2026.01.22

僕はサハリンの人(後編)|故郷から遠く離れて

2026.01.22
望月優大

その人には3つの名前がある。3つの言葉を話す。日本、朝鮮、ロシアの狭間で翻弄されながら、90年を超える時間を生きてきた。

彼は、サハリン島で生まれた。

写真:金サジ(以下同)

1934年に日本時代の樺太(サハリン島南部)で生まれた白石基(ベク・セッキ)さんは、一人の朝鮮人として、大日本帝国とソ連の両方を少数者として生き、それぞれの崩壊をその内側から目にした。

2001年にはサハリンから韓国へと「永住帰国」し、現在は安山(アンサン)の「コヒャンマウル(故郷の村)」という集合住宅で暮らしている。

前編と中編では、1945年8月までの日本時代、そしてソ連時代に入って1950年代末に妻の尹金玉(ユン・クムオク)さんと結婚した頃までの経験をお届けした。

「僕はサハリンの人」
前編|彼に日本語で話が聞ける理由
中編|家族がいない男たち
・後編|故郷から遠く離れて(本記事)

最後となるこの後編では、1960年代から現在までの長い道のりを凝縮してまとめている。

その記憶は突然のモスクワ行きから始まり、様々な人や仕事との出会いを経て、韓国への「永住帰国」に連なっていく。

【注記】以下、石基さんの語りの中では「朝鮮(人・語)」と「韓国(人・語)」という言葉が両方使われており、それらが相互に互換的な形で用いられている場合もあれば、あえて使い分けをされている場合もある。基本的には、語られた言葉のままで記している。

モスクワ放送局でアナウンサーに

――ホルムスクの朝鮮学校で先生をした後はどうされたんですか?

1964年にね、モスクワの放送局に呼ばれたんですよ。

――え?モスクワの放送局ですか?

うん。ロシアの放送局って言いましたら、全世界の言葉で社会主義を宣伝しましたよね。

石基さん夫婦が暮らす永住帰国者用の集合住宅「コヒャンマウル(故郷の村)」

(朝鮮語の放送は)北朝鮮からアナウンサーが来てからやってたんですけどね、フルシチョフと金日成と仲が悪くなったもんですから、北朝鮮のアナウンサーたちがみんな帰ってしまったんです。

して、朝鮮語をわかってるロシア人がいないんです。サハリンに来てから募集したんですよね。試験して、50名ぐらい集めてからね。僕受かったんです。

――何人受かったんですか?

二人。女性一人と男性一人と。

――アナウンサーまでされていたとは驚きました。

モスクワ行ったときは、僕一人で行ってたんです。うちの女房がね、息子二人目を明日産むか明後日産むか、わからないような状態にいたんです。

飛行機って、空に飛んでるのを見たぐらいなもんでね、1回も乗ったことないんです。飛行機がトゥーポレフ(ツポレフ)っていう名前があるんですよ。一番初めに出た旅客機がTu-114。

長距離旅客機で、ユジノサハリンスクからモスクワまで真っ直ぐ。12時間飛びました。

――(スマホの画像検索で出てきた機体や機内の写真を見せながら)これですか?

そう、これなんです。ここに座ったんです。このプロペラの前、窓の横で。いやあうるさい。轟音で寝られないんです。面白かったのがね、朝に飛んだものが、モスクワに着いたらまだ朝です。

したら、放送局のほうから迎えに来てくれましたね。部屋が二つあるアパートの部屋をくれました。5階建てのうちで3階にいたんです。地下鉄のソーコル駅のすぐ横なんですね。ソーコルったら鳥の名前です、ハヤブサ。

戦争が終わってから何年も経ってないんです。ですからモスクワにはほかの都市から行っても住めません。制限がかかってるんです。モスクワで何かの仕事を責任もってやる人しか住めないんですよね。

――放送というのはラジオですよね?

