2022.11.29

お見合い結婚で女川に。ハルピン出身の杜華さん、夫の文男さんと振り返る20年間の道のり。#移住女性の声を聴く

2022.11.29
望月優大

東北各地には日本人男性との結婚を機に来日した「外国人結婚移住女性」が少なくない。1980年代ごろから始まった流れで、主に中国、韓国やフィリピン出身の女性たちが、農村や沿岸部など様々な地域で暮らしている。

宮城県女川町に暮らす紺野杜華(こんの とうか)さんもその一人だ。2003年の結婚後に来日し、水産工場での仕事や震災の経験を経て、現在は夫の文男(ふみお)さんと共に女川の街で料理店を営む。

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杜華さんは中国の東北部、ハルピンの出身だ。春の女川港を歩きながら「日本の東北の寒さはどうですか?」と尋ねると、マイナス30度にもなる故郷に比べればそれほどでもないと笑う。

二人が営む「中華杜華 焼き鳥ぶんぶん」を訪れた。屋号が二つ並ぶ不思議な店名だが、それぞれ別のお店があるわけではない。あくまで一つのお店で、杜華さんが中華を担当し、文男さんが焼き鳥を担当している(焼き鳥は夜のみ提供)。

元々ビストロだったお店に昨年居抜きで入ったため、インテリアはところどころ西洋風のままだ。数々のワイングラスやふかふかのソファなど、色々なところがとっても独特である。

二人のお店は2015年にできたテナント型の商業施設「シーパルピア女川」の一画にある。目の前には女川港が広がり、JR石巻線の終着駅、女川駅もすぐそばだ。

ちょうどお昼どきだったので中華のランチをいただいた。ラーメンも炒飯も、天津飯も海老マヨも、どのメニューもボリューム満点ですこぶる美味しかった。

外に出て女川の街を歩いてみる。空は晴れていて、海は穏やかだ。震災の遺構や慰霊碑をめぐった。道路はどこもきれいに舗装されていて、新しい学校や住宅も目に入ってきた。

お昼の営業が終わった頃、お店にまた戻る。ダメ元で文男さんにも声をかけてみると、静かな声で「うんいいよ」と快諾くださった。お店の端のテーブルで、話を聞き始めた。

話は20年前の出会いの経緯から始まった。北京でのお見合い。女川での新しい暮らし。突然の被災。いくつもの喪失。仙台への緊急避難から、10年間も続いた移住生活まで。ようやく女川に戻って来られたのは、つい昨年のことだ。

二人から伺った大切な記憶を共有したい。杜華さんと文男さんが力を合わせて生きてきた、20年間の記録だ。

紺野杜華(こんの とうか)さん。1962年、中国・ハルピン生まれ。大学卒業後に郵便局に勤める。/紺野文男(ふみお)さん。1956年、宮城県女川町生まれ。仙台市で石油会社に務めたのち、2000年に女川町で「焼き鳥ぶんぶん」を創業。/二人は2003年に中国でのお見合いを経て結婚。東日本大震災、仙台での10年に及ぶ移住生活ののち、2021年に女川に戻る。現在はJR女川駅前の「シーパルピア女川」で「中華杜華 焼き鳥ぶんぶん」を営む。
*以下、杜華さんの言葉で中国語での通訳を介している箇所のみ 斜体 で示します(それ以外は日本語でお話された部分です)。お二人の名前は敬称略とさせていただきます。

出会いから来日まで

――お二人が結婚されたのはいつ頃ですか。

杜華:結婚は2003年。

――最初に会ったのは杜華さんが住んでいたハルピンですか。

杜華:ううん、北京で。2003年、中国の正月。2月くらい。

――最初はお見合いだったんですよね。文男さんと知り合うまではどういう流れだったんでしょうか。

杜華:少し難しい。

――もし中国語のほうが話しやすければ中国語でも大丈夫です(*以下 斜体 での表示は通訳を介している部分)。

杜華:すごく結婚したいっていうわけではなかったんですけれど、41歳になる頃で、周りの親戚とか友達とか、色々お見合いの話とかが持ち込まれて。

――それは中国でということですか。

杜華:中国で。それでもなかなかカップルにならなくて、それじゃあ外国の方はどうですか?という話が友人から持ち込まれて、会ってみようかって。

「いい人です」って言われて紹介されて、会ってみたら本当にいい人そうだなって思いました。

文男:そりゃそうでしょ(笑)。

――(笑)。

文男:うそうそ。冗談冗談(笑)。

左から文男さん、杜華さん、通訳でご協力いただいた裘哲一さん。杜華さんは裘さんらが立ち上げた宮城県の中国出身女性コミュニティ(宮華女)に参加している。

――お二人は歳の差がいくつぐらいですか?

