2026.01.21

僕はサハリンの人(中編)|家族のいない男たち

2026.01.21
望月優大

その人には3つの名前がある。3つの言葉を話す。日本、朝鮮、ロシアの狭間で翻弄されながら、90年を超える時間を生きてきた。

彼は、サハリン島で生まれた。

写真:金サジ(以下同)

1934年に日本時代の樺太(サハリン島南部)で生まれた白石基(ベク・セッキ)さんは、一人の朝鮮人として、大日本帝国とソ連の両方を少数者として生き、それぞれの崩壊をその内側から目にした。

2001年にはサハリンから韓国へと「永住帰国」し、現在は安山(アンサン)の「コヒャンマウル(故郷の村)」という集合住宅で暮らしている。

前編では、両親が朝鮮から樺太に渡った経緯、日本時代の小学校と戦争、ソ連時代への移行と朝鮮学校での経験が語られた。

「僕はサハリンの人」
前編|彼に日本語で話が聞ける理由
・中編|家族がいない男たち(本記事)

後編|故郷から遠く離れて

この中編では、主に1950年代、つまり石基さんが10代後半から20代になっていく時期についての語りをまとめている。

1959年に結婚した妻の尹金玉(ユン・クムオク)さんに伺ったお話も、合わせてお届けしたい。

【注記】以下、石基さんの語りの中では「朝鮮(人・語)」と「韓国(人・語)」という言葉が両方使われており、それらが相互に互換的な形で用いられている場合もあれば、あえて使い分けをされている場合もある。基本的には、語られた言葉のままで記している。

山で働く男たちの孤独

――朝鮮学校を卒業した後はどうされましたか。

(朝鮮学校を)最優秀で卒業したらね、ロシア語をわからなくても(ロシアの)林業専門学校に入れたんです。ユジノサハリンスクです、寄宿舎で。

これは高校に入ったのと同じですからね、とんでもない。(授業で)何の話してるのか、全然わかりません。

(朝鮮学校があった)ブイコフ(旧・内淵)で、ロシア人は遠くで見るぐらいでもって、接触しなかったんです。朝鮮学校でロシア人のアルファベットを習ったぐらいのもんです。朝鮮語しか使う必要がない。

朝鮮学校で勉強するときは優秀で、褒められたでしょ。ここに入ったらバカみたいね。みんなロシア人ですよね。韓国人3人ぐらいしかいないんです。1ヶ月ぐらい座ってからやめたんです。

――ロシア語が壁になって、林業の専門学校はやめたんですね。

やめて、うち来たら仕事ないでしょ。(その頃家族が)住んでた村がね、日本時代の真縫(現・アルセンチェフカ)っていう、サハリンで(東西の横幅が)一番狭いところなんです。

(真縫近くの)山で木を伐採する林業所があったんです。馬に乗って山に入るんです。飯場で住みながらね、秋に来てから次の春までいました。木を切るのは冬です。4メートルに切って積むんです。

春になったら川が溶けるでしょ。馬で丸太を川まで引っ張り出して、川を通じて流して真縫まで持っていくんです。昔はトラクターもなかったし、川の力で下ろしたんです。

真縫で汽車に積んで、南のほうへ持っていって、港へ積んでから日本へ売ったり。コルサコフ(旧・大泊)まで行って日本に売ったんです。

ですから、あんたたち、北海道なんか行って見てから、これはサハリンから来た木で建てたうちです。

「コヒャンマウル(故郷の家)」からは最寄りの漢大前駅がすぐ近くに見える

――サハリン産の木材が日本にも来ていた。

そこの一番偉い人が、「(ソ連や北朝鮮から戦後に来た朝鮮人ではない)サハリンにいた朝鮮人」なんです。山頭です。その人が信用があったもんですから、サハリンに残っていた若い朝鮮人たちを連れてからね、山の木を伐採する仕事を始めたんです。

