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活動レポート

自由への道-エチオピアと日本の狭間で

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イタリア南方の地中海で、アフリカから欧州に渡ろうとする移民・難民を乗せたボートが転覆・遭難する事故が相次いだ。海上で命を落とした人は今年だけで1,800人に上るという。難民にとって、危険なのは航海だけではない。陸・空・海のいずれをとっても、無事に出国し、安全な国外にたどり着けるのは一握りだ。この事態を自身の体験を思い出すように、日本から憂慮する女性がいる。エチオピア出身のブルクタウィットさんだ。彼女も8年前に飛行機で命がけの逃避行を経験している。現在は日本で落ち着いた生活を送っているが、その道のりは壮絶だ。

難民を受け入れている国、日本へ

アフリカ諸国のなかで、昨年の経済成長率1位のエチオピア。経済からは見えないが、政府による厳しい言論統制が敷かれている国でもある。反政府的な発信をするジャーナリスト、編集者、ブロガーは日常的に起訴され、野党関係者も不当に投獄・拷問される状況が長く続いている。ブルクタウィットさんは、そんな母国の状況を変えるべく、勇敢に声を上げてきた一人だ。彼女が勤務していた印刷会社では、通常の印刷業務に加えて、政権批判のチラシなど、取り締まりが厳しい印刷物を極秘で請け負っていた。彼女自身も野党のメンバーとして、デモやリクルート活動に積極的に参加し、国を変えるため奔走した。いずれもエチオピアでは非常に危険な行為で、家族からは常に反対されていたという。それでも、皆が泣き寝入りしてしまっては、状況は一向に改善しない―そんな思いで、母国に自由をもたらすため、自らを危険にさらして活動を続けた。次第に当局に目をつけられ、二度に渡り逮捕された。獄中の環境は最悪で、暗く寒い独房で、1日パン一切れ、シャワーも浴びられないなか2ヶ月に渡って拘留されたという。大金と引き換えに釈放されたものの、逃がしたら殺すとの脅しは家族にも及び、いつまた捕まってもおかしくなかった。

同様の状況下でカナダやアメリカに逃れた仲間にならい、出国の手配を急いだ。最初に観光ビザがおりたのは偶然日本。テレビで見たサムライ以外は何もイメージできなかったが、難民を受け入れている国だ。迷っている余裕はない。「難民である証拠があれば、逃れた先で難民として認めてもらえる。難しいことではない」と仲間から聞き、党のメンバー証や逮捕状など証拠となるものを至急まとめた。しかし、難民である確固とした証拠を持てば持つほど、出国時の危険は増す。空港の荷物検査で見つかれば、即時に投獄されてしまうからだ。ブルクタウィットさんはショルダーバッグの裏地を切って証拠書類を忍ばせ、縫い直した上で、心臓が止まるような気持ちで空港を突破した。

「I'm a refugee (私は難民です)!」

2007年夏、命がけでたどり着いた成田空港。短期の滞在資格はあったが、エチオピアの公用語であるアムハラ語しか分からず、所持金が日本円にすると十分になかったため、入国を拒否され、その場で収容されてしまった。翌々日、再び空港へ連れて行かれ、エチオピアに送還されようとしていることに気付く。「I'm a refugee (私は難民です)!」 ブルクタウィットさんは空港のカウンター前で泣き叫び、力の限り抵抗したという。送還は中止になり、難民申請のフォームを渡されて収容施設に戻された。逃げるために日本にきたのに、なぜ捕まっているのだろう...。混乱の中で毎日泣き、再び空港に連行される恐怖で一晩も眠れなかったという。エチオピアの兄に日本にいるエチオピア人を探してもらった。その人は難民ではなかったが、電話で助けを求めると事情を理解し、探し出したのが難民支援協会(JAR)だった。

