2022.06.28

誰でも自由に声が出せる、苦しいときには頼れるつながりを求めて。裘哲一さん #移住女性の声を聴く

「自分のほうが助けられる側になるとは思ってもみませんでした」

仙台で暮らす裘哲一(チュウ ツァイ)さんは、昨年起きた突然の出来事を思い出していた。

仕事中にかかってきた電話。横浜での留学時代に知り合ったフィンランド出身の夫からだった。

「ちょっと目眩がするから病院に行ってくるわ」

そう話した2歳年上の彼に「車はやめてタクシーで行ってね」と答えた。それが、最後の会話になった。50代になったばかりの夫はそのあとすぐに意識を失い、2日後に亡くなった。

持病はあったものの、予想だにしない急な別れだった。傍らには高校を卒業したばかりの息子がひとり。「頭が真っ白」になった。

裘さんがまず連絡したのは仲間と一緒に立ち上げた中国出身女性たちのコミュニティだった。宮城華僑華人女性聯誼会。略して宮華女(みやかじょ)。

「宮華女の人に連絡したらみんな来てくれて。手伝ってくれて。日本の葬式に参加したのも一回二回ぐらいしかなかったから、どういう風にやるか全くわからない…。先輩の方が色々準備してくれて、山をなんとか乗り越えられた。そのとき、本当にこういうコミュニティがあって良かったなあって」

(宮華女提供)

裘さんが宮城県の仲間たちと一緒に宮華女をつくったのは2016年。

それ以来、大人向けの日本語講座から、子ども向けの中国語教室、地域のイベントへの出店、中国出身者以外も参加する「多文化春節」の開催まで、自分たちが学びたいこと、メンバーがやってみたいと思ったことを一つずつ形にしてきた。

当初は10数名で始まったコミュニティに、今では90人もの女性たちが集う。

中国での出身地域や年齢は様々で、留学で来た人もいれば、結婚がきっかけだった人もいる。つい最近来た人もいれば、1980年代に来日した人もいる。

そうした一人ひとりの移住女性たちをエンパワーしたいという思いで立ち上げ、育ててきたつながりに、今度は裘さん自身が救われることになった。

(宮華女提供)

上海で生まれ育った裘さんが留学生として来日したのは1991年。その2年前に起きた民主化デモとその帰結には大きな衝撃を受けた。

来日してから「ほとんど楽しかったことしかない」と語る裘さんは、2011年に仙台で東日本大震災の被災者となり、大学卒業以来15年間勤め続けた職場を失った。

仕事を見つけなければならない。そうして、多くの失業者で混み合うハローワークに通う中で出会った仕事が、東北で暮らす外国人被災者たちの支援だった。

東北は相対的に外国籍住民の割合が少ない地域だ。だが、それは外国人被災者や支援ニーズの不在を意味せず、むしろ支援につながることすらできずに孤立した人々が数多くいるだろうことを意味した。

震災とは、そうした知られざる孤立を一挙に顕在化させた出来事でもあり、結果として、互いを必要とする人々同士がつながり合う機会ともなった。

裘さんは自らも被災者でありながら、震災後の支援活動に参加し、様々なルーツを持つ人々と向き合うことになった。地域の中で見えにくい人々を探し当て、話を聴き、日本社会には「こんなに助けを求めても誰も助けてくれない人たちがいるんだ」という現実を知った。

「フィリピンの方が、赤ちゃんずっと泣いてて、避難所から追い出されちゃったんですよ。みんな寝れないって言って。寒い中で、車の中で、ひっそりと。だって、子どもわからないんだもん。日本人の子どもが泣いてたら多分そういう風にされないでしょうけど…」

「沿岸部だったからね。海がすごい近くて、海風が強くて、寒くて。もう本当に凍え死にになりそうなところで、追い出されてしまった」

裘さんは底抜けに明るくて、いつもにこにこ笑っている。親切で、オープンで、とにかく前向きだ。それでもきっと、色々なことを見てきた。乗り越えてきたのだと思う。

裘さんの人生には、彼女だからこそ通過し得た時間、そして通過せざるを得なかった数多くの経験があり、いくつかの重要な転機があり、おそらく来日以前からこれまでずっと変わらない願いや信念もあった。