ここではロシア人は一人もいないんです。日本時代に独身で、徴用で来たでしょ。家族もいない、子どももいない、奥さんもいない。一人ぼっちの男性たちを集めてからね、300人ぐらいいたんです。

この若い人たちはね、3年して(朝鮮に)帰ると思ったら帰れなかったんですよ。結婚しようとしても、サハリンに(朝鮮人の)女性がいないんです。してから毎月金もらうでしょ、使うところがないんですよ。その金で博打やってね、酒飲んで喧嘩したり。

――その頃は17歳くらいですよね。石基さんも木を切る仕事をしていたんですか?

木、切らなくて。僕、1年間ここで働いてたんですよね。少しロシア語がわかるという形でもって、人がなんぼぐらい伐採したか、手帳を書いてね。山頭の下で、その仕事をさしてくれたもんですから。

自分の目で見ましたよね。若い人たちが本当にバカになるんです。女性がいない社会で住んでみたら、今になってからああだこうだ言いますけどね、自殺した人もいるし、アヘンっていうんですか、死んだ人もいるし。

自分の命を落とした人たちがたくさんいますよね。故郷に帰れないから死んだ。きょうだいに会えなかった。年取った母と会えない。そういう事件が起きる。どっから始まったか、それはわかるでしょう。

スピリッツわかりますか?アルコール90度。毎日スピリッツ買って飲んで、喧嘩して、血流して、首吊りして死んで。その責任は誰が持つんですか?仕方ない問題です。誰も責任持ちません。ロシアもそうだし、日本もそうだし、韓国もそうだし。

――3年間の徴用だと思っていたら、戦後に故郷に帰れなくされてしまった。家族も結婚相手もいない。そういう男性が多かったわけですね。

学校で勉強しててもね、5年生、6年生の学生、女性がね、今日勉強したのに明日いないんですよ。嫁行ったっていうんですよ。男が多いし、女がいないもんですからね、こんな時代です。

1年してからね、ははーん、こういう形でもって、ここで僕が仕事してたら、僕もそういう形で死ぬかもしれないと思ってからね。して、僕の母と父と、金があったりしましたらね、「僕勉強しにいく」って言いますけど、金が無いでしょ。

10歳上の姉に言いましたよね。「勉強しにいきたいんですけど手伝ってくれるか」って。姉の旦那さんが「えい、行け」って、「4年ぐらい手伝ってやるから」っていう形で、毎月お金をもらいながら、ポロナイスク(旧・敷香)の師範学校に行って勉強しましたね、寄宿舎で。

4年間勉強してから卒業して、恩返しをしようとしましたら、病気で亡くなりました。(姉の夫は)釜山の付近で生まれたらしいんです。大阪で住んでからサハリンに来たって言いました。姉と結婚してからは理髪やってたんです。死ぬまでその仕事をしてました。

進学を支援してくれた姉の夫は、植民地期の朝鮮から大阪を経て樺太に渡っていた

朝鮮学校の教師になる

――山での仕事を離れて、師範学校に行くことになったんですね。

その時期にね、朝鮮学校の中学を卒業するでしょ、行くところないんです。朝鮮の高校が1校もないんです。

小学校の先生も少ないもんですから、先生を教育するために師範学校ができたんです。そこに集まった青年たちは一番インテリの人なんです。北朝鮮から来た人たちの子どもが、半分ぐらいいたんですよね。

僕が1953年度に(師範学校に)来ましたけどね、学校ができたのが52年度です。1年間林業学校に行って(山での仕事をして)帰ってきたから、損したんですよ。

トルストイとかドストエフスキーとかわかりますか?有名なロシアの文学をみんな習わなきゃいけないんです。ロシア語で暗記して、パラパラパラパラしなきゃいけないんです。

――卒業後はそのまま朝鮮学校の先生に?

(師範学校を)優秀で卒業したら何がいいかったらね、大学に試験取らないで入れるんです。

――大学は(州都の)ユジノサハリンスクにあったんですか?

