難民著名人-Famous Refugees

「難民」というと、「ネットカフェ難民」「就職難民」など日本ではネガティブな意味で使われることが多く、「難民」に対しても同じようにネガティブなイメージを持ってしまうかもしれません。しかし、「難民」といっても、人権侵害や紛争などで故郷を追われるまでは、私たちと同じように仕事や家があり、家族との日常があった人々です。逃れた先で生活を建て直し、活躍している人も多くいます。えっこの人も?そんな著名人をご紹介します。

アルベルト・アインシュタイン Albert Einstein
(1879-1955)

20世紀の天才科学者として知られるアインシュタインは、1879年にドイツで生まれました。5歳の時に父親から方位磁針をもらい、どんなに動かしても一方向を刺し続ける針を見て、物事の背後には深く隠された何かが存在するはずだということに気付いたといいます。
速く動くものは時間が遅く流れる、重いものの周りでは空間が歪む……。まるでSFファンタジーのような不思議な自然の摂理を、アインシュタインは人類ではじめて発見しました。1920年ごろから彼は一躍有名になり、講演会などで世界各国を飛び回りました。

しかしそのような彼の功績は、祖国ドイツではあまり称賛されませんでした。その理由は―、彼がユダヤ人であったからです。ドイツでは、1930年代になるとナチスが影響力を強め、ユダヤ人に対する迫害が激しさを増していました。身の危険を感じたアインシュタインは祖国を離れる決意をし、アメリカに渡りました。ナチスはアインシュタインの自宅を強制捜索した上で、彼を国家反逆者としました。 もしアインシュタインがアメリカに逃れることができなければ、彼の人生は強制収容所で終わっていたかもしれません。第二次世界大戦が終結するまでに、欧州では数百万人のユダヤ人が亡くなりました。

戦後アインシュタインは、「我々は戦争には勝利したが、平和まで勝ち取ったわけではない」として、差別の撲滅や核兵器の廃絶、世界政府の樹立といった活動に尽力しました。しかし、彼が生きている間にそれらの願いが実現することはありませんでした。

「人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」。アインシュタインが残した言葉の一つです。アインシュタインの死から今年で60年が経ちますが、彼が与えたものの価値は、まだ測られている途中なのかもしれません。

2015年6月の記事を再掲

ワヒド・ハリルホジッチ Vahid Halilhodžić
(1952-)

サッカーが好きな方なら、彼のことをよくご存知だと思います。ハリルホジッチはボスニア・ヘルツェゴビナ出身のサッカー指導者。2015年3月から2018年4月までサッカー日本代表監督を務め、2018年FIFAワールドカップの出場権獲得に貢献しました。

ハリルホジッチは、2014年のブラジルワールドカップではアルジェリア代表チームを率い、同国を初のベスト16に導きました。ベスト8争いでは優勝国ドイツ代表を延長戦まで追い詰めたものの敗退。あまりの悔しさに選手たちと抱き合って号泣したという、人間味あふれる人物です。

そんなハリルホジッチ、実は母国の内戦という苦しい経験をしています。1992年、「第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争」と言われるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発したのです。彼は戦争に反対でした。当時すでにサッカーチームの監督として活躍していた彼は、自分の顔が知られていたことを使って、自宅付近で始まった銃撃戦に割って入って止めようとしました。しかし結局自らが銃弾を受け、重傷を負ってしまいました。それでも彼は病床からテレビを通じて、戦争を止めるよう訴えました。

彼の発言は民族主義者の反感を買い、脅迫を受けるようになり、自宅も焼き払われてしまいました。やむを得ず彼は財産をなげうって、フランスに脱出しました。そしてフランスでサッカー指導者としてのキャリアを自力で再構築しました。

彼は「私の人生には困難な時代がありました。その中で私はサッカーが大好きになりました。サッカーのおかげで私の人生は素晴らしいものになりました」と語っています。苦しい時をサッカーと共に乗り越えた彼は、サッカーに並々ならぬ熱い思いを持っているのです。現在は、モロッコ代表監督を務めているハリルホジッチ。今後の彼の活躍に期待しましょう。

Photo by Clément Bucco-Lechat/2015年6月の記事を再掲


フェードル・D・モロゾフ Feodor D. Morozoff
(1880-1971)

皆さんは、「モロゾフ」、あるいは「コスモポリタン製菓」のお菓子を食べたことはありますか?