彼女がこれまで見てきたこと、考えてきたこと、そして様々な人々と一緒に取り組んできたこと。一つずつ、時間をかけて教えていただいた。

裘哲一(チュウ ツァイ)さん。1970年、中国・上海生まれ。1991年に来日し、東京の日本語学校、横浜市立大学への留学を経て横浜のメーカーに就職。2002年に結婚、出産。2006年に仙台に移住し、2011年に被災・失業を経験。それ以降、東北各地で暮らす外国人住民の支援に携わる。2016年に宮城華僑華人女性聯誼会を仲間と立ち上げ、今年の3月末まで代表を務めた。

来日まで

――裘さんの生い立ちはどんな感じだったんでしょうか。

1970年6月19日、昭和45年にあたるんですけれども、中国の上海市で生まれました。この写真は父と母の結婚式です。結婚式と思えない、カラフルじゃなくて、濃い紺色のスーツですね。

(裘さん提供)

当時は文化大革命で、街中、色がないです。みんな女性もスカートは禁止されて、結婚式でもウェディングドレスとか着ることは許されなかったんです。なので、カラー写真にしても多分あまり変わらない、こういう色の写真になっています。

母親のほうの曽祖母(1902年生まれ)と父親のほうの祖母(1900年生まれ)は、自分も目で見たことあるんですけれども、纏足で足が10センチくらいしかないです。変形されてるんですね。

本当に昔、中国の女性は大変だった。私が幼稚園のとき、曽祖母は迎えに来てくれたりとかして、大股で歩けないんです。一歩ずつすごく小さくて、よちよちの歩き方で来てくださったりとかしてたんですね。

――生まれたのは文化大革命の頃だったんですね。

運がいいのかわからないんですけれども、1970年で文化大革命の真っ最中ですがあまり記憶がないです。親の話とかしか聞いてないですね。

母親が階級のせいか大学受験で不合格に。結構クラスでトップだったんですけれども、当時は成績も合格ラインも非公表で。

(裘さん提供)

文化大革命が始まったら学校は勉強させないです。先生たちをいじめたり。母親に5人の兄弟がいるんですけれども、一斉に農村のほうに行かされて。農村の労働とかそういった体験を若い人にさせるべきだって。

(農村から)戻ってもすごいランクされちゃうんですね。サービス業しか就職できなかったり、国営の大手企業には入れなかったんです。身分で人を決めつけるのは本当に良くないなと思います。

大家族だったんですけれど、あなたたちのおうちが広すぎるからほかの人が入れるようにと言われて、3階建てのおうちが1階と3階は全部他人に、自分の家族は全員2階に押し込まれて生活していました。

小学校高学年くらいで、やっと父親のほうの会社からアパートを一室与えられて。そこに核家族で生活できるようになったんです。親は共働きで、私と妹が二人で。妹は四つ下です。

(裘さん提供)

――来日の経緯を聞かせてください。

元々中国では、1988年に上海の大学に一回入って、3年で中退したんですよ。大学1年生のときに民主化運動があって、ショックがすごい大きかったです。

結構学生みんな街に出て、デモに参加して、上海もそうだったんですね。みんなの話せる場所を作ってほしいとお願いして。

知り合いの学生が北京に行って、帰ってきたらしょんぼりして、何聞いても答えてくれないんです。学生にとって衝撃というか、ショックを受ける事件ではあったんですけれども。

そのときすごい留学ブームだったんです。中国も外に出れるように、個人的なパスポートとか発行できるようになって。

ただ、事件のあとに国から規制というか条例が発行されて。例えば私は5年の大学だったんですけれども、(卒業後に)5年働く義務が生じるということで(その期間中は)留学ができない。

行くなら罰金を払いなさいみたいな制度だったんです。そこで、留学希望の人は中退して留学に切り替えることが結構多かったんですね。

私も学部を卒業してから留学したいと考えていたんですけれど、途中3年生で辞めて留学に踏み込んだんです。

東京の日本語学校に2年間行ってから横浜市立大学に入りました。また学部1年生からやり直したということですね。

――1991年に上海の大学を中退して来日されたんですね。中国にいた頃から日本語を勉強されていたんですか。

最初はドイツに行きたかったんです(笑)。ドイツにおじがいて、ドイツ語を勉強していました。でもベルリンの壁が崩壊して、今は治安が悪いからダメですっておじに言われて。

