2026.01.20

僕はサハリンの人(前編)|彼に日本語で話が聞ける理由

2026.01.20
望月優大

その人には3つの名前がある。3つの言葉を話す。日本、朝鮮、ロシアの狭間で翻弄されながら、90年を超える時間を生きてきた。

彼は、サハリン島で生まれた。

写真:金サジ(以下同)

この聞き取りは貴重な記録だと思う。

「僕はサハリンの人」
・前編|彼に日本語で話が聞ける理由(本記事)
中編|家族がいない男たち
後編|故郷から遠く離れて

日本、朝鮮、ロシアが重なる島

2024年、私は韓国の安山(アンサン)という街で白石基(ベク・セッキ)さんに出会った。

石基さんは、植民地期の朝鮮からウラジオストクを経て、日本時代の「樺太」に船で渡った両親のもと、1934年の夏、上敷香(現・レオニードヴォ)近くの「山奥」で生まれたという。

日露戦争の講和条約である1905年のポーツマス条約以降、大日本帝国はサハリン島の南部(北緯50度線以南)を領有した。「内地」から樺太への移民はどんどん増加し、アイヌやニヴフ、ウイルタなどの先住民らを数で圧倒する。

同時代には、日本の帝国支配の広がりやロシア革命なども背景として、石基さんの両親のように、朝鮮から樺太に渡る人々も徐々に増えていった。さらに戦時になると、日本は樺太各地の炭鉱などに、朝鮮から数多くの人々を次々に動員した。

「昭和二十年度」とある国民学校の通知表。戦争が終わったこの年、石基さんは4年生だった

私は石基さんから「日本語」でお話を聞くことができた。その背後には長い歴史がある。彼は子どもの頃、白川石基(しらかわ・いしき)という名前で呼ばれていた。

1941年に日本の「国民学校」に入学した石基さんは、教育勅語を暗誦し、御真影を納めた奉安殿の前では脱帽、最敬礼する少年時代を過ごした。幼い頃の記憶をたどると、両親が家庭で話す朝鮮語を理解はできても、自分が話す言葉は日本語だったという。

1945年8月にソ連軍が樺太に侵攻したとき、樺太の住民は約40万にまで増加しており、うち朝鮮人も2万人以上を数えた。

その後、日本軍が「国内最後の地上戦」とも呼ばれる戦闘に敗れ、サハリン島の南部がソ連に編入される過程で、人口の9割以上を占める日本人の多くは島を離れていく(戦時下の緊急疎開、戦後の引揚げ)。

国民学校(小学校)1年生の頃の写真。「日本人」の同級生たちはその後いなくなった

だがその一方で、朝鮮人たちのほとんどはサハリンに置き去りとなった。大日本帝国からの「解放」は「切り捨て」と表裏でもあり、同時に、朝鮮半島は米ソによって南北に分断された。冷戦構造が強固になり、朝鮮戦争が勃発する中で、様々な家族の離散が固定化していく。

石基さんが夫婦でサハリンから「永住帰国」したのは、冷戦が終わってからしばらく経った2001年のことだ。妻の尹金玉(ユン・クムオク)さんは4歳年下で、朝鮮南東部の昌原(チャンウォン)で生まれている。父が「徴用」で炭鉱に動員され、家族も樺太に渡った。それから約60年後、夫ともに「韓国」に帰国した。近い世代には、故郷への帰還を長く強く思いながらも、ついには果たせなかった人々も数多い。

夫婦での普段の会話を聞いていると、ロシア語と朝鮮語とが混ざり合っている。石基さんは戦後のサハリンにできた朝鮮学校で朝鮮語を学び、のちにはロシア語も身につけていく。セルゲイ・グリゴーリヴィチという3つめの名前も持ち、ソ連の夜間学校で数学や日本語を教えた時期もあった。モスクワの放送局から、彼の朝鮮語が世界中に届いたことさえあったという。

1959年にホルムスク(旧・真岡)で結婚、韓国には2001年に「永住帰国」した

私がお二人と出会うきっかけを作ってくれたのが、写真家の金サジさんだ。韓国に永住帰国した方たちが住む安山の「コヒャンマウル(故郷の村)」という8棟の集合住宅を訪れる予定があると聞き、2024年10月にご一緒した。この記事の写真も(私が撮った数枚を除き)そのときに金サジさんが撮影したものだ。