大陸にもあります。モスクワとか。僕は1953年でロシアの国籍を持ったからどこでも行けるんです。(サハリンの朝鮮人で)持ってない人が半分以上いるんです。

ロシアに住みながらロシアの国籍が無かったら、どこも行けないんですよね。(無国籍者は移動が制限されて)動けないんです。子どもたちが大きくなって大学行こうとしましたら、行けないんです。大陸に行けないから、ハバロフスクにもウラジオストクにも行けない。

【補足】日本時代の樺太がソ連時代のサハリンへと移行する中で、日本人のほとんどは数年のうちに日本への引揚げを完了したが、サハリンに残された朝鮮人たちは選択の余地なく日本国籍を喪失させられ、ソ連国籍も持たない無国籍者となった。1950年代からはソ連国籍を得る選択肢も生まれたが、国籍取得が「故郷」への帰還を妨げ得ると考えた一世の人々を中心に、移動や進学など様々な面での制約が課された無国籍に、あえてとどまる人々も多くいた(冷戦下でソ連と韓国の間には国交すらなかった)。

――石基さんはその頃に(ソ連の)国籍を取られたんですね。

ロシアの国籍もらったら大学行けるしいいんだけど、軍隊に引っ張られるんです。どっちがいいんだかわからないんです。いやいや。

(師範学校を)卒業する前に「軍隊に行け」って来たんです。仕方ない、国籍がロシア人だから。したら、もう師範学校もやめて軍隊行きますよって形でもって、コルサコフまで行ったんです。

そこで調べ始まりましたらね、そのときの法律で、もし親たちが年取って仕事ができない、親を食べさせる人が一人しかいないっていう場合には、軍隊に行かないんです。

うちは男が僕一人しかいない。だからうち帰れって言ったんです。して、軍隊に引っ張られないで帰ったんです。

――軍隊には行かなくてよいことになったわけですか。

行かなくてよかったんです。して、師範学校の卒業試験でロシア語は(満点の)5点もらったんです。面白いでしょう。4年間一生懸命やってから優秀ですよ、ロシア語はね。(でも)韓国語で4点もらったんです。1科目でも4点もらったら優秀じゃないんです。ですから(ロシア語での入試を受けないと)大学行けないんです。

(師範学校を)卒業したら、自分で行きたいところに行くんではなくね、国でどこどこに行けっていうんですよね。朝鮮学校があるところ。して、(教師として)派遣されてから来たのが真岡(現・ホルムスク)です。1957年度です。63年まで働いたんですね。

朝鮮学校の教師時代の写真。メーデーなどの際にはラッパを演奏したという

――ロシア語での大学入試は断念して、23、4歳ごろから朝鮮学校の先生になったんですね。何の先生だったんですか?

小学校と言いましたらね、ロシア語はロシア人が来て教えて、そのほかの科目はみんな一人でやったんです。だけどその時代の学校の先生とか医者とか、国でもって金を払うもんですからね、お金が少なかったんです。

普通の労働者より少ないんです。90ルーブルっちゅうような金で。したら子どもたちが笑ってるんですよ。「先生、うちの父は労働者で働いてるけど、1ヶ月100ルーブルもらってますよ、先生はなんぼもらえますか?」って。労働者と農民の国家っていうでしょ。

ひとクラスを持ってからね、食えなかったんです。だから朝行って教えて、昼教えて、晩にも夜間がありましたからね、そこで大人たちを教えたりして。朝昼晩してから、ようやくパンとバター付きで食べるぐらいな金をもらいましたよね。

――金玉さんとのご結婚はいつ頃されたんですか。

結婚はね、1959年度に。ホルムスクに来てみたら、朝鮮の娘さんたちがいないんですよ。手一杯10人ぐらい、いるかいないか。

お祭りなんか来ましたら、一緒に集まってから、遊んだり、ダンスしたりしたんですね。して、(金玉さんを)見てからね、「結婚しましょうね」って言って、結婚したんです。

――その当時は、ロシアの女性と結婚することもあり得ましたか?