これらの洋菓子メーカーは、どちらもフェードル・D・モロゾフというロシア人が生みの親。彼が1926年に神戸に開いた「モロゾフ洋菓子店」を源流としています。今でこそ日本には数多くの洋菓子メーカーがありますが、1926年当時の日本では、チョコレートはすべてヨーロッパからの輸入品。100%の関税が掛けられる超高級品でした。そこでモロゾフ氏は、神戸の市民たちが普通に食べられるチョコレートを作ろうと奮闘。開店から2年後には、僅かながらの利益も計上できるようになりました。その後、モロゾフ洋菓子店は経営方針の違いなどから2つに分かれ、それぞれ現在の「モロゾフ」と「コスモポリタン製菓(※)」となったのです。

さて、モロゾフ氏が日本にやってきた理由は、実はビジネスではありませんでした。彼は1917年のロシア革命で祖国を追われた、難民だったのです。

社会主義国家の樹立を目指すロシア革命では、多くの中産階級の市民が、財産の没収や粛正などの迫害にあいました。この迫害から逃れるため、数百万人のロシア人が国外へ脱出しました。裕福な商人であったモロゾフ氏も、迫害の対象となりました。彼は当時の状況を「大混乱と将来への不安で、家族の命を守るためにロシアを後にした」と語っています。
モロゾフ氏とその家族は、中国、アメリカを経由して、1922年に日本の神戸に移り住みました。そして、苦労を重ねながらも、夢であった菓子店を神戸に開いたのです。

当時、モロゾフ氏のように日本に渡来したロシア難民は、数千人いたと言われています。今でこそ日本は、難民鎖国と言われるほど難民の認定数が少ない国です。 しかし、難民条約すら存在していなかった大正時代に、数千人のロシア難民が日本で生活していたのです。そして中にはモロゾフ氏のように、外国文化の伝道師として活躍し、今日の日本にもその影響を残す人がいました。

※コスモポリタン製菓は2006年に自主廃業し、80年の歴史に幕を閉じました。

Photo by perry_marco/2015年6月の記事を再掲

アンドルー・グローヴ Andrew Grove
(1936-)

アンドルー・グローヴの名前だけを聞いて、ピンとくる方は少ないかもしれません。しかし彼は、きっとあなたもお世話になったことがある、あの企業のCEOであった人です。

アンドルーは1936年に、ハンガリーのユダヤ人の家庭に生まれました。青少年期のアンドルーは、多くの困難に直面します。当時ハンガリーはナチスと協調関係にあったため、ユダヤ人は次々と強制収容所へ送られたのです。幸いアンドルーは、母親と共に知人にかくまってもらうことに成功し、そのまま終戦を迎えることができました。

しかし今度は、東西冷戦の波に飲み込まれていきます。ハンガリーは社会主義体制を採りますが、独裁的な政治に反発した市民が、1956年に大規模なデモを起こします。すると、これを鎮圧するためソ連が軍事介入。首都ブダペストの美しい街並みに戦車が走り、銃弾が飛び交い、数千人が亡くなりました。この混乱のさなか、当時20歳であったグローヴは難民支援団体のはからいで、アメリカに脱出しました。このとき彼のように国外へ逃れた難民は、20万人もいたと言われています。

アメリカに着いたとき、グローヴはわずかなお金しか持っていませんでした。しかしここから、アメリカの地で、彼の快進撃がはじまります。

彼は「勉強がしたい」という情熱に燃えていました。そこで大学に進学し、化学工学を学びます。さらに大学院に進学し、博士号を取得します。そして1968年、当時はまだ社員がたった2人であった半導体メーカー「インテル」に、3人目の社員として入社したのです。