冷戦終結と前後してようやく動き出した韓国への永住帰国は、日本政府も建設資金を拠出した「コヒャンマウル」への入居が始まる2000年ごろから本格化した。永住帰国の対象は1945年8月15日以前に生まれた人とその配偶者に限定されてきたが、2020年に韓国で新法が制定され、翌年以降は直系卑属(子ども)一人とその配偶者にも拡大されている。

安山の街までは、同じ京畿道にある仁川(インチョン)の国際空港からバスで1時間ほどだ。私は2024年12月にも2度目の訪問をし、丸二日間に渡って追加で聞き取りをさせていただいた。

90歳を超えてもなお石基さんの記憶力は凄まじく、細かなエピソードをどんどんお話された。合間合間には、色々な文化と歴史が流れ込んだ素朴で豪華な手づくりの食事もごちそうになった。そして、1年後の2025年11月に再びコヒャンマウルを訪れ、お話をまとめた原稿を読んでいただいた。

食事は毎日8時、12時、17時に。「何でも食べるし、時間に合わせて食べるのは健康です」(写真:望月優大)

「日本の人たちと住むときにも、ロシア人と住むときにも、特別な条件で僕たちは住んでいましたよね。自分の国が無いから」

石基さんは日本時代とソ連時代のいずれをも少数者として生き、いずれの崩壊をもその内側から目にした。かれらの人生と日本との間には深い関わりがあるが、今の日本で生きる人々の多くは、その現実をほとんど知らないだろう。私は知らなかった。

【注記】以下、石基さんの語りの中では「朝鮮(人・語)」と「韓国(人・語)」という言葉が両方使われており、それらが相互に互換的な形で用いられている場合もあれば、あえて使い分けをされている場合もある。基本的には、語られた言葉のままで記している。

サハリンで生まれた理由

――石基さんのご両親は二人とも朝鮮から樺太に移られたんですか?

日本時代は、朝鮮が日本の植民地として一つでしょ。韓国も北も無かったからね。僕の父はちょうど真ん中の開城(ケソン)で生まれた人なんです。

1919年に「三・一(独立)運動」があったでしょ。そのときに参加してからね、捕まって日本の監獄に入ったらしいんです。

開城府を本籍とする植民地期の戸籍。父が死後に唯一遺した革のトランクに入っていたという

で、そこから逃げて北まで行って、僕の母親と結婚して、ウラジオストクを経由してからね、闇の船でサハリンに行ったんですと。母はね(朝鮮北東部の)咸鏡南道の甲山(カプサン)なんです。

――お父さんは日本からの独立運動に参加されていたんですね。

とにかく朝鮮半島が日本のときでしょ。そこで三・一運動に参加したもんですからね、思想的に問題があったらしいんです。したもんで逃げてから、満洲へ行ってからね、山で伐採しながら働いて。

(父親の)自分の話では「満洲」ですけど、結局満洲ではなくね、ロシアの領土らしいんです。そのときの満洲はロシアとの国境が無かったらしいんです。

サハリンまで行った目的はね、その「満洲」の山頭が日本人なんですと。して、その人がね、極東で革命があったでしょ、ロシア革命があったもんですからサハリンへ逃げてしまって、(父親が)稼いだ金を払わなかったんです。

――それでサハリンまで追いかけて行ったわけですか。

金もらいに行ったんですと。ホルムスクっていう街があるでしょ、真岡、そこで捕まったんですけどね、金も無いし、一銭ももらえなかったんです。そんな話をしてました。

もしそのとき(サハリンに)逃げてこなかったらね、僕がいねえがわかりません。(1930年代にソ連・沿海州の朝鮮人が)中央アジアのほうに(強制移住で)引っ張られていったでしょ、ウラジオストクから。

結局サハリンに入ったのが1920年か、それぐらいなんですよ。はっきりはわかりませんけどね。(両親が)結婚してからサハリン来たでしょ。子どもが二人くらい生まれたらしいんですね。して、その子どもたちが死んだんですと。その下に生まれたのが10歳上の姉なんです。大正生まれなんですよね。去年亡くなりましたから、99歳で。

――お姉さん、1924年ごろのお生まれなんですね。サハリン生まれですか?