ラジオ放送。ちょうど僕が朝鮮語で放送してる横にね、こちらにはモンゴル語があったし、こっちのほうは日本語なんですよ。岡田嘉子、わかります?

――(1937年に)樺太からソ連に亡命した有名な女優ですよね。恋人(演出家の杉本良吉)と一緒に。

そうそう。樺太から(ソ連に)逃げてからね、(ソ連が杉本を)すぐ銃殺して、岡田さんを刑務所に入れたんです。して、刑務所を出てからアナウンサーに入ってきたんですよ。僕、横でしょっちゅう会いました。昼ごはん食べに行くとね、一緒に座ってから話しました。

その方が(1972年に)日本へ帰ってから、ちょっと住んでてからまた(1986年に)戻ってきましたもんね。モスクワで亡くなりましたけど。岡田嘉子さんを自分の目で見た人は僕ぐらいでしょ、多分。

――その時代の岡田さん、本当にそうですね。

モスクワにいましたらね、条件がいいんです。ホルムスクでは、僕が朝鮮学校で働きながら、朝昼晩して、ようやくパンにバターつけて食べるくらいでしょ。120ルーブル。モスクワ行ったら級があるんですよね。1級は330(ルーブル)、2級が270、3級が230。その3級もらったんですけどね、サハリンより2倍多いんです。

僕たちは、朝鮮語でアナウンサーを1日に2時間ぐらいしかしないんです。テープに入れてから録音して、一日遊んでるんです。原稿も誰か別の人が作ってるんです。ただ読むだけ。それなのに、それぐらいもらいました。

その時代に店に行くでしょ、何も無いんです。モスクワの放送局で働くっていったら、特別な店に入ってね、中央の幹部たちがもらうようなものをみんな買えるんです。(その店は)「エリセエフスキー・ガストロノム」っていうんです。赤の広場の近くに。

そこに入ったら世界にあるもの、なんでもありました。券をくれて、持っていくと買えたんです。党の幹部とか責任者たちが、どんな形で立派に住んだのかよくわかるでしょ。全然違ったんです。全然違う世界で住んでます。

――ラジオの放送はどんな内容だったんですか?

同じ韓国語ですから、北も南も聞くんですよね。モスクワからハバロフスク中継して、韓国のほうにも送ったんです。ですけど、北を賛成しながら、南を批判する、そういう放送なんですよ。朴正煕が大統領のときなんです。

僕に対しては、韓国も北も同じ朝鮮人なんですよね。北とか南とかで分かれたのはロシアとアメリカのおかげで分かれたし、戦争したのも僕たちがやったもんでないんですから。

ここ(ソ連)に住みながら、この国(北朝鮮)を賛成して、この国(韓国)を反対するということは、僕に対しては合わないんです。ちょうど2年間経ったら(サハリンに)帰るって。金日成が許可して(北朝鮮から)またアナウンサーが入ってきたもんですから。

――気持ちとしては、合わないところもあったわけですか。

僕たちは幼いときから日本の軍国主義教育でしょ。社会主義の教育を受けてなかったもんですからね。ロシア人と一緒に住みながらも、社会主義に住みながらも、こっちを自分の目で見たし、こっちも見えるし、思考的に比べることができますよね。

モスクワの赤の広場で撮った写真(下)。上の写真に映る男性は、父が戦時中に樺太から九州への「二重徴用」で離散、戦後に日本から北朝鮮に「帰国」し、そこからさらにサハリンに戻ってようやく再会できたという

――モスクワで2年間働いて、そのあとサハリンに戻ったんですね。

モスクワに住む権利はあったんです。放送局でなくても、その時代に朝鮮語で出てる雑誌、日本語で出てる雑誌、そこで働けたんです。だけど、僕が樺太で生まれたでしょ。樺太が故郷なんですね。

モスクワ行って住んでみたらね、どこ行ってもアスファルト。僕たちは一生土だけ踏んで住んでいたもんですからね、樺太の土を踏みたいんですよ。おっかしいもんですよね。モスクワの大きな都市へ行ってもね、やっぱり樺太に帰りたいんですよ。