インテルはその後急速に成長。グローヴは1979年に社長、1987年に社長兼CEO、1998年に会長兼CEOとなりました。半導体メモリー市場で敗北し一時は倒産の危機にあったインテルを、マイクロプロセッサー・ビジネスに方向転換して再生させ、世界トップの半導体メーカーとした彼を、ベンチャーキャピタリストとして名高いベン・ホロウィッツは、「偉大な戦時のCEO」としています(HARD THINGS)。

母国では度重なる政治的混乱に巻き込まれ、苦しい日々を送ったグローヴ。しかし、彼が移り住んだアメリカは、彼に能力を開花するチャンスを与えました。グローヴはそのチャンスを最大限に生かし、インテルという超一流企業を作り上げたのです。

Photo by the World Economic Forum/2015年6月の記事を再掲

ワリス・ディリー Waris Dirie
(1965-)

ファッションショーのランウェイやブランドの広告を飾る、華やかなモデルたち。ワリス・ディリーもその一人。スラリとした長身と、透き通った優しいまなざしが印象的です。

トップモデルまで上り詰めるには、誰しも努力が必要です。しかし、ワリスの乗り越えてきた苦難は、人の想像をはるかに越えるものでした。

ワリスは1965年、ソマリアの遊牧民の家庭に生まれます。5歳のとき、通過儀礼として女性性器の切除および縫合(※)を受けます。それ以後、ワリスは排尿や月経のたびに、激痛に苦しめられます。13歳のとき、家畜と引き換えに60代の男性と結婚することを父親に決められます。結婚を嫌がったワリスは、母親の助けで逃亡することができ、砂漠の中を一人歩いて首都モガディシュへ行きます。そこから更に、母の妹のはからいで、ソマリア大使館のメイドとしてロンドンへ行くことになります。ロンドンでは路上生活も経験しますが、18歳のとき、アルバイト先のマクドナルドでファッションカメラマンに声を掛けられ、モデルとしてのキャリアをスタートさせます。

しかし、モデルとして活躍を始めてからも、ワリスは女性性器切除の精神的・身体的苦痛に苦しみました。ワリスは、「なにか納得できる理由があれば、自分にされたことを受け入れられるかもしれない」と、その理由を必死に考えました。しかし「考えても、一つも納得できる理由が見つからなかった」といいます。

1997年、ワリスは初めてメディアで、女性性器切除を受けたことを語りました。トップモデルという華やかな世界と、残酷な女性性器切除という二つの世界を、ワリスという一人の女性がつなげたことは、社会に大きな衝撃を与えました。そこから、女性性器切除に対する関心が急速に高まり、国際的な廃絶運動が巻き起こります。同年、ワリスは当時のアナン国連事務総長によって、女性性器切除廃絶のための国連大使に任命されました。ワリスの活躍によって、アフリカ地域では女性性器切除を禁ずる法律が成立するなど、廃絶に向けた動きが少しずつ進んでいます。

想像を絶する苦難を乗り越え、カメラの前で美しく輝き、人々を魅了してきたワリス。今彼女の活躍は、その美しさにあごがれる人たちだけでなく、性器切除に苦しむ人たちや難民の女性にとって、希望の光となっています。

※女性性器切除 / Female Genital Mutilation(FGM) 思春期までの女児の外性器を切り取る(または女性性器の一部に傷をつける)社会的慣習。アフリカ、中東、アジアなどの開発途上国で現在も行われている。貞操、純潔の象徴とされるが、切除により、性交や出産時に痛みと潜在的危険を伴うようになり、また、性感染症に感染する危険も増加するため、弊害は大きい。(国連人口基金東京事務所)

Photo by thesun.co.uk/2015年6月の記事を再掲


ナディア・エレーナ・コマネチ Nadia Elena Comăneci
(1961-)

「コマネチ」と聞くと、ビートたけしさんのギャグが思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。この「コマネチ」の由来は、1970〜80年代に活躍したルーマニアの体操選手、ナディア・コマネチです。コマネチは、1976年に14歳でオリンピックに出場。近代オリンピック史上初めて10.0の満点を叩き出し、3個の金メダルを獲得しました。白いレオタードで床や平均台の上を自由自在に跳ぶ姿は「白い妖精」と呼ばれ、世界中の人々を魅了しました。