みんなサハリン生まれです。二人目の姉がね、僕より6歳上でサハリンに住んでます。生きてるんです。僕の妹が5歳下なんです。先に死にました。ここ(韓国)に来てからね、サハリンに行って(=永住帰国後に再びサハリンに戻って)、サハリンで死にました。

――妹さんも一度は韓国に来ていたんですね。

金浦(キンポ)で10年以上住みましたよね。(韓国で)旦那さんを亡くしてから(サハリンにいる)娘のほうに帰ったんです。(一番上の姉は)ここに来るように許可が出ましたけどね、そのときにもう体の具合が悪くて来られなかったんです。

韓国・安山の「コヒャンマウル(故郷の村)」。サハリンからの永住帰国者は韓国各地で暮らす

――ご両親はいつ頃のお生まれですか。

恥ずかしい話ですけどね、はっきりわからないんです。父が1886年ぐらいの生まれなんです。して母がね、10歳下なんです。1800年代の人たちです。

(父親は)朝鮮で監獄に入ったらしいんですよ。したもんですからね、体の具合が悪くて。腹の腸がね、肛門から出るんですよ。そういう病気なんです。

僕がわかっている以上、1回もどこかで働いたことがないんです。上敷香の山奥に住んでたんです。村もなく、僕のうちしか無かったんです。

父が働かなかったもんですからね、苦労苦労。食べ物もない。母がどっか行って手伝ったりしてからね、少し稼いだ金でもって食べたりして。砂糖なんか買ったらね、飴つくってから、売り歩いたり。

山に住んでたもんですから、針金で輪つけてからね、木につけておくんです。餌を置いといて罠にして、うさぎが飛んできて、輪にかかるんですよ。1年に、1匹か2匹とるんです。

それを持ってきたら、皮剥いでから肉食べるんですけどね、親父がその骨を砕いてから骨まで食べるようにしたんですよ。叩かれたんです、骨まで食べなさいって。それぐらい食べ物が無かったんです。

戦前はね、お金さえあればなんぼでもあったんです。でも、お金が無かったんですね。

【補足】第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が起きると、日本はアメリカなどと共に外部から干渉することを決め、1918年夏にウラジオストクに上陸する(シベリア出兵)。日本は米英仏などが撤兵したあとも単独で1922年まで派兵を続け、1920年から25年までの期間はサハリン島の北部を占領した。また、大戦を経て様々な帝国が崩壊し、「民族自決」の機運が高まる中で、日本が植民地化した朝鮮でも1919年に「三・一(独立)運動」が起こる。石基さんの両親は、こうした時代状況の中で朝鮮を離れ、サハリン島に渡った。

日本時代の小学校と戦争

――石基さんご自身もサハリン生まれということですよね。

本当は僕が昭和9年(1934年生まれ)なのに、パスポートに昭和10年(1935年)となってるんです。生まれたときにすぐ登録しなかったらしいんです。して、学校行くようになりましたら、登録しなかったら罰金するでしょ。1年遅れて登録したらしいんです。

だから、日本時代の誕生日は親父がつくった誕生日なんですよ。昭和10年2月10日なんです。母の言葉に言いましたらね、本当の誕生日は昭和9年8月15日なんです。月が真ん丸だったっていうんですね。昔のカレンダーの8月15日は真ん丸なんです。

――旧暦の15日は満月ですもんね、そういうことですか。それで、先日90歳になられたわけですね。

8月15日というのは何の記録にも残ってないんですよね。気持ちだけ、ここにしか無いんです。

――そのことを書いてもいいんですか。

書いてください。今でも誕生日として白ご飯食べてるのは、8月15日なんです。孫たちも8月15日に電話してるんですよ。

上敷香で生まれて、日本の学校で2年生まで行ってから、3年生のときに大谷に来たんです。今のソーコルっちゅうところです。日本時代の飛行場のある村なんですよね。1943年ごろからは、勉強する時間より飛行場をつくるとか、学生にやらせたんです。

日本時代に一緒に住んでるときには「朝鮮人だ」と馬鹿にされるときもありましたけど、学校行ったら勉強がよくできますから、そうは馬鹿にされないんですよね。なぜ僕を見てから「キムチ、キムチ」とか「ニンニク」とかいう話をするのか、わかんなかったんです。

あとから見たら、日本の人たちは(日本に)帰って、(自分はサハリンに)今度残ったでしょ。ははあ、僕は日本人じゃないんだなということが、あそこでわかったんですよね。

「勅語」という言葉、わかります?