いやあ、師範学校で勉強するときにはロシア人と朝鮮人と同じ教育機関です。ロシア人は女性だけ。先生とお医者さんは国からもらう金が少ないから男性行かないんです。

ですけどね、親たちのほうから「絶対外国人と結婚するな」という形で言ったもんですからね、(当時の師範学校の朝鮮人で)ロシア人と結婚した人、一人しか知らないね。今の若い人はサハリンで半分半分ですね。親も反対する力がないんです。

僕の親父はね、それに対しては何も関心をしていません。僕、なかなか4年間、一生懸命勉強しましたよ。ですから、ホルムスク来てから女房を探したんです。

妻・尹金玉さんの記憶

――金玉さんにもお話を聞きたいのですがいいでしょうか?

金玉さんは私の日本語での質問を理解しつつ、主に朝鮮語で、時折短い日本語でお話された

石基さん(以下、夫):僕、通訳します。尹金玉、1938年生まれ、長女。妹が二人に弟が二人。うちの女房の父親は尹文權(ユン・ムングォン)といって、日本時代に朝鮮からサハリンの塔路(現・シャフチョルスク)に徴用で来たんですよね。(サハリンに)徴用に来てからね、2回目の徴用をかかってから九州に行ったんです。それから全然わからないんです。死んだのか、生きてんのか。

【補足】戦時中の1944年夏、樺太からの石炭の輸送が困難になる中で、日本政府は樺太各地の炭鉱に動員していた数多くの労働者たちを九州や福島、茨城の炭鉱へと配置転換した(これを「二重徴用」と呼ぶ)。翌年、二重徴用された人々の家族が樺太に残ったままの状態で日本が戦争に敗れ、しかも朝鮮人の場合は戦後にサハリンから出ることができなくなったため、大規模な家族離散が生じた。金玉さんも、父と離ればなれになった。

――九州のどこに行ったかも?

夫:全然わからない。戦後、帰ってこられないもんですからね、女房の母が違う旦那さんに嫁へ行ったんですよ。その旦那さんから生まれた妹が一人。(二人の妹のうち)一人が直接の妹ですね。二人の弟も違うお父さんの息子。して、(長女の金玉さんは)韓国生まれなんです。

――サハリン生まれでなく。

金玉さん(以下、妻):昌原(チャンウォン)。→夫:今の慶尚南道の首都(道庁所在地)が昌原ですよ。1942年度に来たんですと。

――サハリンに来たのはお父さんの徴用のときですか?

妻:アボジが…(朝鮮語で話す)→夫:韓国で(金玉さんが)3歳のときにお父さんが先に来てから、三菱の炭鉱で働きながら呼んだんですよ。塔路わかりますか?今のシャフチョルスク。

――お父さんが先に徴用で塔路の炭鉱に来て、あとから家族を呼び寄せたんですね。そしてお父さんは1944年ごろに2回目の徴用で九州に行ったという形ですか。

妻:(朝鮮語で話す)→夫:(金玉さんの)妹が1944年度にサハリンで生まれてからすぐお父さんが徴用にかかって、九州に連れて行かれたんです。

――妹さん、何月生まれですか?

妻:4月(よんがつ)。アボジが…(朝鮮語で話す)→夫:はっきりわかりませんけど、妹が生まれた年の8月か9月ごろに徴用に引っ張られたんですと。

――そのときのこと、覚えていますか?

妻:(朝鮮語で話す)→夫:お父さんが徴用で引っ張られていくときは記憶に残っていませんけど、次の年に自分が日本の学校(国民学校)の1年生に入るときに、お父さんが1年前に買っておいたランドセルとか、学生服とか、みんな着てから、学校へ行ったんですと。

――お父さんのことは、記憶がありますか?

