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活動レポート

日本で「小さな希望」を得るまで-イベンジェさんの話

西アフリカのコンゴ民主共和国から日本に逃れてきたイベンジェさん(仮名、40代男性)が、日本政府の難民認定を受けた。母国の政府を批判したことで逮捕・勾留され、激しい拷問を受けた末に、家族を残して母国を逃れてきた。2016年の日本の難民申請者は10,901人、一方、認定者は28人。認定率が1%にも満たない狭き門を通過したことになるが、認定に至るまで、イベンジェさんは気の遠くなるような長い道のりを静かに歩いてきた。

政府批判をきっかけに拘束、そして拷問

きっかけは、メディアのインタビューだった。表立って政府を批判するのは、勇気のいることだったけれど、こう発言した。

若者には仕事がなく、権力者たちが資源を独占し、汚職がはびこっている―。

DRCongo_map.jpgイベンジェさんは、政権と対立関係にある団体に参加していた。米国務省の報告書によると、団体はコンゴ王国の再興を目指す運動とされ、警官隊や軍との衝突がたびたび起きていた。
政府批判の発言をした日の夜、武装した警官3人が自宅のドアを蹴破って入ってきた。警官たちは家中を捜索した。抵抗すると、後頭部を殴られ、気を失った。気がつくと、窓のない部屋にいたという。時計も窓もない独居房に拘束されるうち、すぐに時間の感覚は無くなった。私服の担当官がやって来て、「なぜ逮捕されたか分かるか」と尋ねた。イベンジェさんはただ「わからない」と答えるしかなかった。担当官は「あの団体のメンバーで、政府を批判したからだ。お前も仲間たちのように死ぬんだ」と続けた。そして、激しい拷問がはじまった。そのとき死は、すぐそばにあった、と淡々と振り返る。勾留されていた施設には、イベンジェさんと同じ言葉を話す看守がいた。部族ごとにそれぞれの言葉があるアフリカでは母語には重い意味があり、最終的に、看守がイベンジェさんを手引きすることになった。
数日後の夜中、ジープに乗せられ施設を出た。同じ言葉を話す看守も一緒だった。道中、看守は「国を離れた方がいい。でないと殺される」と告げた。途中でジープを降ろされると、知人が車で迎えに来てくれていた。拘束から数週間が過ぎていた。自由に出歩けないイベンジェさんの代わりに、知人がパスポートやビザの取得に奔走してくれた。旅行者のビザと航空券が用意された。行き先は日本。「当時、日本について知っていたのは第二次世界大戦のことぐらい。日本に来るとは想像もしなかった」

成田空港からウシクへ 2年間の収容所生活

同じ年の秋、キンシャサから出国し、2日かけて成田空港に着いた。入国管理局の係官に「難民申請をしたい」と伝えたところ、所持金をチェックされ、宿泊施設に連れて行かれた。ホテルの一室が用意されたが、施錠されたドアに触れると警報音が鳴った。数日後には、成田にある入管の施設に移送された。パン中心の食生活を続けてきたイベンジェさんには、入管から出される日本の食事が口に合わず、先の見えない不安もあってか、成田に着いて2週間ほどで10キロ痩せたという。
その後イベンジェさんは、茨城県牛久市にある法務省の収容施設「東日本入国管理センター」に送られた。通称「ウシク」と言われている。収容されたのは、畳敷きの4人部屋だった。センターにはアフリカから来た人もいて、一息つくことはできたが、被収容者の生活環境は過酷だ。被収容者どうしの乱闘騒ぎもあったとのこと。「日本の政府は監獄ではないと言うが、外に出られないことには変わりはない」と言う。
ウシクを出ることができた時には、収容から2年近くたっていた。この時以降のイベンジェさんの立場は「仮放免」だ。収容者の身柄拘束を仮に解く措置のことである。政府から家賃や生活費の少額の支援は受けられることもあるが(途中で打ち切られることもある)、その場合も、就労や、母国から家族を呼ぶことは許されず、病気になっても保険は適用されない。再度収容される可能性もあり、移動も厳格に制限される。例えば、東京都内に住む人は原則、都内を離れられない。埼玉県に住む人が都内にある四谷のJAR事務所や、新大久保のエスニック食材スーパーに行くために県境をまたぐ場合は、入管からの許可が必要だ。イベンジェさんは当時の生活について、こう語っている。