留学、就職、仙台への移住

――そのあとに留学先を日本に変えたんですね。

ドイツがダメでも留学は諦められないと思って。自由になりたいという思いで。日本にも別のおじがいて、頼りになる方がいるということで、親も安心でした。

友達には、日本に頼れる人がいなくて、来てからアパートやアルバイトを探してすごい大変だっていう人たちもいっぱいいました。

――自分はその方たちと比べれば大変ではないほうだったと。

なかったんです。「あいうえお」もわからないで日本に来ました。東京の国際日本語学院に2年間。それで日本語能力試験1級も受かって横浜市立大学に入ることができました。

――日本語ゼロの状態から2年でN1合格はすごいです。

なんでかこう、しゃべるのはあまり嫌いじゃなくて。個人差がすごいあるんじゃないかと思います。

大学生活が楽しくて、中国の大学よりはだいぶ楽で(笑)。中国の学生は勉強もすごい忙しくてアルバイトもできないから。卒業旅行はエジプトとギリシャとトルコの3カ国で1ヶ月間行きました。

(裘さん提供)

――学生の頃から日本で長く暮らし続けようと考えていたんですか。

最初はそんなに長くいるつもりなかったんです。でも、暮らしてみると日本は中国にいる頃のイメージと全然違うんですね。みんな親切で、自由で。

自分の思うことを自由に言えるということも大切だし、やりたいことを実現できるというのをすごい実感して。人間らしい暮らしができるっていうかね。大学を卒業したら、日本で就職してもうちょっと住みたいなと思いました。

それで、横浜のあるメーカーに就職しました。同期で20人ぐらいだったかな。初めての外国人の社員として採用されたんです。すごい温かいファミリー的な会社で、先輩と一緒に富士山を登ったり、キャンプしたり、アウトドアがすごい楽しかったです。

上海出身でビルばっかりしか見てこなかったんですけれども、日本に来て、山行ったり、海行ったり、湖、自然の風景、ゴミがなくて、居心地が良くて、楽しくて。

会社側も中国進出するのに、私に通訳担当だったり、現地での研修をさせたり。育休、産休もちゃんと取得できて、出張のときも子どもを連れてっていいとか、子どもの航空券まで出していただいて、すごい配慮もあって感謝しています。会社勤務は15年間ぐらい続いたんです。

――日本でご家族ができたのもその頃でしょうか。

夫はフィンランド人で、大学の同級生で、卒業してからつきあい始めたんです。2002年に中国で結婚しました。男の子が生まれて、これからも日本で住んでいこうと。

結婚式では親戚だけじゃなくて、親の同僚だったり友達とか、周り近所の人とか、すごいいっぱい招待しました。全部親任せで(笑)。挨拶まわってても半分くらいしかわからないくらいで。すごいわいわいやって楽しかったです。

(裘さん提供)

夫は元々学生時代で空手を習ってて、日本の文化にすごい興味を持ってたんですね。英語の先生として、YMCAのボランティアで日本とか韓国とかいくつか希望を出して、日本は落ちて韓国に1年間行ったんです。

その間も日本に遊びに来て、やっぱり日本に行きたいと思って。一度フィンランドに戻ってから日本に留学することになったんです。

――子育ても含めて、家庭の中での言葉はどうされてきましたか。中国語、フィンランド語、日本語、三つの言葉がありますね。

夫との共通語は日本語なんですよ。大学のとき、色んな国の留学生で日本語で話してて、自然にずっと日本語です。でも夫からもらった手紙は英語です(笑)。

――裘さんはフィンランド語も話せるんですか。

フィンランド語は難しくて、本当に挨拶程度しかわからないです。

夫に「子どもにぜひ中国語を教えたい、フィンランド語も教えてほしい」と言ったら、「いやあ中国語はしゃべれる人が多いから将来に役立つかもしれないけど、フィンランド語は500万人しか話さないから教える気ないわ」って言われて(笑)。