妻:(朝鮮語で話す)→夫:顔もよくわかりません。

――小学校に入ってすぐに戦争になったということですよね。戦争のあとは朝鮮学校に行きましたか?

妻:朝鮮ハッキョ(学校)。

――塔路の学校ですか?

妻:塔路では、学校、戦争まで…(その後朝鮮語で話す)→夫:1945年に戦争が終わりましてから46年、次の年にホルムスクに移住したんですと、真岡に。で、ホルムスクに来てから朝鮮学校へ入ったんですと、1年生に。

――学校には7年間行きましたか?(1~4年が小学校、5~7年が中学校)

夫:7年間勉強して中学を卒業して、3年間は夜間で高校を卒業したっちゅう形です。10年までが高校なんですよね。

――働き始めたのは、夜間で高校を卒業した後からですか?

妻:(朝鮮語で話す)→夫:夜間で勉強したときも、昼間は仕事しながら晩に勉強して。洋服屋で働いたんですよね。ここに来るまで(=2001年に韓国に永住帰国するまで)やってましたからね。個人の洋服でなく、国営ですね。国でやってる洋服屋さんです。

結婚した頃の金玉さん

――洋服を売っているお店ですか?それとも工場?

夫:生地を持ってきてからね、縫うんです。男性の洋服を作ったり、女性のドレスを作ったり。一人でやるんじゃなく、何十人ぐらい集まって。僕が生地を持って行って(洋服を)作ってくださいって言ったら、作ってからね、金を払って、持ってくればいいんです。

――周りで働いていた人は女の人が多かったですか?

妻:(朝鮮語で話す)→夫:裁断する男性一人だけで、そのほかはみんな女性です。

――ロシアの人も、朝鮮の人も、両方いましたか?

妻:ええ。→夫:その時代にね、朝鮮人の女性たちは、そういう方面で働いた人たちはよく嫁に行けたんです。服なんか作ってくれるから。店で売ってるものは無かったでしょ。したら着れないでしょ。

――ホルムスクの時代は、生活はどうでしたか?

妻:(朝鮮語で話す)→夫:みんなが住んでるような形で住みました。なぜかって言うと、そのときは社会主義国家でしょ。金持ちがいないんです。みんな貧乏です。毎日毎日牛肉を食べるような形でもないし。1ヶ月に1回、2回食べたら。工場長でもやれば別ですけど。

――みんな同じ

夫:ロシア人は僕たちより50%多くもらってるし、金がもっと多いでしょ。僕たちはご飯食べたし、あの人たちはパンを食べたし。ご飯にはキムチと、そういうものしか食べないでしょ。ロシア人はバターをつけてから食べたりしますから。肉食べるでしょ。ロシア人の食事と韓国人の食事と違いますし。

――キムチは家で漬けていたんですか?

妻:(朝鮮語で話す)→夫:キムチなんて売ってないんです。自分で。

――白菜を買ってきて?

夫:自分で植えて。そんときは買うとこもなかったんです。ジャガイモ植えて、人参植えて、自分で、みんなで。どこに行っても土地はたくさんあるでしょ。荒地を起こしてから、植えてから、つくってから、秋になったら収穫して、そんな形です。

僕がね、(師範学校を)卒業してから派遣されて、ホルムスクに一人で住んでたでしょ。して、キムチなんか無いから(金玉さんが)持ってきてくれたんですよね。そんな形でもって、交換しながら、食べながら、手伝ってやって。

――石基さんと最初に会ったときのことは覚えていますか?・・・笑ってますね。

妻:(朝鮮語で話す)→夫:僕がどんな人かわかってたら嫁に来なかったと(笑)。

――(笑)。最初はどこで会ったんですか。

妻:(朝鮮語で話す)→夫:ちょっとよくわからないんですと(笑)。僕、よくわかってますよ。そんときはカラオケも何もないしね、若い人たちがどっかのうちで集まるんですよね。晩にバスがないし、歩いて帰るんです。本通りを北から南まで2キロぐらいあるんですよね。一緒に手組んで歩いてきたもんですから、そんときに惚れたんですよ。