して、サハリンに帰ってきたら朝鮮学校が無いんです。フルシチョフのときに(民族別の学校を)無くせって言って、義務的に無くされたんです。僕が習ったもの、学校の先生しかできないでしょ。それも韓国語なんですよ。

朝鮮語新聞、数学教師、日本語の通訳

――朝鮮学校が無くなって、仕事が無くなってしまったんですね。

仕事してから食わないとダメでしょ。(朝鮮)学校も無いから、(ホルムスクの旧)王子製紙工場行ってからね、労働者を時間時間に合わせて運動させるんですよ。運動の先生のような形でもって。

石基さんの仕事と年金の記録。石基さんは数多くの仕事に就いたため、2冊になっている

――そういう仕事があったんですか。

あったんです。1年間やったら、面白くないんですよね。そのときにちょうど朝鮮語の新聞社があったんです。『レーニンの道へ』っていう党の機関紙なんです(旧『朝鮮労働者』、現『新高麗新聞』)。

大陸から来た(朝鮮)人たちが働いていましたけどね、その人たちが年取ってから、サハリンで朝鮮語わかってる人たちが入れるようになったんです。ちょっと手伝ってくれないかっていうんですよ。ユジノサハリンスクに行ってから、住宅もらってから。

――新聞社ではどんな仕事を?

新聞を買うでしょ、買って読みながらね、これに対して自分がなんか書く、(それを)新聞社に送るんですよ。したらそれを直してからね、新聞にあげて。

――読者からの投書を直す仕事ですか。

直す仕事。普通の人が書くのと、新聞で出すのと違うでしょ。だから新聞に出せるように直すんですよ。その人(投稿した読者)も金もらうし、直した僕も金をもらうと。

――投書をした読者のほうもお金をもらえるんですね。

僕も師範学校で勉強してましたけどね、新聞に色々出したんですよ。したら金くれるんですよね。それを始めてから、色々買ったりして。

――ご自身でも学生時代に投稿されてたんですね。直すというのは、文章が間違っているのを直すということですか?それともソ連の政治的によくないことを直す?

みんな入ってます。一番初めは政治的問題です。なんぼ良くても、社会主義に合わなければ出せません。それから字が間違ってたら間違ってる。サハリン州の党本部で朝鮮語がよくわかってる大陸の人がサインしなければ、新聞を発行できなかったんです。

――内容が細かくチェックされていたわけですね。

新聞社で3年ぐらい働きましたよね。新聞社のほうで「日本から代表団が(極東部の)ハバロフスクに入るから通訳で手伝ってくれ」って。久しぶりに日本語で話してみたいもんですからね、行ったんです。

行ってみたらね、KGBのほうで監視してるんです。僕の後ろについてるんですよね。晩にはホテルに戻るでしょ。この人が来てからね、「今日は誰と何の話をした?」と、こうなるんですよ。

僕わかってたけど、「あんた誰だ?」って。(もしその人が)「自分はKGBだ」と言ったら、義務ですから報告するんですけどね。「KGBでない、違う仕事だ」と。したら、「なして俺があんたに報告しないとダメなのか?」と、報告しなかったんですよ。

――それは、言いたくなかったんですか?

僕が悪いことをしない以上、監獄に入るような、そういうことは無いんです。酒飲んで酔っ払って仕事しないとか、悪いことしない以上はね、僕をどうすることもできないんですよ。

ハバロフスクからサハリンに帰ってきてからね、すぐユジノサハリンスクのKGBに呼ばれました。「うちのほうでは人を送ってから、あんた、なして手伝ってもらえなかったか?」って言うんですよ。僕が言いましたね。「あの人KGBって言ってなかったから、僕が報告するったら新聞社の社長に報告するぐらいで、ほかの人に報告する権利がない」って。