と言っても、子どもにはフィンランドのアイデンティティがあって、文化に興味を持ったり、自分からフィンランド語の勉強もしています。

被災から支援へ

――横浜から今住んでいる仙台に移られたのはいつ頃ですか。

夫が2006年に仙台へ転勤と言われて。仙台は一度も来たことないし、誰も友達がいない。すごい不安だったんですけど、でもなんとかできるんじゃないかって。

それで、会社に辞表を出したら、なんと仙台営業所がありますよと言われて私も転勤になりました。

仙台に来ても家庭と仕事の両立をして、旅行もしながら楽しく過ごしていました。年に中国に1回、フィンランドに1回という風に、両方の親に子どもを見せたり。夫は一人っ子で、お父さんが亡くなってお母さんが一人です。

PTAとか、町内会とか、子ども会の行事も積極的に参加して、ママ友がいっぱいできました。当時は全然周りに外国人の知り合いがいなかったんですね。

――その仙台で2011年の東日本大震災に遭われたんですね。

全部ライフラインが止まっちゃって、車でテレビをつけて津波の映像を見ながら、すごい困ってました。子どもつながりのみんなのおうちに大丈夫か?と聞きに行ったり。

こっちでは情報がほとんど手に入らない中で、上海のお母さんから国際電話で「中国の大使館が用意してくれたバスが仙台国際ホテルの前に止まってるよ」と知らされました。中国では24時間報道をしていたみたいで。

最初は帰らなくてもいいんじゃないかと思ってたんですけれど、親から原発も危ないと言われて、夫と相談して3人で行くかって。子どものことも心配で。

バスで大きな荷物は持って行けないからリュック1個でした。夫はたまたま3月17日が誕生日だったんですけれども、同じマンションのお母さんがビニール袋に入ったスポンジケーキの切れ端をくれたんです。それをリュックに詰めて、17日に食べて、3人で頑張ろうねって。すごい体に染みて、大事なケーキを分けてもらって本当に感謝の気持ちがあります。

震災で感動の場面がたくさんありました。助け合いとか、お店に行ってもみんな列を並んで。レジも打てないから一個100円、一人5個までって、パニック状態にならずに、分かち合いというか、すごい秩序を守られていて。

――震災が起きて数日経ってから中国に出発されたんですね。

バスで(中国の領事館がある)新潟にまず行って、でも飛行機になかなか乗れなかったから名古屋に。夫はフィンランド人で中国入るのにビザが必要で、東京より香港で取得したほうが早いということで、名古屋から香港、香港から上海に。全部で1週間以上かかりました。

子どもは小学校2年生で、(避難生活が)いつまでになるかわからないから現地の小学校に入れたんですよ。全然中国語がわからないので1年生のクラスでした。

子どもはすごいストレスだったんです。毎日英語の授業以外は全部わからなくて本当につらい。1年生でもめちゃくちゃ宿題をもらって。英語の先生、数学の先生、全部違って、日本の教育とは全然違う。圧倒されて、中国の学校はやだっていう感じに。

近所の公園とかで遊んでるのは幼稚園生だけなんです。学校の宿題が終わったら塾に行かされて。一人っ子政策というのもあるし、受験対策とか小さい頃から色々。習い事もピアノにしても何にしても何ランクとかテストがあって、それが目的みたいになると楽しみがなくなっちゃう。

向こうの学期は6月で終わったので、3ヶ月くらい避難生活をして、6月末に仙台に帰ってきました。

――仙台でのお仕事はどうなりましたか。

震災で事務所が全部ぐちゃぐちゃで閉鎖になってしまって。失業しました。仕事を失ってこれからどうしようって。

ボランティアもやりたいなと思って、仙台市と宮城県の両方の国際交流協会に登録して、小学校で中国から来てる子どもたちの学習サポートとかもやっていました。

みんな仕事を探していて、ハローワークは人がすごかったです。ハローワークでパソコンの勉強をして職探しをしました。

私の長所は日本語を話せる外国人であること。それで「外国人被災者支援プロジェクト(*)」の求人にパッと目を止めて、私にすごいフィットしてる、自分が役に立てる仕事だと思いました。本当に人生の転機です。