文男:6つ、7つ。

――とすると、杜華さんが41歳、文男さんが48歳の頃に出会ったんですね。杜華さんの周りでは日本の男性と結婚される人がほかにもいましたか。

杜華:いるんですけど少ないです。

――文男さんとつなげてくれた方も日本で結婚された方ですか。

杜華:うん、そうです。お姉さんの友達です。

――中国にいた頃はどんな生活を?

杜華:大学卒業終わったら郵便局入る。公務員。本当、いい仕事。

貯金とか、保険とか、切手の売上とか、色々ノルマがあるけど、いつも上のほうでした。

――ハルピン時代は安定したお仕事で、10年以上勤めていたんですね。お見合いで最初に会ったタイミングで結婚の約束までされたんですか。

文男:まあ約束っちゅうか、その頃厳しいから。写真とか手紙のやりとりとかそういうのがないと(結婚の)手続きできないんだよ。

――中国側で結婚が認められるために一定の手続きや時間が必要だったわけですか。

文男:検査が厳しいっちゅうのを聞いてたから。ほら、俺はのんべえだし、体的にも肝機能だなんだ絶対悪いと思ってたから。

そういうのがあると結婚できないっちゅうのは聞いてたから。結婚できると思ってなかった。

杜華:あのとき健康診断やります。外国人、すごい厳しい。

――そうだったんですか。その検査を何とかパスできたわけですね。2003年の2月に初めて会われて、お二人がその次に会うのは杜華さんが日本に来たときですか。

文男:8月に結婚式。2回目で結婚式なのよ。中国で。

――来日前に中国で結婚式をされたんですね。そのときはハルピンですか。

文男:そうそう。(その次の)3回目は迎えに行くっちゅうときで。

杜華:それは2003年の12月。

――2003年の2月に北京で出会って、8月にハルピンで結婚式をして、12月に来日された。

杜華:うん。

――文男さんの周りには中国出身の女性とお見合いされた方がほかにもいましたか。

文男:まあ、ない。(お見合いの話が)二回来たんだよね。最初に水産会社の社長から。今度は社長の弟さんからまた同じことを。じゃあ中国に一回行ってみるのもいいやっつうことでね。

――水産会社の方たちとは元々友達だったんですか。

文男:まあ親父も働いていたことはあるし、社長の弟さんと俺は同級生だしね。

来日後の生活

――日本語は来日してから勉強されたんですか。

杜華:「あいうえお」もわかんないで来ました。ゼロ(笑)。

女川町は小さいの、中国の村と同じで。だから日本語の学校、何にもない。日本語難しい。あと、歳なら覚えられない(笑)。

――お二人の間のコミュニケーションはどうされていたんですか。

文男:まあ、うん。何もコミュニケーションないよね。向こう(中国)で会うときは大体通訳がいたから。こっち(日本)ではもう感覚だけだよね。

――文男さんと話すことも最初は難しかったですか。

杜華:うん。最初、全然言葉できない。「あいうえお」は旦那さんの妹の娘、小学校一年生の女の子が教えて。それから電子辞書買って、本買って、わかんないときすぐ辞書調べして、少しずつ覚えた。

――文男さんは、中国語は全く?

文男:うん。

杜華:你好、謝謝だけ。

――中国語の勉強は、チャレンジはされましたか。

文男:チャレンジはしたんだけどダメだね。

杜華:最初はうちで中国の本あるよ、勉強の。

文男:無理無理。英語もできなかったからもう。

――杜華さんは日本語が上達したきっかけが何かありましたか。

文男:カラオケ(笑)。

杜華:旦那のおばさんはスナックやってて。「ぶんぶん」の隣の隣ね。たまに忙しいとき「杜華、ちょっと手伝い来て!」って。

元々歌好きなの私。だから日本の歌、全部古いのわかる。

――演歌とかを通じて日本語を覚えていったんですね。文男さんはご両親も女川ですか。

文男:うん、(結婚の前に)亡くなって。

――そうでしたか。

杜華:水産会社の仕事、始まる頃は少しずつ自分で勉強して。

――女川の水産工場で働くことになったんですね。文男さんを紹介された会社ですか。

杜華:そうそう。結婚して1年後に働きました。ウニとアワビとナマコ。あと白子、イクラ。毎日頭下がって仕事、立ってて。きつい、本当。

文男:ウニって黒いワタがあるんですよ。あれをピンセットで一個ずつ取る。ウニが高い理由なんだけど。

――新しい環境で、慣れない仕事ですよね。

杜華:中国ではずっと事務所で座ってするような仕事だったんです。でも、こっちでは水産工場に入って立ちっぱなし。一日中立っていられなかったです。

冷たい水を扱うんですけれど、とっても体に合わなかった。(最初の)3日働いたらもう休んで、病院に行って、手とか腰とかが痛くて。

でも、自分にはすごく負けず嫌いの部分があって。水産工場ではみんなおじいさんおばあさんばっかりで、お年寄りでもできるのになんで私ができないんだ、負けちゃいけない、一週間我慢したらやっていけると思いました。