その時代に党とかKGBと(手をパシッと叩いて)こうなったら、全然できません。もう新聞社で座って仕事するような格好でないんです。僕が要らないことをやった以上、ここで働けませんよね。辞めされられる前に、自分で辞めてしまったんです。

――そういった経緯で新聞社を辞めたんですね。

そのときユジノサハリンスクにうちはもらってましたけど、家族はホルムスクにいたんです。(新聞社を辞めて)ホルムスクに来てからね、ロシアの夜間学校に行ったら、校長が「いやあちょうどいい、数学科の先生いないからやれ」って言うんですよ。

ロシアの学校で教師をしていた頃(左上が石基さん)

――今度はロシアの学校で先生に。

モスクワに行ってるときに、通信大学っていうんですか、入ったんです。数学専門でやってましたからね。最後、サハリンの大学に移してから、3年で卒業しました。大学の卒業証書を持ってる者と持ってない者と、賃金が違うんですよね。朝鮮学校と、ロシアの夜間学校、中学、高校、みんな入れてから、合計で18年間働いたんです。

――朝鮮語に加えてロシア語でも教えたというのは本当にすごいです。

して、今度は市の共産党本部から、「あんた日本語わかってるから、日本の船がホルムスクの港に入るようになったから通訳がなかったらダメだ、だから学校辞めて通訳やれ」って言うんですよ。サハリン船舶公団がホルムスクにあったんです。

その中のインテルナショナルクラブというのがね、外国から船が入りましたら、その船員たちを色々なサービスを組織して連れて歩いたり、見せたりするような仕事なんです。

教師時代、個人宅の部屋を借りて日本語を教えたことも。当時の生徒たちから贈られたロシア語辞典

日本の船がね、ポロナイスク(旧・敷香)とか、(サハリン北部の)ノグリキとかアレクサンドロフスクとか、丸太を積みに入ったんですよ。この東海岸のノグリキに北方民族がたくさん住んでるんです。

西海岸には、アレクサンドロフスクの上のほうにホエ、タンギ、マンギタイっちゅう村があったんです。そこへ材木を積みに入ってくるんです。南のほうは日本時代に伐採してから何も木が無いんです。(一番北にある)オハのほうへ行きますと、ツンドラで木が無いんです。

――色々な言葉ができるからこそ、ソ連の外から来る人との関わりを持つ仕事をしてきたわけですよね。

はじめはね、船員たちも、カピタン(船長)も、みんな日本人なんです。2、3年経つと、カピタンと機関長だけは日本人で、その下は韓国人なんです。

少し経ちましたらね、船長とか機関長は韓国人で、日本人は全然いないし、フィリピン人が入って。船舶公団の中で通訳として20年働きましたね。年金に入るまで、67歳ぐらいまで働きました。

石油開発で「サハリン1・2」ありますね。そこでも夏休みのときに3ヶ月ぐらい働いたんですよ。日本の人たち来てからね、ロシア人に教えたんです、海底の穴を掘りながら。パイプラインをコルサコフまで入れたんです。

石油開発の現場で通訳をしたときの書類

ペレストロイカからロシア時代へ

――通訳をされていた頃は、ソ連のペレストロイカからロシア時代に入っていく時期にも重なりそうですね。

したもんですから、色々なお客さんたちがホルムスクにたくさん入るようになりましたね。「釧路」っちゅうレストランができて、合弁の会社もできたし、2年間働いてみましたけどね。日本語わかってる人いないもんですから、あっちに呼ばれてこっちに呼ばれて。

それからロシアのフェリーが、稚内と小樽に入るようになったんです。その船長の通訳としてね、この船に乗って歩いたんです。

――稚内や小樽の港では、石基さんも船から降りられたんですか?

船員手帳を持ってると上陸できるんです。ですけどね、面白くないのは、日本の金が無いんです。1日もらうのが、日本の金で700円とかしかくれないんです。それが手一杯五日ですよね。その金で何します?そういうことなんですよ。2、3回ぐらい行って、1万円ぐらい残ったら、それでなんか買ってくるとか、そんな話。

――「日本」に行ったのはそのときが初めてですか?