「ビザ(正確には「在留資格」)がもらえない間、自分は無価値だと感じていた。仕事もできず、親としての役目も果たせない」

仮放免中は、1、2ヶ月おきに入管に呼び出される。仮放免を更新するための聴取が目的だが、毎度「なぜ母国に帰れないのか」と同じ問いかけが繰り返される。先の見えない暮らしの中で、再び収容施設に送られることへの不安は常につきまとう。難民認定の再申請、異義申立てなどの手続きが延々と続き、さらに4年余りが過ぎた。わずかだが日本人の支援者とも知り合い、ときどき一緒に食事をするようになった。

駒井弁護士との出会い

komai.jpg来日から5年が過ぎた夏、支援者を通じて駒井知会(こまい・ちえ)弁護士と出会った。イベンジェさんから詳しい話を聴いてすぐに、駒井弁護士は「この人が難民でないなら、だれが難民なのか」と思ったと初対面のときを振り返る。
イベンジェさんは当時、駒井弁護士に「ぼくの人生にはなんの希望もない」と繰り返していた。難民の認定を得るには、イベンジェさんが難民であることについて、難民審査参与員を納得させることが必要だ。そのためには母国で拘束された当時の状況についても聴き取る必要があるが、あまりに激しい拷問を受けたため、イベンジェさんからなかなか言葉を引き出すことができない。駒井弁護士は面会を重ね、時間をかけて少しずつ関係を築いていった。
「話を信じてもらえなかったから不認定になったわけですから、どの点に信ぴょう性がないと判断されたのか。どうしたら信じてもらえるか。分析を重ねて、そこを埋める作業を一緒にやっていきました」と駒井弁護士は振り返る。駒井弁護士は、イベンジェさんとともに、膨大な時間を費やし、認定を目指す作業を続けた。あるときイベンジェさんはこう言った。「どんな結果になるとしても、あなたに感謝し続けるよ」

東京入国管理局から難民認定が告げられたのは、8年目の冬だった。告知を受ける際、付き添った駒井弁護士の目に、入管の文書の文言が飛び込んできた。

「異義申立てに理由がある」。
つまり、訴えが認められたということだ。駒井弁護士の頬を涙が伝った。

イベンジェさんへの難民不認定処分が取り消されるまで、成田到着から数えて2,600日以上が経過している。幼かった子も、大きくなった。苦手だった日本食にも慣れ、天ぷらが好きになった。

難民=「かわいそう」じゃない

アフリカからの難民についてイベンジェさんは、多くの日本人が「貧困や紛争から逃れてきた人」といった一面的なイメージを持っていると感じている。日本で「かわいそう」と言われるたびに、もどかしい思いがよぎる。自分の置かれている状況は、恥ずべきものなのだろうか? 難民が日本にやって来る背景は多様だ。イベンジェさんは、難民の一面的なイメージを変えられないかと考えている。「JARが、難民問題の実情をもっと多くの人に伝えて」と期待する。
イベンジェさんは「政治状況で迫害を受けて日本に来ました」と、できるだけ丁寧に説明している。「自分はごく普通の暮らしをしていて、政治状況で母国を離れなければならなかっただけ。どんな人でも難民になる可能性はある」と考えるからだ。

「小さな希望ができた」。

認定を受けたイベンジェさんは、駒井弁護士に言った。「先生は、時間をかけて、自分の持っているものを捧げてくれた。こんな日本人はみたことないよ」というほど、彼女の支えは大きかった。これから、本格的に日本語の研修を受け、日本での就労を目指す。今年のうちに、母国から家族を呼び寄せようと考えている。

*本記事では個人が特定されないよう記載に配慮しています。

(2017年5月1日掲載)

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