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活動レポート

「難民として認められて本当に安心した」-アフリカ出身男性の話

interview3.jpg 初夏のような陽気の5月某日、アフリカ出身のコフィさん(仮名)が待ち合わせの駅に笑顔で現れた。「もうここに住み始めて半年たつけど、静かで便利ですごく気に入っている」と嬉しそうに話す。今住んでいるアパートは自らインターネットで探し、偶然英語が話せた不動産屋の担当者と交渉して契約したそうだ。明日から始める部品工場でのアルバイトも同じくインターネットで探した。
 
 そんなコフィさんだが、ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。母国での政治活動が政府の標的となり、繰り返しの逮捕と拷問を経験。宙吊りにされ、長時間の鞭打ちを受けたこともあるという。「このまま収容所にいては命はない」と収容所を脱走。仲間が手配してくれた飛行機チケットを持って、なんとか出国した。
(*写真左上:当時を思い起こすコフィさん)

「日本には人権があるから」

 コフィさんは、チケットの行き先が日本だと知り「なぜ日本なのか?」と仲間にたずねたという。仲間は「ビザが最初におりたのが日本だった。それに、日本には人権があるから」と答えたそうだ。当然、日本語は話せないし、知り合いもいないが、他に選択肢はない。命を守るため、彼は日本行きの飛行機に乗り込んだ。

「どこにも行先がない(No way out...)」-来日直後に感じたこと

tada_finalweb.jpg 日本の空港に降り立ち、まず向かったのは東京。母国の政府からは物理的に遠くなり、身の安全は確保したものの、知人が誰一人いないこの地で、これからどうすればいいのか、誰を頼ればいいのか見当もつかないという新たな壁にぶち当たった。都内に到着した時にはすでに所持金は尽き、たまたま出会ったアフリカ系男性が所有するガレージに滞在させてもらったという。時期は真冬。出身地は寒さと無縁だったため、ガレージ内の車で過ごす夜は極寒で、「人生で最悪の冬」であり、先が見えず、自分の運命は一体どうなってしまうのだろうと不安でいっぱいだった。幸いにも、ガレージを貸してくれた男性から「難民で困っているならJARに連絡したらいい」と、難民相談用のフリーダイヤルをもらい、その日に電話をして助けを求めたと話す。相談予約を取り、数日後、四谷の事務所を訪れた。母国の政府からしつこく追跡されてきた経験から、自分自身のことを話すときは警戒するという。はじめて訪れる団体で不安はあったが、事務所で働くスタッフの様子、相談室の壁に貼ってある難民への情報チラシを見て、「ここは難民のために働いている団体に間違いない」とわかり、最終的には「相談をしたススム(支援事業部スタッフの田多)が専門知識を持ち、説得力があったので、信じてすべてを話した」と当時を振り返る。(*写真右上:分厚い提出資料を持って話す田多)

「難民として認められて本当に安心した」

 JARから難民申請の方法についてアドバイスを受け、母国での迫害を証明する証拠書類をなんとか整えた。しかし、入国管理局は英語の書類を受け付けておらず、提出するためにはすべて日本語に訳さなければならない。当然、日本語はできない。翻訳できる知人もいない。再び相談に訪れた彼と話した田多は、プロボノで関わっている弁護士事務所に協力を打診した。その結果、翻訳を含む全面的なサポートを得ることができ、彼は無事すべての書類を提出することができた。
 その後、入国管理局によるインタビューが数回あり、申請から約1年後、難民認定を得ることができた。「いま、入国管理局から認定の紙をもらった!」と興奮した様子の本人から報告電話を受けた田多は、「そんなに早く認定されるケースは極めて稀なので、僕もとても驚いて、本当に難民認定なのかどうか、電話越しに書類の内容を何度も確認した」と当時を振り返る。コフィさんは「母国に帰ることは、つまり死ぬということ。だから、難民として認められて日本にいられることが決まり、本当に安心した」と話す。

「日本社会に恩返しがしたい」

 認定されたコフィさんはとても前向きに日本で暮らしていく決意を話してくれた。「母国に平和が訪れるには、数十年かかるだろう。日本で暮らしていくには日本語が必要。難民として認めてくれた日本は自分にとって、もう第二の故郷。言葉だけでなく、日本の文化、習慣や伝統も学びたい」と意欲的に話し、その日もポケットサイズの日本語辞書を持ち歩いていた。また、「自分を難民として認めてくれたこの社会に一日も早く恩返しがしたい」と、熱く、繰り返し語ってくれた。「自分は難民として認められて本当に幸運だった。でも、皆がそうなるわけじゃない。だから、早く自立して恩返しがしたい。恵まれていない人たちを助ける団体を立ち上げて、難民でも、日本人でも、この社会で困っている人たちのためにできることをしたい」と力強く話してくれた。そして、故郷に残した婚約者と、まだ一度も見ていない息子を呼び寄せて、安心して暮らせる日本で家庭を築くことがもう一つの夢だという。
 認定率が1%以下という厳しい現実を乗り越え難民認定を得ても、日本社会で自身の経験や能力を発揮して活躍することは決して容易ではない。母語に加えて英語が堪能でも、日本語ができなければ就労先を見つけることは困難だ。コフィさんのように、故郷に帰れない分も「第二の故郷」に尽くしたいと心から思っている難民は多い。そんな彼らが活躍できる機会をつくることができれば、社会に新たな活気が生まれるかも知れない。JARとしては、日本に逃れてきた難民が適切に保護されるよう引き続き支援するとともに、保護の先に難民が活躍できる多様な場のある社会づくりを目指して活動を広げていきたい。 

編集後記

 顔、名前、出身国など、コフィさんのことがあまり詳しく書かれていないことに気付いた方もいらっしゃると思います。彼は認定を得た今も、母国の政府による追跡を警戒し、同国出身の人と会っても、ご自身のことは明かさないそうです。日本に逃れてきても、母国での過酷な経験を背負い続けるのが難民なのだと改めて考えさせられました。彼が母国での経験を話すと、相手に、現実に起きたこととは信じられないという顔をされることがよくあるそうです。「想像力を持つことが大切。JARには日本の人に、世界にはこんな過酷な経験をしている人が現にたくさんいることを伝え続けて欲しい」と、発信の意義を再認識させてくれました。

*あなたのアクションで救われる難民がいます。皆さんのご協力よろしくお願いします。
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(2013年6月20日掲載)

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