それで、2日間休んで、また工場に戻って、やってみたら続けられました。最初はつらかった。帰りたいとも思いました。

でも、女川町は本当にすごく優しい人がいっぱいいます。工場でも親切に接してくれて、言葉もわからないのに、手を持ってこういう風にやるんだって、身振り手振りで色々教えてくれて。

今も日本に残っているのは、周りの優しい人たちに恵まれたからこそです。

――工場では全部で何人くらいの方が働いていましたか。

杜華:従業員も大体60、70人くらい。(日本人は)みんな私より年上。技能実習生たちも多いときは20人いる。女川自体はお年寄りの人多い。若い人、みんな外行くでしょ。

――お年寄りの方が中心で、若い実習生たちも働いていて、そこに杜華さんが新しく入った形ですね。実習生も中国からの女性が多かったですか?

杜華:うん全部。

文男:震災まではずっと中国。そのあとベトナムに変わっていったから。中国がお金高いっちゅうか、ベトナムのほうが安い。

杜華:今の水産加工の仕事のお金は中国の給料ともうあまり変わらない。あと津波あった。イメージ怖い感じ。今だんだんベトナム、タイ、色々の国の人。

――中国の経済成長や震災の影響もあって、女川で働く実習生が中国からベトナム出身の方などに入れ替わっていったと。杜華さんのように結婚をきっかけに中国から女川に来られた方はほかにもいらっしゃいますか。

杜華:今、女川は、私と同じで結婚しましたの人で、3、4人いる。

3.11(杜華さんの経験)

――震災が起きたのは2003年12月の来日から7年あまり経った頃でしょうか。金曜日の午後2時台でしたが、杜華さんはそのとき工場にいましたか。

杜華:仕事休みです。私、うちいる。本当は日曜日休みです。でも水産加工の仕事は季節ある。忙しいときと暇なときある。

文男:3月は時化が。ウニがまだ身も小さいからあんまり仕事はなんないんだよ。それで休みが多いんだ。

――杜華さんはたまたま工場の仕事が休みで自宅にいたわけですね。文男さんも一緒でしたか。

杜華:旦那さん、うちにいない。ちょっと違う場所いた。

うちは高い場所。向かいの山は人いっぱい。だからあっちに行きたい。車出して、下りて…。

――あ、自宅のある高いところから低いほうに向かって下りようと…。

文男:人の心理だよね。上から見て、みんなが逃げる方向に逃げようとする。だから(自宅の向かいにある山まで行くために)車で下りて行こうとした。

それで、(自宅の)下に住んでて親戚付き合いしてる先輩の奥さんから、「杜華戻って!もう津波来るから戻れ戻れ」って言われて助かった。

杜華:車停めて、みんな一緒に(上のほうに)逃げた。

――高台にある自宅に一人でいたときに地震が起きた。目の前に見える山にはたくさんの人が逃げていて、そこに行くには家から低いところまで一度降りる必要があった。それを近所の方が止めてくれたわけですね。もしそのまま車で下りていたら…。

杜華:もう終わり。

震災遺構での展示より。女川町を襲った津波の高さは最大14.8メートル(最大遡上高34.7メートル)。死者は827名に及び、当時1万人あまりの町民のおよそ12人に1人。現在の人口はおよそ6千人。

――ご自宅は大丈夫だったんですか。

杜華:自宅は流されない。元々高い場所。でも津波は2階(の)、1メートル(まで)入った。住む、できないです。全然。

文男:もしうちまで津波が来たら女川が終わるっちゅうのは言ってたから。

――そのあとは避難所に行かれたんですか。

杜華:ううん。あのときはどこも避難できない。うちよりもっと高い家、二軒ある。3月11日は二つの家で、みんなで一晩泊まった。次の日の朝、避難所行きました。

3.11(文男さんの経験)

――文男さんは地震が起きたときはどこに?