初めて。樺太で生まれましたけど、日本という国に行ったことがないんですね。ソ連時代には行こうとも考えていなかったし、全然行けないもんですから。通訳として働きながら、その時代に特別に『赤旗』とか『社会新報』とか日本の新聞が入ってきたんですよ。それを一生懸命勉強したらね、博士になったかもしれません。

ペレストロイカが始まってから、日本の方たちが来てね、サハリンに住んでいる日本の人たち(残留邦人)を調べ始めたんですよ。そのときに手伝ったんですよね、どこに誰が住んでっちゅうのを。したら、日本の方と一緒に遊びにこいという形で、東京から札幌、稚内と、1週間ぐらい回ったんです。

1996年の「第11次樺太残留邦人一時帰国団」に同行して日本へ行ったときの写真

ペレストロイカになって、北朝鮮にも1回行ったことがあるんですよね。金日成が生きてるときに、その誕生日を祝するっちゅう形でもって、サハリンから朝鮮人を集めて派遣したんですよ。

――北朝鮮に行ったときには、(父親の故郷である)開城にも行きましたか?

行きました。平壌(ピョンヤン)、元山(ウォンサン)、開城(ケソン)、沙里院(サリウォン)、色々街を回って。金剛山(クンガンサン)も行ってきましたし。父が生きてたときに、(開城の)昔の建物の横に川があったっていう話、少し聞いたことがあるんですね。そこへ行って、見てみたことはあります。

――お父さんやお母さんは、生前に「朝鮮に帰りたい」と言うことはありましたか?

全然言わなかったんです。

――きっとペレストロイカはとても大きな出来事でしたよね。

僕に対しては、ペレストロイカが大きな役割を果たしましたね。ゴルバチョフさんがいなかったら、とんでもない。今韓国に住んでないはずだし、(ソ連から)なんも出られなかったし。ロシア人はゴルバチョフさんをいやがってますけどね、僕たちに対しては相当助けてくれた人なんです。

――当時は、何か大きな変化が起きているというのはわかっていたんですか。

いやあ、全然わかりません。1週間も、1ヶ月も経って潰れるんでなくてね、パララララと、こう潰れました、国がね。いやあ、たまげた。

日本時代に天皇陛下がああだこうだっていう教育を受けたような形でもって、社会主義、共産党、ああだこうだって教育したんですよね。それがポロロって潰れたんです。

国がふーって潰れながら、品物が無くなりました。全然無くなりました。1ルーブルしたものを10ルーブルで売るんですよ。そうやってインフレが起きていくんですね。タバコ無くてねえ、色々なものを拾って吸ったりしたなあ。

ペレストロイカが始まってから4、5年は、全然国の権利が無いもんですからね、市長も下の警察も力が無いもんですから、どうもなんないんです。親父がいない国で住んでるような、そんな形なんですよね。たまげたもんですよ。

僕が作家であればね、本でも書いたら売れたかもしれません、その時代。

韓国への「永住帰国」

――2001年にサハリンから韓国への「永住帰国」を決めたきっかけはありましたか?67歳ごろのことですよね。

戦前、1943年、44年ごろに徴用で来た人の子どもたちは、僕の歳ぐらいになってますけどね、その人たちの父母は故郷が南にあって。(それに対して、サハリンで生まれた)僕たちの故郷っていうのは、僕に対してはサハリンでしょ。

して、ここで(安山の「コヒャンマウル」への入居が)2000年から始まったでしょ。僕、全然行こうとしなかったんです。一瞬経ってみましたらね、みんな友達が(韓国に)行ってしまった。

(通訳の仕事で)フェリー乗ってから、小樽とか稚内に行ったり来たりして、(サハリンに)帰ってきてみたら、誰もいないんです。それで息子に言ったら、「(韓国に)行ってみて面白かったら残るし、面白くなかったら戻ればいいじゃないか」って。

――(妻の)金玉さんの意見はどうでしたか?