しかし、華々しい彼女の競技生活の裏には、祖国の政治的問題が陰を落としていました。当時のルーマニアはチャウシェスク大統領による独裁体制下。チャウシェスク一家が豪奢な暮らしを送る一方で、国民の生活は困窮し、秘密警察による監視で自由も奪われていたのです。

幼い頃から体操の才能を発揮していたコマネチは政府の支援のもと、トレーニングを受け、食べる物にこそ苦労しませんでしたが、厳しい監視の目が向けられていました。指導を受けていたコーチがアメリカに亡命してからは、監視は一層厳しいものに。「いつどこで誰と何を話しているか、すべて把握されていた」といいます。さらに、絶対的な権力を保持していたチャウシェスクの息子からは、愛人関係となることを強要されました。28歳のとき、彼女は二度と戻れないと覚悟の上、ルーマニアからの脱出を決意。監視の目をかいくぐってハンガリーへ出国、オーストリアを経由してアメリカへ渡りました。

幸いにもその後ルーマニアでは民主化が進み、7年後、彼女は再び祖国の地を踏むことができました。そしてその後は、体操競技の指導者やオリンピック委員会の役員を務め、現在に至るまで、スポーツの発展に尽力しています。

Photo by RV1864

フレディ・マーキュリー Freddie Mercury
(1946-1991)

フレディ・マーキュリーは、言わずと知れた人気ロックバンド、Queenのボーカリストです。「I Was Born To Love You」「Bohemian Rhapsody」「We Are The Champions」など、彼らの名曲を挙げればきりがありません。さてQueenは「イギリスのロックバンド」と言われますが、フレディの生まれはイギリスではありません。一体彼は、どのような軌跡を辿ってきたのでしょうか。

フレディの両親は、インドに暮らすゾロアスター教徒のパールシー。父親は英植民地政府のオフィスで会計の仕事をしていました。その後、同じく英領であった東アフリカのザンジバル(現在はタンザニアの一部)に、仕事の関係で移り住みます。そこで生まれたのが、フレディでした。フレディは幼少期をザンジバルで過ごしたのち、インドの全寮制の学校で学び、16歳でザンジバルに帰国しました。

しかしそのころ、イギリスから独立したばかりのザンジバルは内情が不安定で、民族間の対立が深まっていました。ついに1964年1月革命、暴動が発生。5千~1万人以上の人が命を落としたと言われています。混乱の最中フレディの家族は脱出に成功し、イギリスに渡ることができました。

こうしてイギリスで新たな人生をスタートさせたフレディは、カレッジで芸術を学びながら音楽活動に打ち込み、その才能を形にしていきました。1971年にはQueenを結成。重厚なサウンドと抜群の歌唱力は急速に人気を集め、彼らの音楽は世界的に成功を収めました。しかし、フレディはエイズを発症、45歳の若さでその生涯を閉じました。

生前彼は、ロックスターとしてのイメージが壊れることを恐れ、自分のルーツについて多くを語りませんでした。しかし彼の母親は、家に帰ってきたときのフレディは幼いころと何ら変わらず、母の手料理、故郷の味を食べたがったと言います。新しい時代を作り出した彼の音楽やパフォーマンスの源泉には、彼の多様なバックグラウンドと、安心できる心の故郷の存在があったのかもしれません。

Photo by kentarotakizawa

ヴィクトル・スタルヒン Victor Starffin
(1916-1957)

現在では、多くの外国人選手が活躍する日本のプロ野球。みなさんは、日本プロ野球史上一人目の外国生まれの選手が、難民だったことをご存知ですか?彼の名はヴィクトル・スタルヒン。1916年、ロシアで生まれましたが、2歳のときにロシア革命が勃発。彼の一家は旧体制派として迫害を受け、革命軍に追われることになってしまったのです。スタルヒンが9歳のとき北海道の旭川にたどり着き、そこから日本での生活がスタートしました。