杜華:すごく危ない。

文男:私は半島の一番外れにいて、そこから女川まで戻った。

――あ、女川原発とかがある牡鹿半島の端のほうにいたんですか。

文男:原発よりももっと。鮎川っていう。

――だいぶ端のほうですね。何をされていたんですか。

文男:まあ、ちょこっとアルバイトあって。そっちに行って帰る途中だったんだよ。

――鮎川から車で戻ってくる最中に揺れたんですか。

文男:そうそう。ラジオで確認して。ああこれは絶対「来る」っちゅうのはわかってたから。津波は来るなって。自分では来ると思ったから。

でも時間的には絶対女川までは戻れるな、じゃあ女川まで戻ろうっつって。だから、ちょうど女川に着いて、津波と鉢合わせた。

――もうギリギリのところで町まで戻ってきた。

文男:30秒違ってたらもういないと思ってるから。エンジンもかけたまま逃げた。要らない車だからね。青少年センターってあるんですけど、そこに避難して。

――文男さんは女川のお生まれですよね。津波のことはどんな風にイメージされていましたか。

文男:チリ津波のときはじいさんの背中に乗ってたから。津波っちゅうのはこういう風に来るんだなって。

湾の中が引いたときもみんな魚とか取ってるんだよね。一回来て、引いて、そのときに缶詰だなんだ流されたやつを。

魚も浮いてるから、それを取ってたのを見たの。じいさんの背中で。4、5歳かな。昭和35年じゃなかったかな。チリ津波。

――そうですね、1960年。子どもの頃に体験されたわけですね。

文男:それと震災前も(2010年の)2月にやっぱりチリの地震があって、津波来たんだよね。そのときは女川町のコンビニのおにぎり(売り切れて)一つもなくなったんだよ。

杜華:何にもない。

――東日本大震災の少し前にも津波があって、杜華さんも経験されていた。

文男:ちょうど消防団に入ってたから、消防に乗って津波来るのをずーっと。(津波が)来たときは国道まで上がったね。

杜華:何にも食べ物ない。私、家で冷凍の餃子とか大きい鍋で作って、海のほうまで行ってみんなで食べる。餃子と野菜入れて。スープ。消防の人たちに。

――1960年のチリ津波があり、2010年にもチリの地震で女川まで津波が来ていた。そうしたイメージもある中での2011年だったんですね。

文男:女川町で亡くなってるのは、じいさんばあさんがチリ津波のことが頭にあるから。「ここまでしか来ない」っていう感覚だったんだ。子どもが迎えに行って一緒に流されてるっていうのが多い。

俺の同級生なんかは、妹たちを「津波来っから逃げろ逃げろ」って言って、自分が最後家に行って、それで逃げようとして、結局流された。

津波警報鳴ったら逃げるしかない。それだけ覚えてれば。高台に上がるっていうのだけを覚えてれば。(震災後に)堤防をみんな作ってんだけど、結局堤防よりも大きなやつが来たら一緒だから。逃げるしかないんだよ。

昭和三陸地震(1933年)の石碑も残る。「大地震の後には津波が来る」「地震があったら津波の用心」と記されている

――元々の「焼き鳥ぶんぶん」もこのあたりにあったんですか。

文男:もうちょい向こうで。

――もう流されてしまった?

文男:ああもう、何もない。

再会

――11日はそれぞれ危機一髪で津波から逃れた形だったわけですね。お互いがどこにいるかは…。

杜華:何にもわかんない。

文男:携帯はつながらないもんね。

――お二人の再会はいつごろだったんですか。

文男:次の日、俺歩いて行ったから。自分の家まで。瓦礫の山だけど、安否確認しながら。山越えて、まず体育館で、妹たち大丈夫だったっちゅうのを確認して。

今度は下りて行って、石浜って私の地区があるんだけど、そっちまで山を渡って、色んな船なんかも上がってきてるところを通ったりしながら。

普通に歩けば30分で行くところを、2時間くらいかかって行ったのかなあ。それで(杜華さんが)いたっつうのを確認して。

津波で基礎部分から引き抜かれ横倒しになった旧女川交番。震災遺構として保存されている。文男さんの名前にちなんだ初代の「焼き鳥ぶんぶん」も、杜華さんの水産工場も、すべて流されてしまった。