お互いに「行こうか」って言ったら、「うん行ってみよう」という形でもって、来ましたね。気に入らなかったら帰ろうという形で来たんです。

2001年の永住帰国後に取得した韓国のパスポート。現在はロシアと韓国の二つの国籍をもつ

――韓国はそのときが初めてですか?

フェリーで釜山に来たことはあります。釜山以外は歩いたことありません。僕はその前に日本を見てから(韓国に)来ましたけどね、日本を見ないで来た人たちはびっくりしてました。店に行ってもびっちりあるでしょ。特にペレストロイカやってからは石鹸もなかったんですから。

(最初に入った部屋が)ここ(安山)でなく仁川で、部屋がここの半分しかないんです。して、何もしなくても、サハリンで普通もらえるぐらいの年金をくれるんです。もしここに来てなかったらね、僕はガンで死にました。

――ガンにかかったんですか?

仁川に来て4年ぐらい住んでから。大腸のガンなんですよ。肛門から血が出るんですよね。調べたら「50% 50%です」と。半分半分。とにかく手術をしないとダメだと言うんですよね。トイレ、出られないんです。手術してから1ヶ月ぐらいトイレで住みました。治ったんです。もし僕がホルムスクにいたら、死にましたよね。

――無事に治られてよかったです…。仁川の部屋から(安山の)コヒャンマウルに来たときに、部屋は自分で選びましたか?

僕たちが自分で選ぶんではなくてね、「この部屋が空いてますよ」という形でもって、誰か亡くなったら、部屋が空いたら、そこに行けっていうところに来るんです。

「コヒャンマウル」の敷地内にある集会スペース。若い世代の人々がロシア語で会話していた。現在90代の石基さんと年齢が近い1世の方たちは、年々少なくなってきている

――今はより若い世代の方もこちらに来ていますよね(2020年にできた韓国の特別法で永住帰国の対象者が拡大)。

ここに来てる人、(サハリン生まれの)2世がいますけどね、ここで住んでいる以上はロシア語でたくさんなんです。仲間たちとしゃべるからね。

僕たちは韓国語80%、ロシア語20%ですね。今の若い人たちは100%ロシア語ですから。2世って言いますけど、50歳になってるんですよ。

サハリンに住んでた韓国人がこちらに来る場合には、韓国で父母が住んでなかったら来られないんです。だから、サハリンで亡くなった父母の子どもたちは来られません。

――実際に韓国に来て住んでみて、サハリンに戻ろうという考えは起きなかったですか?

ここの生活とサハリンの生活比べたらね、行きたくはないんです。普通、生まれたところですからね、サハリンは行きたいんです。ここの生活良いでしょ、残った命もありませんからね、ここで死にます。

――生活がしやすいから。

僕は心理的にサハリンです。サハリンの人なんですよね。今でもね、もし明日でも死ぬとしたら、サハリンに行って死にたいです。

取材後記

「コヒャンマウル」への二度目の訪問後、韓国から日本に戻った私は大阪にいた。そして、宿に着くなり「天満大阪昆布」という昆布屋さんのホームページを開き、そこに載っている喜多條清光社長の番号に電話をかけた。面識は全くない。

今の時代、知らない番号からの電話になど出ないほうが普通だ。「昔サハリンでご一緒された白石基さんからの伝言があって…」とだけ留守電を残し、幸運であるよう願った。すると、同じ日のうちに折り返しの電話がかかってきた。

喜多條さんの存在を知ったのは、彼が30年以上も前に「サハリン昆布」の輸入に挑戦し、その際に石基さんに出会って通訳などで随分と助けられ、とても尊敬しているという内容のブログを公開していたからだ。

