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家族それぞれの「帰国」

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「散らかっていてごめんなさいね。来週までに全部捨てなきゃいけないんですよ。信じられないでしょ」と快活に笑いながら、自宅に招き入れてくれたティンヌエウーさんと夫のティンウィンさん。カレンダーには「CLEANING FINAL(片づけ最終日)」の文字が来週に迫っている。群馬県太田市での15年の暮らしに幕を閉じ、夫妻は母国ミャンマー(ビルマ)への帰国を決めた。3人の子どもたちは日本に残る。家族で何度も話し合って出した結論だ。

ティンウィンさんが来日したのは1996年。母国ではアパレル業を営む裕福な家庭で育ち、大学卒業後は家業に携わるかたわら、民主化活動へ情熱を注いでいた。パシュトゥン系のルーツを持ち、ムスリムであるティンウィンさんは民族的にも宗教的にもミャンマーでは少数派だ。アウンサンスーチー氏が書記長のNLD(国民民主連盟)の幹部として活動していた。軍事政権下で次々と党員が逮捕されていくなか、家族の強い勧めによって出国を決意し、日本へ逃れた。
母国で生活に困ることはなかったが、日本では苦労の連続だった。5ヶ国語を話せても日本語はできないティンウィンさんが、初めて就いた仕事はパチンコ店の床掃除。その後も見つかる仕事は経験のない肉体労働ばかりだったが、選り好みせず何でも引き受けた。
難民申請をして2年半待った後、珍しく1次審査で難民として認められた。アウンサンスーチー氏との写真など、決定的な証拠となるものを提出できたからだ。まもなく、妻と3人の子どもたちの呼び寄せが許可された。政府から引き続き目をつけられていた家族は、インドにいる親戚の結婚式に出席するという名目で出国。インドで合流し、家族での暮らしが日本で再スタートした。

家族で築き上げた第二の故郷

tinwin_2.jpg当時は難民認定された人への日本語教育や就労支援など公的な定住支援はないに等しかったが、仕事や学校のある妻と子どもたちにとって、日本語の習得は急務だ。関係者にはたらきかけ、ボートピープルと言われたインドシナ難民が対象の6ヶ月の日本語教育プログラムを受けられることになった。半年で学べることは限られているが、少しでも多く吸収するため、プログラム期間は自宅での会話もすべて日本語にしたほど熱心に取り組んだ。
ほどなくして、工場での仕事が見つかったため群馬県へ家族で越した。首都圏より家賃を抑えられたが、子どもたちの教育費のために余念がない。ティンウィンさんの昼食予算は1日150円。どうしても贅沢したいときだけ250円のカップ麺をすする。さらに、日本からも民主化活動に参加するため、週末は昼食を抜いて交通費を捻出し、東京へ通ったという。そんな苦労話に「みっともないから、その話は禁止!私が食べさせてないみたいじゃない」と笑いながらたしなめるティンヌエウーさん。夫婦漫才のような掛け合いだが、苦楽を共に乗り越えてきた同志のような絆の強さが伺える。

彼女もまた大変な苦労をした。工場での仕事に、子どもたちの世話もある。来日当時、3人の子どもはそれぞれ14歳・10歳・8歳。母国では成績優秀でも、言葉の壁からなかなか授業についていけず、「もう学校に行きたくない」と長男が涙を流して帰宅することもあった。困難にぶつかる子どもたちを勇気づけながら、自身も学校のPTAなどを通じて積極的に地域とつながりを作った。
子どもたちが母国の良いところ、日本の良いところを両方吸収して自分自身を形作っていけるよう、夫妻は全力を注いだ。どんなに忙しくても、平日は必ず家族揃って食事をし、母語や母国の慣習を大切にすると同時に、日本の友達との時間も尊重するように心がけたという。子どもたちは親の背中を見ながら努力を重ね、3人とも奨学金を得て大学を卒業し、日本で就職している。

一人ひとりの「ハッピーエンド」

生活の基盤がすっかり日本に築き上げられたいま、ティンウィンさんは帰国を決めた。一時帰国ではなく、永住帰国である。残りの人生を懸けて、ミャンマーの民主化に貢献するためだ。調停の仕方など日本の政治から学んだことが今こそ活かせると考えている。また、ミャンマーでは仏教徒とムスリムの少数民族「ロヒンギャ」の対立が激化しているが、ムスリムである自身の立場を活かして、対話を仲介することがもう一つの目標だという。
一緒に帰国するティンヌエウーさんは不安を拭いきれない。母国で活動すれば、再び夫の身に危険が迫るのではないか。それが一番の懸念だ。また、生まれ育った母国であっても、20年近く離れていれば再適応が必要になる。食べ物から何から、すっかり日本の生活に慣れた心身がついていけるか心配だ。
子どもたちも両親の帰国を手放しには喜べない。「活動家の私が国のために帰ることは応援したい。でも、お父さんがいなくなっていいわけないじゃない、と怒られました。まだ納得はしてないと思う」と話す。ただ二人が強調したのは、これでも帰国にあたって非常に恵まれているということだ。親族が家業を続けていたため、夫妻には帰れる場所と仕事がある。多くのミャンマー難民は、国に戻れたとしても生活の糧が見つかる見込みはなく、断念せざるをえない状況(*)にある。気持ちの上では一日も早く故郷の地を踏みたくても、現実にはさまざまな難しさがあり、実現できる人は少ない。もちろん、日本での生活に馴染み、帰国しないという選択を積極的にする人もいる。

tinwin_3.jpg「難民が帰国できるよう、母国を平和にする支援こそ必要だ」という声がよく寄せられる。そうした支援はもちろん重要だが、それだけで良いだろうか。難民が10年、20年と暮らしていく、あるいは生涯にわたって過ごすかもしれない受け入れ国としてやるべきこともあるのではないか。ティンウィンさんは、日本がこれからさらに発展するために鍵となるのは「多様性を恐れないこと」だと指摘する。適切なサポートと機会があれば、日本社会に貢献できるはずの難民が、いつまでも"他者"として排除されているために、十分に活躍できていないと話す。「日本の良さを芯に持った上で、さまざまな価値観から学べば、よりよい国になるはず。日本は素晴らしい教育や社会資本を持っていますが、このまま多様性を恐れて、何もしなければ世界のなかでの競争力も落ちていくでしょう。もちろん、難民が日本社会のルールを尊重することも重要です。社会統合は片方だけでは成り立ちません。第二の祖国である日本には、多様性を糧にさらに力をつけて、これからもアジアを牽引してほしい」と語ってくれた。
難民にとっての「ハッピーエンド」はさまざまだ。平和になった母国へ帰ること、逃れた先で生きていくこと、両国の架け橋になること―。一人ひとりの希望があり、それは立場によって家族のなかでも異なる。ティンウィン一家の決断は、私たちに難民問題のそんな複雑な現実を教えてくれる。

*民主化が進んでいるとはいえ、引き続き政府から注視され、入国許可がおりない人もいる。また、少数民族については、現在でも戦闘が続いており、帰れる状況にない人も多い

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(2015年11月1日掲載)

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