――ご自宅の近くまで文男さんが戻ってきたときに杜華さんを見つけたということですか。

文男:うん。(杜華さんたちが)外で焚き火焚いてて。

――12日に再会できたんですね。

文男:ちょうど青年団の団長もしてたから、今度は地区の人たちを(避難所になっている)体育館まで歩ける人はみんな連れてきてくれって。

道、俺しかわかんなかったから。道がないんだから。(体育館からここまで)どうやって来たの?って。

杜華:旦那が前で、私後ろ。

――お二人でご近所の高齢の方たちを挟むような形で避難所まで誘導された。

杜華:女川の役所の方に会って(体育館までの誘導を)すごく頼まれて。70代、80代の高齢の方ばかりで、山道を歩くのもすごく大変でした。

150人の技能実習生

――体育館での避難生活ですね。

文男:寮も全部流されてるから。社長だなんだは知り合いのいいとこに。実習生は体育館に。

杜華:当時、女川に162人の技能実習生がいて、その中の150人ぐらいが総合体育館の避難所にいました。所属は各会社なんですけれど、会社は自分たちのことで精一杯で。

女川町総合体育館。最大1400人が避難した。町内25ヶ所の避難所のうち女川原発の避難所に次ぐ規模。3月12日開設、11月9日閉鎖。

――150人というのはかなりの数ですね。中国の方がほとんど?

杜華:全員。

――大体20代、30代くらいの方?

杜華:そうそう。

――日本語は?

杜華:ほんのすこーし。

文男:各会社に一人くらいは、いくらかできる人がいる。

杜華:でもあのとき、みんなはもうパニックになってた。

――女性が多かったですか。

杜華:女の子多い。みんな私、顔わかるよ。みんないつも「お姉さんお姉さん」って。

文男:まあ(女性が)8割、9割でしょ。

――総合体育館は最大で1400人の避難者がいたという記録を見ました。その中には150人の実習生たちもいたんですね。

杜華:自分は来日してから長いし日本語もある程度わかるから、若い実習生たちの面倒を見ようと思って、通訳も兼ねてそういう仕事をしました。全員中国人だし、自分は歳も一番上で。