そのブログのことを石基さん本人に伝えた際に、「日本に戻ったら、喜多條さんとWhatsApp(通信アプリ)で話せるように連絡してみてほしい」というお願いをもらっていた。

電話口の喜多條さんは、この依頼に快諾以上の快諾をされた。数日後、天満大阪昆布の事務所を訪ねた私は、喜多條さんのスマホにWhatsAppのアプリをダウンロードし、石基さんの番号を入力して、通話ボタンを押した。

「もしもし?あ、つながった!白さん?喜多條です。元気ですか?」「はい、おかげさまで」

写真:望月優大

旧交を温めた二人の思い出の詳細にまで、ここで立ち入るのは一旦やめておこう。ただ、二人の嬉しそうな様子を隣で見させていただき、私も嬉しかった。

石基さんとのしばしの会話のあと、喜多條さんは1980年代後半から90年代前半ごろのサハリンで撮った写真を見せてくれた。これまで石基さんの言葉で聞いてきた風景が、カラーになって目の中に飛び込んでくる。

サハリンの海と、白い雪の景色。40年以上の思い出が詰まったホルムスクの自宅の写真に映る石基さんは、幼い孫娘の隣で小ぶりなソファに腰掛け、細身のリラックスした左手の指先にタバコを挟んでいた。壁にかかる美しい絨毯には見覚えがあった。韓国の今の自宅で目にしたのと同じものだったからだ。

私はサハリンに行ったことがない。そんな私にも、彼の「故郷」が少しだけ見えた気がした。

写真:喜多條清光さん提供

僕たちには「自分の国」が無いという石基さんは、自分のことを「サハリンの人」だと言った。

いくつもの国の思惑が交差し、それらが様々な人間の移動や行き来とも重なり合う島で生まれ育った彼は、朝鮮人であり、日本人であり、ソ連人、ロシア人、そして韓国人でもあるような、そんな人生を送ってきた。大切な故郷の境界は不確かで、その運命はいつも、別の大きな誰かの手の中にあった。

私が日本語で質問する。その質問を石基さんが理解し、流暢な日本語で答える。今、そのやりとりが可能であることの根底から、歴史に刻まれた支配の痕跡が消えることはない。

しかも、彼はそうした形で人間の生をつかみ、深いところで規定してしまう構造や関係性の中を、日本とだけではなく、複数の「国」とのあいだでずっと生きてきたのだ。

その豊かな人生は常に少数派で、例外的で、日々の立ち振る舞いには繊細さや用心深さを必要とし、そしてしばしば困難な条件や選択を迫られるものだった。幼い頃も、大人になってからも、筋を通すのが簡単であれば、どれだけ良かっただろう。

石基さんの笑顔が印象に残っている。穏やかに微笑んだり、元気いっぱいに爆笑したりする。だが時折、鋭い眼差しでぐさっと射抜かれた。その目と言葉と身振りとが伝えようとする何かを、想像しようとした。必ず失敗しているのだが、やってみようとした。

「自分のいない国、自分が戦死した国は無いんですよ。自分がいねえ以上は。そうでしょ?死んでしまったら、国があっても無くても関係が無いんです。僕の人生は僕の人生ですよ。だから、自分が生きなきゃダメなんです。誰がなんと怒っても、自分が生きなかったら意味が無いんです」

私には「自分の国」がある。私は「日本人」である。そう自信満々に言うことができたとして、それで一体どうするのだろうか。その安心や特別感と引き換えに、私は何を失い、そして誰から何を奪うのだろうか。

日本語で彼の言葉を書き取って届けるとき、私は私に、私は私から、この問いかけを一緒に届けたいと思った。

ボルシチやトラジ(桔梗の根)のキムチが並ぶ食卓(写真:望月優大)

CREDIT:望月優大(取材・執筆)、金サジ(取材・写真)

TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

ライター。著書に『ふたつの日本——「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書、2019年)。ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』から初の書籍化となる『密航のち洗濯——ときどき作家』(共著)で第46回講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。@hirokim21