――教育勅語ですか?

ええ。「朕惟フニ我ガ皇祖…」。それをね、天皇陛下が書いたもんですから、4年生のときに暗記してから、みんなで書いたんです、義務的に。

したら担任の先生がね、「いやあ白川さん偉い」って僕に「秀」をくれたんですよ。普通は「優」、「良」、こうですからね。「秀」をもらった人は僕一人しかいないんです。

それなのにね、校長先生がそれを見て「なして朝鮮人に『秀』をやったのか」と、僕の前で担任の先生を怒ってるんですよ。頭に残りましたね。今でも残っています。

それでもって、僕が朝鮮人で、日本人じゃないっちゅうことが頭に入りましたよね。はーっははは(笑)。

――独立運動にも参加されていたお父さんからは、子どもたちに対して「お前たちは朝鮮人だから…」といった言葉はあったのでしょうか。

言わなかったし、全然政治的問題を口にしませんでした。父の口からね、1回も聞いたことがないんです。三・一運動に参加したっちゅうのは母の口から聞いたしね。

うちの父は、自分の名前を変えてしまったんですよ。幼いときの名前ではなく、自分でつくった名前なんです。隠れてるような形で住んでるんです。

――お父さんの過去のことは、お母さんからいつごろ聞いたのですか。

(戦後に)朝鮮学校に入ってから、朝鮮語を習い始めてからね。日本時代は絶対言いませんでした。どんなことをやったか、(サハリンに)いつ来たかも全然わかんなかったんです。

今と違って、親と子の対話の時間がなかったでしょ。母が働きに行ったんですよ。鉛筆持って働くんでなく、労働でしょう。線路なんか修理するときに、うちは母が行って仕事して。家に帰ったらご飯炊くでしょう。話す時間、全然なかったんです。

軍国主義の日本時代には、朝鮮のチョゴリとか、朝鮮の着物を着れなかったんですよね。ですけどうちの母ね、「見れ!」って形でもって着て歩いてたんです。

――堂々と。

グスベリ(セイヨウスグリ)ってわかりますか?酸っぱいんです。僕のうちの真向かいに日本の方が住んでたんですけど、牛も馬も豊富のうちなんです。小さいときですよ、(その家に植えてあるグスベリを)食べたいでしょ?隠れて少し取って食べたら見つかったんです。

向こうのおばさんがね、母に「あんたの息子がうちに来てグスベリ盗んで食べたぞ、朝鮮人だからだ」って言ったんですよ。母がね、僕を4時間、木に結んだんです。朝鮮人みんなを馬鹿にされながら、お前を育てたからって。どれぐらい恐ろしかったか、今でも覚えてますよ。

天皇陛下がね、(1945年)8月15日に放送したでしょ。その(向かいの)家に行ってラジオ聞いたんです。まだ11歳でしょ、僕も直接聞きましたけど何の話か全然わからないんです。集まった日本の方が泣いてるんです。

――その頃(8月17日)に、石基さんが生まれた上敷香で、朝鮮人の方たちが日本の警察署で殺された事件がありました。

僕が上敷香から1943年度に大谷に来たんですけどね、来なかったらそこで死んでたかもしれません。サハリンでその事件が二つあったんですよね。瑞穂と上敷香で。

【補足】ソ連による樺太への侵攻後、日本の警察や住民が朝鮮人にソ連のスパイ容疑をかけるなどし、虐殺する事件が複数起こった。これまで上敷香と瑞穂での事件が知られていたが、散頃(現・ネルピチェ)と鵜城(現・オルロウォ)でも起きていたことが昨年8月11日の毎日新聞で報じられた(ソ連当局の資料などによる在サハリン研究者の研究に基づく報道)。

――戦争について、ほかに覚えていることはありますか。

45年8月の戦争が終わってから、男性だけ残して、女性と子どもたちはみんな日本へ帰れと。船に乗って行こうと。そのときは日本人、朝鮮人、混じりなんです(戦時下の緊急疎開)。

うちでも親父と、それから姉の旦那さんと、男二人置いて、お母さんときょうだいで、客車でなく石炭を運ぶワゴン、列車に乗ってからね、(北海道への船が出る)コルサコフ(旧・大泊)まで行く途中でユジノサハリンスク(旧・豊原)に行ったんですよ。