空港に出向いて彼女と面会したJARスタッフは深刻なケースだと判断し、信頼のおける弁護士に至急依頼。連絡を取り合いながら、難民認定に向けて支援を開始した。彼女はそのまま成田の入国管理施設で1ヶ月半過ごし、茨城県牛久へ移送された。JR牛久駅からバスで25分、林道を進んだところにある東日本入国管理センターには、在留資格がなく、母国への送還を待つ外国人が収容されている。迫害を受けるおそれのある難民を母国に送還してはならないという難民条約の原則により、難民は難民申請の結果が出るまで送還の対象とならない。しかし、収容所を出るために必要な保証人・保証金の用意が難しいことから、1年以上に渡って収容されることも少なくない。来日してから「外」に出たことがないブルクタウィットさんは日本に何のネットワークもなく、保証人や保証金の手配は当然困難だった。収容所で出会った、ミャンマーやスリランカ出身の難民たちと励まし合いながら、外へ助けを求め続けた。

来日から1年。初めての「外」

1年後にようやく収容施設を出られる仮放免許可がおりた。命がけで出国した彼女が、日本の外の地を踏むまでに1年もかかったのだった。JARは彼女が少しでもスムーズに日本の生活に適応できるよう、頻繁に連絡を取り合って支援した。「入管は怖くて対等に話せる存在ではなかったけれど、JARはいつでもそばに一緒にいてくれて、何でも相談できました」と話してくれたブルクタウィットさんだが、NGOの力がすぐには及ばない制度の冷たさも身をもって体験している。
半年ほど外で暮らし、そろそろ難民申請の結果が出る頃だった。不認定であれば送還のために再収容の恐れがある。ストレスで体調がすぐれない彼女の収容を何とか止められないかと、JARや関係者は奔走した。しかし、仮放免許可の更新のため入管に出向いたところ、その場で難民「不認定」の結果を言い渡され、あっけなく収容されてしまった。当時の心境をこう話す。「半年の間に私を応援してくれる人が見つかりました。一人ぼっちだった最初の収容とは違い、必ずすぐに出られるようにするよ、と声をかけてくれ、私のために動いてくれる人がたくさんいました。帰国はできないのだから、とにかく最後まで頑張ろう。頑張るしかない。そんな気持ちでした。」

それでも、強制送還の恐怖は消えない。過度のストレスで耳が聞こえなくなり、記憶障害にも襲われたという。すぐに送還の準備が進み、成田に移送されるまで追い込まれたが、再度の難民申請を急ぎ、間際で止めることができた。再申請もあっけなく不認定となったが、弁護士とともに裁判をたたかい、2010年10月に勝訴。難民として認定され、在留資格を得たのだった。来日から3年後のことだった。

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「日本からエチオピアのために活動したい」

bruktawit_tate.jpg「認定されて変わったことは、強制送還の心配なく安心して暮らせることと仕事ができること」と話すブルクタウィットさん。といっても、それらがすぐに実現したわけではない。怯えて暮らした日々のトラウマは根強く、認定後も2年ほどはメンタルクリニックを受診した。仕事を得るにも言葉がいる。日本語のプログラムや、JARが開催する就労前準備プログラムにも参加し、働くために必要なことを、努力を惜しまず吸収した。難民認定からもうすぐ5年。4歳の娘とともに穏やかな日々を送れるようになったのはつい最近のことだ。働きながら、育児に勤しんでいる。「いまは何も怖くない。毎日が楽しいし、将来も楽しみだと思えるようになって、本当に幸せ」と目を輝かせて話してくれた。先日、日本国籍への帰化を申請し、結果を待っているところだという。日本での地位をより安定させて、エチオピアの平和のために活動するためだそうだ。日本では空気のように当たり前にあり、ありがたみを忘れてしまいがちな自由や平和。それらがない状況を経験し、声を上げてきたブルクタウィットさん。その過程で心身ともにぼろぼろになり、ようやく恩恵を享受できるようになったいま、それを社会のために活かしたいという意志は揺るぎない。彼女だからこそできることがあるのではないだろうか。

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(2015年6月11日掲載)

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