(*)外国人被災者を対象とした支援プロジェクト。発災直後の支援や情報交換、国際シンポジウムなどを経て、東北ヘルプ(仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク)、外キ協(外国人住民基本法の制定を求める全国キリスト教連絡協議会)、NPO笑顔のお手伝いが2011年9月に立ち上げた。

教会関係とか、大学の先生とか、色んな分野の方が集まって、外国人被災者の支援をみんなでしました。石巻市と気仙沼市の役所とコラボして、どこでどんな人が困ってるかというアンケート調査もしたんですね。

全ての外国人住民にアンケートを配って、困ってる人、返信された方に個別面談をして。それぞれの言葉の通訳をつけて、何が困ってるかを聞き取りして、そこから解決策を考案してサポートしたんです。

市役所の会議室だったり、イオンのフードコートなどでも話を聞きました。運転できない方もいるので、山奥に暮らされている女性の家まで行くこともあります。一週間にバスが2便しかないところもありました。

――どんな相談がありましたか。

本当にみんな困ってらっしゃって。住むところとか、生活とか。

やっぱり収入がないというのが多いです。津波で全部流されちゃったり、みんな仕事がないんですよ。しばらくは瓦礫撤去で日当をもらったりしてる方も多いんですけど、(そのあと)どうしようとか。

外国人の妻が一番困ってたんですね。日本人の夫が亡くなったとか。今まで夫が全部取りまとめしてて、お金の管理から色んな生活に関わることを全部わからなくなっちゃって。小さい子どもを抱えたりしてると余計にどうしようという感じで。

――東北は結婚移住で日本の男性と結婚された女性も多い地域ですね。中国や韓国、フィリピンなど。震災前からあった問題が顕在化した部分もありそうです。

元々あるんです。中国の方で、20年、30年と日本人の夫と暮らしていて、ひらがなも読めない人もいます。夫とも少しの日常会話くらいしかできない場合もあって。

地域の中で孤立されていたり、家だけにずっといたわけではなくても、農業とか工場とか、日本語があまり必要ない職場で働いていたり。

夫と年齢差が10歳、20歳とあることも多くて、最初から気持ちが対等ではなかったり、わずかな小遣いだけで、行動の自由まで制限される人もいました。

フィリピンの方で実家に仕送りする方もいて、それを夫の親に非難されちゃったり、すごい肩身が狭い女性も多いんです。信頼されなくて。

実際に耐えられなくて逃げ出す人もいます。逆に、震災で家が全部流されて、それでも逃げなかったことで初めて信頼されたという人もいました。

――支援活動をきっかけに、同じ外国出身でも自分とは境遇の違う方々と出会われた。

ああ、私はすごい恵まれてたんだなと思いました。

日本語についても、日本に住んでいればそのうち自然に流暢になると思ってたんです。でも、そうではない。日本語教室がない地域もあるし、あっても行けない人もいる。勉強するチャンスがあるかどうか、大きな違いがあります。

技能実習生の話も聞いて、ショックが大きくて。こんなに厳しい環境で、こんなに労働を強いられて、こんなに助けを呼んでも誰も助けてくれない人たちがいるんだと。同じ国から来ていても私とは全然違う。私が困らなくても、困ってる人たちがたくさんいます。

支援をしながら、とびきり明るいフィリピンの方からは逆にすごいパワーをもらいました。夫が亡くなったり、家を流されちゃったりもしているのに、生きていれば何か希望を必ず見つけるって、笑顔でチャリティをやったり。

(裘さん提供)

――宮城県以外でも活動をされてきたんですか。

「福島移住女性支援ネットワーク(*)」にも関わっていて、そこで出会ったのが、震災後にコミュニティを作り始めた中国人女性の方々です。

(*)郡山市やいわき市、須賀川市など、福島県各地に点在する様々な移住女性コミュニティの支援をするネットワーク。略称EIWAN。先述の「外国人被災者支援プロジェクト」にも参加した外キ協の佐藤信行氏らが中心となって立ち上げた。

佐藤先生と最初に見つけたのが「つばさ〜日中ハーフ支援会」というコミュニティでした。二人でレンタカーを借りて、須賀川市の田んぼ道をずーっと走っていったら、ぽつっと2階建ての公民館が出てきたんです。