日本の方たちも家族の安否確認すらできていない状況の中で、技能実習生のことは…。

――忘れられた感じになってしまっていたんですか。元々実習生たちは地域の人たちとのつながりがあまりなかった感じでしょうか。

杜華:そうそう。(実習生たちの)知り合いは自分の会社だけ。

文男:仕事と寮の往復だけだよね。

――杜華さんと文男さんが実習生たちの面倒を見るというのは、誰かから避難所での役割を任されたということですか。

杜華:そう。避難所の中は、役場(の人は)一人だけ。あの人は日本の方のことやって、私は中国人のことやって。何かあったとき一緒に相談して。

ご飯も(文男さんと)二人で運ぶ。一日サンマ少しだけ。缶詰、夕方もらうの。ほかには何にもないよ。一週間くらい。

文男:食べるものがなかったからね。

――体育館のどこかに実習生たちを集めて、ご飯を配ったり、話を聞いたり、そういうことをお二人でされていたんですね。

文男:区割りをしてね。

杜華:ぎゅうぎゅうで、寝返りもできないくらい。一人ひとりがまっすぐになれるスペースもなくて、いつも腰が痛くて。

――まだ3月で寒いですよね。床も板張りで。

杜華:寒い。何にもないよ。暖房もない。

文男:一週間ぐらいしてからかな。毛布だなんだ、救援物資が徐々に。結局みんな外に出て、焚き火して一夜を明かす。

――実習生たちはその後どうなったんですか。

杜華:みんなの前で(言いました)。

「あなたたち全員中国に帰ったら、私女川離れる。あなたたち一人(でも女川に)いたら、私女川離れない」。

女川町どれくらい人数いるか、中国大使館はわかんない。一台バスだけで来た。3月15日。47人だけ乗せて。

――バスはどこに向かったんですか。

文男:新潟に。領事館があったから。

――新潟から飛行機で中国に帰国されたんですね。杜華さんから「3月15日に最初の47人」という細かな数字がさらっと出たことに驚きました。

杜華:忘れられない、一生。次(のバス)は18日で。あと19日。これで全員帰る。

避難所が満員となり、自衛隊からもらったテントを使って、二人で屋外で寝泊まりした夜もあったという。

仙台での暮らし

――お二人はその後どうされたんですか。

杜華:私、3月26日に仙台行って。(文男さんの)いとこ仙台いる。旦那はまだ女川いる。4月中くらい(まで)。

文男:俺はほら、消防もあったし(女川でないと)震災の色んな手続きできないから。

――先に杜華さんが仙台に移って、最初の2、3週間は一人で過ごしたんですね。

杜華:あのとき仙台、何にもわかんない。近くのスーパー、10時過ぎ行ったら食べもの何もないよ。

文男:仙台の人は、女川とか海沿いの人に渡すためにね。

――みんなが買うからすぐに売り切れてしまうわけですね。部屋はどうされたんですか。

杜華:仙台は被災者がいっぱい来て部屋がなかったです。

いとこに頼んでやっと見つかったアパートは雨漏りがひどくて、外で大雨が降ったら中は小雨が降っているような感じ。

布団だけは濡らさないように頑張って、色んなところに桶を置いたりして。

文男:体育館よりはいいからね。雨漏りしてても、畳があればまだ。

――文男さんも4月半ばから仙台に合流されて、そのあとお仕事はどうされたんですか。「焼き鳥ぶんぶん」も、水産工場も、仕事がなくなってしまって。

杜華:俺は5月からかな、いとこの内装屋でちょこっと。あと焼き鳥。

――仙台でもまた焼き鳥屋さんを始めたんですね。いつ頃からですか?