ホルムスクの白い家

――おおお、二人で歩いて帰ったんですね(これ以降、夫の石基さんの語りに戻る)。

そういう形でもってね、結婚したから、住むとこなかったらダメでしょ。して、国で決めてくれるんですよ。あんたここに住めって。僕は(朝鮮)学校で働いていましたからね、校長が市役所に行ってから、うちを少し準備してやらないとダメだって。

製紙工場(旧・王子製紙の真岡工場)で働いていたロシア人が個人でうちを建てたんですよ。(彼が)大陸のほうに移住していくために(家を手放した後)、国でそのうちを買ってから、僕に住ませてくれたんです。僕たちが入ったときに(家が建ってから)10年以上経ってたんです。

――家の色は何色でしたか。

白色、真っ白。石炭を炊いたものでもってね、レンガみたいに作ったんですよ。頑丈でないんです。部屋が3つある。ペチカって、石炭を炊きながら。水は井戸から汲んでくるような形でもって。僕が入ってから水道も入れたし、自分で電話も入れた。トイレも外にある。山の上なんです。

結婚式の写真。上の写真には石基さんの母親の姿も見える

40年間修理して、直して、住むんです。みんなが国営のものですよ。ペレストロイカになって共産党が潰れてしまったらね、今現在持ってるものはあんたのもんですよ、こうなったんです。僕のものになったから、売る権利があるでしょ。

そのうちで40年ぐらい住んでから、(2001年に)明日韓国に帰りますよっていう形でもって、全部投げて、全部置いて、一人20キロぐらい持って、二人で40キロ持って韓国に来たんです。

ちょうどうちが火事で燃え焼けるような形でもってね、40年間稼いだものをみんな置いて、畑も置いて、出ましたもんね。韓国来たら、住むのはいいけれど、痛ましいですよね。仕方ないです。

今、そのうちがね、息子がロシア人に売ったんですよ。ロシア人が住んでます。

――韓国に来てからも、ホルムスクの白い家はしばらく持っていたんですか。

僕の名があったでしょ、そのまま息子の名に。息子は自分のアパートがありましたから、距離が遠いんです。1キロ半ぐらいあるんです。ロシアの国は泥棒が多いでしょう。晩にはここ(白い家)に来て寝て、昼間は仕事に行って、自分の家はあそこにあるし。

そんな形で行ったり来たりしてから、めんどくさいもんですからね、「売ってもいいですか?」と言うから、「いや僕たちはもう韓国に住むようだから売れ」って言ったんです。

もうボロボロです。して、安い金でもって売ってしまったんです。僕たちがここ(韓国)へ2001年度に来ましたからね、2003年ぐらいで売ったでしょ。

今でもね、(サハリンに)行ったら、40年住んでたうちですからね、自分のうちと同じでしょ、行ったら見るんですよね。修理してからね、立派な家になってましたよ。ああ、これは助かったな。

――まだ建ってるわけですもんね。

建ってる。ロシア人住んでるし。アイゴー。昔話です。後編へ続く)

Googleストリートビューで、40年以上も暮らした自宅のその後を見ながら(撮影:望月優大)

CREDIT:望月優大(取材・執筆)、金サジ(取材・写真)

「僕はサハリンの人」
前編|彼に日本語で話が聞ける理由
・中編|家族がいない男たち(本記事)
後編|故郷から遠く離れて

TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

ライター。著書に『ふたつの日本——「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書、2019年)。ウェブマガジン『ニッポン複雑紀行』から初の書籍化となる『密航のち洗濯——ときどき作家』(共著)で第46回講談社本田靖春ノンフィクション賞を受賞。@hirokim21