したらね、昨日だか一昨日だか、魚雷でやられて沈没しちまったから船がないと。ですから、この列車でまた戻るんです、大谷まで。半分ごろまで来たらね、バーって爆発する音が聞こえるんです、ユジノサハリンスクのほうから。

あとから聞いたら、ちょうど僕が立ってたユジノサハリンスクの駅に爆弾落としたんです、ロシア軍の飛行機が。今でも広場がありますけどね、その下が防空壕でした。そこに爆弾落としたんです。みんな死んだんですよ。

逆に、もう数日早かったら船で死にました。大谷に住んでた付近の人たちはね、その船に乗ったんです。

【補足】石基さんの話はおそらく、大泊を出た三隻の船が1945年8月22日の早朝にソ連軍とみられる潜水艦によって北海道留萌沖で攻撃された「三船遭難事件」(公式の犠牲者数は1700人超)、そして同日午後3時にソ連軍機が豊原を攻撃した「豊原空襲」(犠牲者数は少なくとも100人以上、最大500人)を指している。樺太や千島では8月15日以降も戦争が続いていた(犠牲者数など麻田雅文『日ソ戦争』を参照)。

ソ連時代への移行と朝鮮学校

――小学校4年生のときに戦争が終わったんですね。

戦争終わったでしょ、ロシア人来たでしょ、日本人も韓国人もロシアの法律に従うようになったんですよ。サハリンに初めに来たロシア人は、西のほうでドイツと戦って、家もみんな焼けて何もない、そういう人たちが来たんです。

僕が大谷に住みながらね、1946年度か47年度くらいです。おじいさんとおばあさんが住んで、日本の方なんですよね。ちょっと遠いところに行って畑を起こしてから、じゃがいもでも植えて、畑と行ったり来たりしながら農業してるんですよ。

ロシアの兵隊がね、(その夫婦の家から)布団を担いで盗んで行ってるんです。鉄砲持ってからね。で、このおじいさんが「泥棒だ」と叫んだらバーンと撃ってしまったんです。

自分の目で見ましたからね。本に出るのは、英雄的に戦って解放しました、ああだこうだと、みんな良いことしか書いてないけど、そういうものはどこにも載ってないんです。

僕も姉が6歳上でしょ。戦争が終わったときに僕が11歳ですから、16歳、17歳ですよね。ロシア人の兵隊がうちに入ったら「娘」っていうんですよ。して、姉が丸刈りにして。男みたいな服着て歩いてたんです。

どの民族もいい人もいるし、悪い人もいる。ロシア人も朝鮮人も日本人も同じです。みんなが悪いとは言えませんよ。悪いものもいれば、いいものもいるし。民族的にああだこうだ言わないけど、このものは悪いもの、このものはいいですよっていうぐらいなもんです。

――自分の目で見られた。

こういう悪いこともありましたけどね、ロシア人が来てからすぐ家が無いでしょ、日本人と一緒に住んだりしたんです。同じ家の中に部屋を分けてからね。

ロシアの将校たちに部屋を貸した人はアメリカの缶詰ね、こんな大きい缶詰なんです、豚肉とか牛肉が入ってる、それを半分は日本の人にやってから一緒に住んだり。泥棒も入らないんです、将校がいるんですから。

(大谷の)飛行場の横に小さい川があるんですよ。秋になると鮭がびっちり上がってくるんです。日本時代は自由にとれないでしょ。ロシア人が来てもとれないんですよ。戦争終わってから1948、49年度までは誰も関心無かったんです。だから自分でとりたいときに行ってから、そういう形で生活してたんです。

――石基さんの学校はどうなりましたか?

大谷に住んでた日本の方たちを疎開させるのが遅かったんです。ほかの町は日本の学校が無くなりましたけど、大谷の村には日本の学校があったんです、ロシア人が来てもね。ですから僕が6年を卒業しましたら、日本の人がみんな疎開して帰ったもんですからね、学校が無くなったんです。

そんときに、スターリン時代ですから、民族文化を発達させるっちゅう形で朝鮮学校ができたんです。日本の人もみんな疎開して帰ったでしょ。日本の学校(があったところ)に朝鮮学校ができてから。で、言葉がわからないもんですから、3年生に座れっちゅう形で。

朝鮮学校時代の石基さん(左上)