そこではお母さんたちが日本語教室で勉強して、子どもたちには中国語を教えて、みんなでご飯を作って食べたり、運動会をやったり、合宿をやったり。とても活発でした。

2015年からは「福島子どもフォーラム」も開催して、これまで全5回やったんです。福島、山形、宮城、新潟の4県から、中国語と韓国語の継承語(*)教室の子どもたちが参加しています。トータルで10個の教室です。

(*)移民や少数民族などのルーツを持つ人々が、親や家族、同じルーツをもつコミュニティなどから受け継ぐ言葉

子どもたちのモチベーションもすごい上がりました。自分と別の教室に(継承語が)すごい上手な子がいたら、今度は負けないように頑張ろうとか思ってね。

女性たちのつながり

――そして、ついには自分たちでも「宮華女」というコミュニティを作られたんですね。

2016年に仙台で初めての中国映画祭に関わりました。その評判がすごい良くて、そのときの仲間たちと一緒に団体を設立しましょうということになって。それで、「宮城華僑華人女性聯誼会」をつくりました。

(宮華女提供)

日本語講座など「大人たちの学習」、中国語教室や中国へのサマーキャンプなど「子どもたちの教育」、地域の祭りやイベントなど「国際交流」の三本柱です。

日本語はライティングのコースですね。(世の中の)日本語教室は初級、中級は多いんですけれども、作文を指導するような講座がなくって。

PTA活動とか、仕事のビジネス文書とか、(来日してから)結構長くても文章が苦手でどんな人に対してどんな文章を書いたらいいかわからないという人が多いんです。

中国人は漢字ばかり書いて硬い文章になってるとかもあって。先生の教え方がすごい良くて好評なのでずっと続いています。

――子どもたちのことで大切にしていることはありますか。

自分のルーツに対して隠すんじゃなくて自慢できるような、自信につながるような気持ちを持ってほしい。

みんなで勉強しながら横のつながりができたり、一緒にサマーキャンプとか、外で遊ぼうとか、楽しく遊びの中で友達がつくれたらと思います。

親が参観日に学校行ったりしても、黙っててとか、しゃべらないでとか、外国人であることをバラしたくない。いじめにされると嫌だとかね。そういうのを解消したいです。

マイナスじゃなくてプラスにしたい。日本語だけじゃなくてほかの言語もできたら自信につながるんじゃないかって。

(宮華女提供)

親子関係でも言葉が理解できない、自分の言いたいこと、思うことをうまく伝えられない、それで疎遠になってしまうことがあります。

子どものために一生懸命にやっても全然理解してもらえないというのは一番悲しいことです。

――コロナの影響は大きかったですか。

旧正月とか団子の節句とか、イベントも全部ダメになってしまって。2020年はほとんど活動ゼロというか、オンラインでちょっと交流会をしたくらいですね。

2021年からオンラインで日本語と中国語の教室を再開しました。ただ、日本語の作文は対面じゃないとなかなかできないので、メイクアップとか冠婚葬祭とかの講座もやっています。

――コロナ禍では日本でも中国出身の方々に対する偏見や差別の問題がありました。

やっぱり中国語をしゃべると見られたりとか、すぐにマスクされちゃったりとか、感じちゃうんですね。

(コロナ禍の初期の頃に)宮華女のメンバーとも話し合って、みんな感じていて、万が一感染者が出たら余計に言われるんじゃないかなと思いました。活動は中止にしたほうがいいなと。

――メンバーは今どれくらいですか。

1000円の年会費を払っている会員が90人で、WeChatの情報交流グループに入っているのが206人です。子ども中国語教室に参加している子が74人います。

――中国出身の女性たちが宮城だけで200人もつながっているんですね。

忙しくてなかなか活動には参加できない人でも、グループに入っていれば色んな情報がキャッチできるからどんどんメンバーが増えていくんですよね。

SenTIA(仙台国際観光協会)からの情報とか、ゴミの分別方法とか、防災訓練とか、日本語教室が始まりますとか、いい情報があったらWeChatで全部流してるんです。

