苦みとスパイスの香りが溶け合う。静かで平和な時間だった。

しかし、難民認定を得た今でも、アベベさんが母国での迫害について詳しく語ることは難しい。母国にはいまだ「平和」が訪れておらず、日本にもエチオピアの政府関係者など体制側の人々がいるためだ。

逃れた先で難民認定を得ることは、難民にとって失った平和を取り戻し、新たな人生を築くうえで極めて重要なことだ。けれども、それは通過点にすぎないのかもしれない。私たちにできるのは、日本に逃れてきた難民を保護することだけではない。世界のどこかで今も続く紛争や人権侵害に目を向け、声を上げ続けることも忘れないでいたいと思う。

※財団法人アジア福祉教育財団の難民事業本部の略称。政府からの委託で、生活困窮が認められた難民申請者への政府による公的支援(保護費)を支給する。保護費の課題については、こちらのJARレポート(難民申請者はどう生きてゆくのかー公的支援「保護費」の課題と生存権)を参照。

▼エチオピアに関する国情報はこちらをご参考ください。
The world’s most neglected displacement crises 2024 | NRC
エチオピア国情報|難民研究フォーラム