文男:2012年の1月。知り合いが「店空いたからやってみないか?」って。ここだったら元の(石油)会社の連中も来れるかもわかんないなっつうので。

――杜華さんが仙台でお金を稼げるようになったのはいつごろからですか。

杜華:私、食肉のほう…。

文男:次の年(2012年)の3月ごろでしょ。

原発の知り合い、下請けの人が、放射能の検査の機械を作ってる会社の人なのね。カウンターの。全部の肉だ魚だは検査しないと(いけない)。

その機械を仙台の工場に収めたから、そこで肉を検査すんのに切る人が必要だから、「杜華さん働くんだったら紹介する」っつって働いた。

――放射能の検査をする工場で肉を切る仕事ですか。

杜華:うん、肉を切る。グラムかける。あとで隣の検査の人たちに渡して。

――機械での検査のために肉を切るわけですね。そのお仕事が見つかるまでの1年間というのはずっと仕事を探し続けていたんですか。

杜華:ハローワーク行って探した。でも仕事ない。私の合う仕事ない。

――日本語も関係がありましたか。

杜華:うん。やっぱり一番心配、自分の言葉のことです。

――そもそも震災後で多くの人が仕事を探していた状況ですもんね。

文男:ハローワークすごかったもんね。

杜華:だから一番いいは「手の仕事」。あまりしゃべる(仕事は)…。「手の仕事」探す。

――手作業で、あまり話さなくてもできる仕事を。

杜華:そうそう。でもこういう仕事はない。だから知り合いの人に紹介して(もらって)。食肉会社で。

――そこではどれくらい働かれたんですか。

杜華:2015年に一緒に働いていた4人全員切られた。というか、契約更新されなかった。

――2012年から3年ぐらい働かれてまた失業してしまった。検査の仕事自体がなくなったわけではないということでしょうか。

杜華:そう。だからまた仕事探すでしょ。やだなって。言葉も大体できる。料理の職人さんの知り合いもいる。

文男:それで、じゃあ「自分で中華料理屋をやる」って。

――仙台で最初に中華のお店を開くまでにはそういう流れがあったんですね。その頃から名前は「中華杜華」だったんですか。

杜華:そう。「杜華」は自分の名前です。「杜」は中国の苗字。「華」は名前です。

周りの友達とかで、私の名前は仙台と宮城に合う、言われた。「杜」の都。あと中華の「華」。近くに金華山もある。

――確かにピッタリです。杜華さんの今のお名前(紺野杜華)は、「杜華」という元々の苗字と名前に、文男さんの苗字(紺野)を組み合わせる形にされているんですね。

文男:日本名(=紺野)は一緒にして、(杜華は)名前にしたんです。日本の名前、違う名前つけたってわかんなくなるでしょ。それだったら。

杜華:私、自分の名前、お父さん、お母さんからもらったの。だから残ってほしい。

――お店を一緒に立ち上げられた職人さんというのは中国出身の方ですか。

杜華:中国の方。(その頃の私は)お料理、店のこと全然わかんない。アルバイトもやったことないよ。そのままで店出した(笑)。

職人さんを二人雇って。大きい店。74人の店。

――その頃文男さんは焼き鳥屋さんをされていたわけですよね。中華のほうにも関わっていたんですか。

杜華:お昼はお手伝い来る。「ぶんぶん」のほうは夜だけ。

文男:最初は別。それで、二つの家賃もったいないからって、私のほうがやめて。途中から畳んだ形。2016年5月に閉めた。

――そうだったんですね。それからは二人とも中華のほうに。

文男:うん、そういうことだね。

――コロナもその流れの中で経験されたわけですよね。かなり厳しかったですか。

文男:夜が全然だよね。昼はそれなりだけど。仙台は特にね。

杜華:夜来ない。飲む人いない。お客さん来ない。大変なった。本当、給料とか。

女川に戻って

――仙台から女川に戻られて、新しくお店を出されたのが去年(2021年)の夏ですよね。

文男:コロナで戻ったっちゅうのが正解だよね。あと、うち建てんのもちょうど去年の3月までに建てないと補助金がおりないんだよね。10年ちゅうのがあったから。

二人でつくったお店で。

――自宅を再建するのに「震災から10年」というタイミングもあったと。

杜華:ずーっと。(文男さんは)ずーっと戻ってたい。

――女川に戻りたかったんですか。

文男:うん、私はね。

杜華:ずーっと。仙台も石巻も中古のうち探す、でも(文男さんの)顔見て全然嬉しくない(笑)。女川うち建てる、決めたらすごーく嬉しい。

――女川に戻ると決めたら文男さんがニコニコされて。やっぱり仙台暮らしはちょっとしんどい部分もあったんでしょうか。

文男:まあ、うん。海も見れないし、知り合いもいないしねえ。

――故郷に帰りたいなあ…という。杜華さんはどうでしたか。

杜華:女川は自分に合ってるなと思います。三面が山で、もう一面に海があって、すごく自然が豊かで、空気もフレッシュで、静かでいいところです。

長く住んできて、周りもみんな心で付き合うような感じで、第二の故郷です。朝に採れたての野菜が玄関先に置かれていたりとか、みんな助け合っていてフレンドリーです。

津波は怖い。でも人間関係はすごくいい。最初はちょっと心配(だった)。二人、女川戻って商売できる?できない?のことが。

――女川に戻ったら二人でお店をやろうというのは決めていたんですか。

杜華:うん。でも今は職人さんいない。自分で料理して。(だから)お客さん少し来たら家賃十分間に合う(笑)。

仙台で大体5年半中華料理やってて、ずっと職人さんのやり方見てたの私(笑)。あとタレとか全部わかる。じゃあ私…。

――自分でできるかなあって。

杜華:そうそう。頑張るしかない。じゃあやります。店開けたでしょ。生活できない。やるしかない。

――本当にすごいですし、とっても美味しかったです。文男さんも、女川に戻ったらもう一回焼き鳥をやろうと思っていたんですか。女川、仙台、女川と3度目ですね。

文男:うん。

――それでこの中華と焼き鳥を一対一という、お二人にしか出来ない独特のお店に。

杜華:藤井(貴彦)アナウンサー言ってた、珍しいって(笑)。(*3月に「news every.」の中継で来店されたそう)

――今日のお昼もすごかったですね。お客さんがたくさん来てましたけど、平日はあんなもんですか。

文男:平日でそのくらい。夜はまだあれだね。結局、原発が、東北電力が動き出さないと。大きい会社ほどコロナに対して厳しいじゃないですか。(*2022年春ごろの話)

――そうか、行動の制限が色々とあるから。お客さんは地元の方が多いんですか。

文男:まあ地元と、あと観光客と。土日はやっぱり観光だからね。

しんどかった頃から

――文男さんから見て、杜華さんが来日されてからの20年近くで一番きつかっただろうなと見えた時期はありますか。

文男:まあ2年目だよね。働き始めて。

――水産工場でのお仕事が始まってしんどかったとおっしゃってた頃ですね。

文男:うん。車の免許を取るようになってからは、もう随分。3年目だね。

――ああ、なるほど… 車の免許が大きかったんですね。「自分で移動できる」ということが。

文男:学科で2回落ちた。3回目で取れたかな。引っ掛け問題が多いから。

杜華:最初車の免許ないとき(文男さんが車で)一緒に連れて行って。スーパーとか。

私は例えば服好きね。ちょこっと服見てる。(文男さんは)降りてないよ。車の中で待ってるよ。ずっと駐車場で。だからゆっくりできないでしょ(笑)。

文男:服だなんだ見てんのに、俺一緒になってついて行ったってどうしようもないでしょ。

――(笑)。

杜華:だから、じゃあ自分の車の免許取って、自分の行きたいところ行く、できる。

――車はそれぞれのがあるんですか。

文男:うん、一つずつ。

杜華:中古の車。

――いいですね。自分の車でブーンと自由に動けるようになったことで気持ちがかなり変わりましたか。

杜華:うん、自由した。

文男:まあ随分ね。

――好きなときに買い物に行ったり、自由に見たいものを見たり。

文男:自由にして、何回バッテリー上げてっか(笑)。実習生だなんだと話してて、ライトつけたままで。色んなところでバッテリー上げてた。

杜華:実習生たち、困ること(があると)すぐ「お姉さんお姉さん」って。大体あのとき「華お姉さん(華姐)」って呼べば女川の実習生たちみんなわかる。

――日常的に相談を受けていたんですね。

杜華:救急車も一緒に乗りました。色んな会社とか組合からも何かトラブルとかがあったら連絡が来て、夜11時、12時でも自転車で行きました。ジュース1本ももらわないで(笑)。