――朝鮮語がわからないために再び小3に。

うちでも父母たちは朝鮮語で話したらしいんですよ。それを聴き取れたのは覚えてるんですけど、自分では一言もできなかったんです。日本の学校では勉強よくできたほうなんですけど、朝鮮学校行ったらバカになったんです、言葉がわからないから。

ビンタ張られてからね、1ヶ月で(朝鮮語を)習ったんです。同じ朝鮮人の仲間で日本語使うなっていうもんですからね、日本語わかっても使わなくなったんですよ。

朝鮮学校がね、村には4年生(まで)しかなかったんです。5年、6年、7年がロシアの中学校なんです。して、ブイコフ(旧・内淵)ってわかりますか?炭鉱あるとこね。そこに7年生(まで)の学校があったんです。そこを卒業したんですよね。

――まずソーコルの朝鮮学校に入って、その後にブイコフの朝鮮学校に移ったんですね。

(果物の)フレップってわかりますか?ソーコルとブイコフの間には、あれがどこにでもありますからね、食べるんです。魚も豊富な場所ですよ。天候がもっと良かったらいいんですけど、寒いんです。

コルホーズでのジャガイモ掘りのときの写真。一番左が石基さん。「これ僕です、めんこいでしょ」(写真:望月優大)

ソーコルに1948年度まで住んでたんですよね。日本の人、みんな帰ってしまったでしょ。ソーコルに軍の飛行場があって、日本人がつくった飛行場。ロシアの軍隊が来てからね、軍がいる飛行場の横に朝鮮人がいないようにしちゃったんです。基地みたいなもんだから。

――それもソーコルを離れた理由になっているわけですか。

面白いのがね、僕たちは「日本時代に住んでた朝鮮人」なんです。してから、1948年度ごろから、北朝鮮から(労働者がサハリンに)入ってきたんですよ。それから大陸のほうから、ウズベキスタン、カザフスタンのほうからね、昔からロシアに住んでた朝鮮人が入ってきたんです。

で、朝鮮人が3種類に分かれたんですね。僕たちは「昔からの朝鮮人」。もう一人は「北朝鮮からの朝鮮人」。もう一人は「ロシアから来た朝鮮人」。その中で一番権利があったのがロシアから来た朝鮮人で、共産党員でしたし、ロシアの学校で勉強して、ロシア語が達者です。

スターリンの派遣で、サハリンに住んでいる朝鮮人に社会主義を教えるために来たんですよね。学校の先生とか、KGBとかをしていたんです。日本時代に何をしてたか調べて、軍に関係があったとかしたら、みんな監獄に入れてしまったんですね。

朝鮮学校で出会った恩師のチャン・ユンギ先生は「サハリンの先生」だった(写真:望月優大)

――日本時代のことがソ連時代にも大きく影響したんですね。

(日本時代から)サハリンにいた朝鮮人はね、日本人の捕虜と同じような形なんです。戦争が終わる前までは日本人と一緒に日本の国で住んでたもんですから、ソ連のほうから見た場合には忠実なロシア人ではないんですね。

例えば、ホルムスクに住みながらユジノサハリンスクに行こうとしたら、警察に行って許可をもらうんです。国から、上から見た場合には、僕が純ロシア人でないんです。

国籍もない、無国籍なんですよ。日本時代には日本国籍を持っていましたけどね、サンフランシスコの条約で朝鮮人は抜け出されたでしょ。

――同じ朝鮮人といっても大きな違いですね。

サハリンは寒いもんですからね、大陸で100%の金をもらうとしましたら、サハリンでは140%、160%の金をもらってたんです。北朝鮮から来た人はその金をロシア人と同じにもらってるんです。僕たちよりもっと「上」なんです。

ですから、3種類の朝鮮人の心が合わなくてね。お互いに結婚もしない、遊びも一緒に行かない、別々の形です。同じ朝鮮人なんですけど。こういう歴史的問題はね、僕たちでなかったらわからないんです。中編へ続く)

CREDIT:望月優大(取材・執筆)、金サジ(取材・写真)

「僕はサハリンの人」
・前編|彼に日本語で話が聞ける理由(本記事)
中編|家族がいない男たち
後編|故郷から遠く離れて

TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

ライター。著書に『ふたつの日本——「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書、2019年)。ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』から初の書籍化となる『密航のち洗濯——ときどき作家』(共著)で第46回講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。@hirokim21