うちの教室じゃなくても、無料の日本語教室たくさんあるんですから。まず情報をと思って。

――そもそも女性たちのグループを作ろうと思ったのはどういう理由だったんですか。

男性と女性が両方参加する中国のコミュニティもあるんですけど、なんていうかな、動いてるのは割と女性のほうが多いんですよね。男性は大体忙しくて、企画でアイデアは出してくれるかもしれないけど、具体的な活動はなかなか…。

――やってくれないと。

そうなんです。口だけ出して、あとはやれみたいなね(笑)。そういうのって、本当にやってる人たちは自分がやりたいことなのか。男の人が決めて、やってる人は女性で、自分たちがやりたくもないことをやっている(笑)。そういうことがあったりするんですよ。

だから、もうちょっと女性の目線で色んな活動ができたらなと。女性主体であることと、ただ楽しんで終わりではなくて、学びとエンパワメントも入れたほうがいいなと思って。

――誰でも声や意見を自由に出せること、声を出しやすい環境を作ることを大切にされている。

私の言うことだけやってたら、じゃあ会長どうぞどうぞ、全部最初から最後までやってということで、誰も助けてくれないです(笑)。

みんなの意見、みんなで決めたことで、みんなで協力し合う。そういう気持ちでやっていくうちに、この人はこんなことができるなとか、このことを生かせるなとか、段々出てくるんですね。

孔子の言葉で「三人行けば必ず我が師あり(三人行、必有我師焉)」と言いますけれども、年齢関係なく、それぞれの優れたところを学び合って。

それから、女性だけのメンバーだと声出しやすいんです。グループの中に男の人、偉い人とかもいると、色んなディープの話を出しにくい。

女性しかいないとちょっとハードルが下がって、ささやかな困りごとでもこのグループだったら言えるんですよね。

――いつ自分が困るかわからないけれど、苦しいときに相談できる人、頼れる人がいることはとても大きいですね。裘さんもご家族に突然のことがあって。

最初は自分がみんなにエンパワーしようと思ってたんです。私は元気だし困ってなかったから。でも本当に、自分にもそういう番が来るんだなって思いました。

――誰にもしんどくなるときは来る。

そう。来るんですね。いつなるかはわからない。いつどういうものが降り注ぐかはわからない。でも、こういうグループがあれば、誰かが困っててもみんなが助けに行ける。だから作って良かった、安心だなと本当に思うんですよね。

――震災のような出来事も含めて、いざというときに支え合える関係性、そして上下ではないフラットなつながりの大切さも見えてきた。

そう、フラットに。みんな透明に。透明が一番だなあと思って。何やりたいのか、結果やってどうなったか。

毎年の総会で、繰り越しはいくらとか会計も全部オープンにして、監査もつけて。前年度の報告と新しい年度の企画とか、全部毎年きっちりとやってます。

年間一人1000円の会費を徴収してるので、1000円と言ってもやっぱりみんなお金出してるから、その1000円はどう使ってるのか知りたいし、きちっと報告するべきです。

――みんな同じ1000円。

同じ1000円です。こういう風に使いましたってちゃんと説明して。ちなみにこの2年間は会費を取ってないです。コロナで全部オンラインだったし、大したお金はかかってなかったから。

本当にみんなが信頼できるような組織というか、そういうのを作りたいと思ってたんですね。平等で、透明で、みんなが自由にできるような団体を目指したくて。

――それは裘さんがこれまでずっと大事にし続けてきた価値観とも言えるでしょうか。

不透明とか、理不尽とか、差別とか、あってはならないと思うんです。やっぱり自由と平等を、ずっと求めています。

*本記事は2021年秋から22年春にかけて実施した複数回のインタビューに加え、オンラインイベント「からふるカフェ」(外キ協など主催)での裘さんご自身のお話をもとに制作しました。ご協力いただいた皆様に感謝します。

今回、過去の様々なインタビューを踏まえて #移住女性の声を聴く というテーマを設定しました。宮華女のメンバーの皆さんから伺ったお話も別の記事でお届けする予定です。

CREDIT
望月優大|取材・執筆
柴田大輔|取材・写真
伏見和子(難民支援協会)|取材

TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

1985年生まれ。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。著書『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)。代表を務める株式会社コモンセンスでは非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21