仙台にいた頃も、女川は物価がちょっと高いので、女川に行くときはその前に必ず実習生たちに電話して、ひき肉とか豚肉とか何がほしい?って聞いて、肉屋で買って持っていきました。

――日本での暮らしが長くなる中で、実習生たちを支える側になっていかれた。

杜華:本当は、昔、何にもできない人。中国のとき何にもできない。最初日本来たとき、料理もしない。何もしない(笑)。

(文男さんが)毎日ご飯つくって。「杜華、ご飯食べるよー」って。

――今ではむしろできることがどんどん増えてきていますよね。

杜華:そう、すごく増えたよ。だから今、私料理作ってるとか、友達みんな信じない。

WeChatで料理の写真をアップしたら、お兄さんから「文男さん料理上手ですね」って言われました(笑)。

――何歳からでも始められる。

杜華:(文男さんは)今年66。

――まだ中国語の勉強できるんじゃないですか?

文男:もう、老人は無理(笑)。

――まだ老人じゃないですよ。

杜華:全然今から。私、今から。

文男:でも「万里の長城」登れなかったのが今でも悔しい。(杜華さんが)途中でもう疲れるから帰るって。(*出会った頃の話)

杜華:ずーっと、その話する(笑)。

文男:俺的には上まで登って行きたかったのに。あの頃まだほら、若かったから。登れるっていう自信あったから。

――じゃあそれは人生の目標にしていただいて、二人でもう一回行ってきてください(笑)。

出会ってから一番良かった思い出を聞くと、口を揃えてこう答えた。「津波でも生きて、それだけ。それが一番だよね」「そうそう。命あれば、頑張れる。なんでもできます」

取材後記

紺野杜華さんと文男さんから貴重なお話を聞かせていただいた。お二人に心からの感謝を、そして杜華さんとつなげてくださり、通訳でも協力いただいた裘哲一さんにも改めて感謝を伝えたい。

東北での流れを先駆けに、日本人男性との結婚で来日した外国人女性たちの経験に関心があった。その全体像や社会的な背景、そこから来る構造的な脆弱さなどを研究者の李善姫さんに伺いながら、並行して杜華さんからもお話を聞いていた。女川では文男さんから見たお二人の経験についてもお話いただいた。

最初に杜華さんとお話したWechatでのビデオ通話を今も思い出す。「女川にいつ来るの?」「早く来てね」と何度も笑顔でおっしゃっていたのが印象的だった。女川で実際にお会いした杜華さんは細かな気遣いに溢れていて、その明るい雰囲気は記事中に頻出する(笑)の数にも現れているような気がする。

コロナ禍が始まって以来久々に対面で会った杜華さんと裘さん。仲良し姉妹の再会を見るようだった。中国出身女性同士のつながり。

ただし、語られた経験がすべて順風満帆だったわけではない。そのことは、わかってもらえるはずだ。

郵便局でのデスクワークから水産工場での立ちっぱなしの仕事へ。「あいうえお」もわからない状態での結婚。地震、津波、避難。雨漏りのする部屋での新生活。「手の仕事」が見つからない。ようやく見つけた仕事も3年で切られる。そこから、杜華さんは「中華杜華」をつくった。

「外国人結婚移住女性」たちの多様な経験を、一括りにして語り尽くすことはできない。あるいは「うまくいった人」と「うまくいかなかった人」の二分法さえ手にすれば、それで十分に「複雑さ」を理解できるわけでもない。杜華さんという唯一人の人生の中に、痛みと光とがあった。

自動車で買い物に行く。自転車で実習生たちのもとへと駆けつける。そうして杜華さんは女川や仙台でずっと暮らしてきた。中華鍋をふるって、鶏肉に串を打って、文男さんと二人で厨房とホールを忙しく行ったり来たりしながら、今日も明日もお客さんたちを迎え入れるだろう。

CREDIT望月優大(取材・執筆)、柴田大輔(取材・写真)、伏見和子(取材)

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TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

1985年生まれ。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。著書『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)。代表を務める株式会社コモンセンスでは非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21