スタルヒンは勉強も運動も得意な少年でした。少年野球のチームに入ると、すぐに地元のスターに。高校3年生のときには巨人軍に引き抜かれ、プロ野球選手としての道を歩み始めました。はじめのころは思うように球を投げられず、泣きながらマウンドに立っていたというスタルヒンですが、猛練習の末に3年目からはエースとして台頭。巨人軍の6連覇に大きく貢献しました。

しかしその一方で、彼は無国籍であることに苦しめられました。日本国籍を取得しようとすると「どう見ても日本人ではない」と外見から一蹴されてしまいます。「外人」や「亡命者」というレッテルを貼られ、仲間も本当には心を許してくれないと感じ、悩んでいたといいます。さらに第二次世界対戦が始まると、彼は「敵性人種」と見なされ、警察だけでなく道行く人々からも敵意の目を向けられました。戦況が悪化すると、野球界までもが「外人」がいることを嫌がり、スタルヒンを巨人軍から追放しました。

そんな屈辱の日々を耐え忍んだスタルヒンは、戦後、ふたたび野球の世界に戻ることができました。200勝、300勝と新記録を打ち立てて日本野球界を盛り上げ、39歳で現役を引退。そしてそのわずか2年後、交通事故で突然この世を去りました。

スタルヒンの生きた時代の日本は、外国生まれの人には特に生きにくい場所だったでしょう。しかし現在でも、生まれや社会的バックグラウンドが原因となり、肩身の狭い思いをしている人がいます。外国生まれの野球選手として栄誉と屈辱を味わったスタルヒンの物語は、過去の話で終わらせてはいけないのではないでしょうか。

マデレーン・オルブライト Madeleine Korbel Albright
(1937-)

Madeleine Albright現在も流出が続くシリア難民。かつてない大きな難民のうねりに、国際社会では受け入れをめぐってさまざまな議論が巻き起こっています。そんな中、アメリカで難民の積極的な受け入れを訴える人たちのなかに、マデレーン・オルブライトがいます。「オルブライト国務長官」の名で覚えのある方も多いのではないでしょうか。彼女は、クリントン大統領の下で国務長官を務め、当時のアメリカで史上最も上位の公職に就いた女性です。

彼女が難民の受け入れを強く主張する背景には、彼女自身の難民としての経験があります。オルブライトは1937年、チェコスロバキアに生まれました。しかしそのわずか2年後、同国はナチス・ドイツの占領下に。ユダヤ人であった彼女の親族は次々と強制収容所に送られ、両祖父母は収容所で亡くなりました。幸いにもオルブライトは両親とともにイギリスに逃れ、生き延びることができました。終戦後は帰還し、父は外交官として新たな国づくりに尽力します。しかし今度は、国内で共産党と非共産党の対立が激化。1948年には排他色の強い共産党政権が発足します。非共産党であった父は公職を離れざるをえず、オルブライトが11歳のとき、家族でアメリカに逃れました。このように、オルブライドは2度難民となる経験をしたのです。

アメリカで高等教育を受けたオルブライトは、国際社会への深い理解と冷静な思考力が評価され、次々と政府の要職に指名されました。1993年からアメリカ史上初の女性の国連大使として活躍したのち、1997年に国務長官に就任しました。彼女の後はライス国務長官、クリントン国務長官と女性閣僚の活躍が続いています。

「難民を保護しなければ、アメリカが築き上げてきた国際社会での信用や道徳的権威が無駄になってしまいます。私たちは、イスラム教徒とそれ以外の人を分けるのではなく、罪のない人を殺していいと思う人と、そうでない人を分けるべきです。すべての人の命を尊重する—-それが、私たちが国際社会において示すべき姿勢です」。彼女はそう訴えます。難民として自分を受け入れてくれたアメリカに、強い感謝の気持ちを抱いてきたというオルブライト。彼女の言葉には、自分の国の価値観に対する強い信念と誇りが込められているのです。

(2016年6月20日当初掲載、2020年2月10日、2021年3月29日更新)