
2025.10.08
北海道浦河町のインド人(1)故郷を離れ、日本で競走馬を育てる人たち
北海道の南部に突き出た襟裳岬から、西へ車で約1時間の距離に位置する浦河町。背後には日高山脈、目の前には太平洋が広がる風光明媚な土地柄だ。
浦河町を含む日高地方は、北海道の中では比較的温暖な地域で、近隣の新ひだか町や新冠町などとともに、サラブレッドなど軽種馬の主要な生産地として知られる。

人口約1万1千人の浦河町では近年、外国籍の住民が増えているという。直近では600人に迫り、全体の5%超となった(2025年8月末現在)。全国平均の約3%を上回っている。
その大半を占めるのがインドから来た男性たちだ。インド西部のラジャスタン州や東部ビハール州の出身で、故郷での経験を活かしながら、浦河町の各牧場に所属し、競走馬の育成に携わっている。
かれらが日高地方で働くようになった背景には、競走馬の育成に関わる日本側の人手不足、そして競馬市場そのもの拡大がある。馬券のネット購入の普及やコロナ禍などの影響で、競馬の売り上げは伸びているそうだ。
つまり、この浦河町という場所は、一方ではインドの人々の故郷につながり、もう一方では全国の競馬場、そして無数の人々が眺めるスマートフォンにつながっている。

筆者は大学時代の6年間を札幌で過ごした。その後、写真家となってからも毎年数回のペースで北海道に通っている。広大な北海道の各地をめぐる中で、日高地方で働くインド人の話を知り、ぜひ自分の目でその様子を見てみたいと思った。
なぜインドの人々なのか。いつから増え始めたのか。浦河町ではどんな仕事をして、どんな風に生活しているのだろう。
誰もが知るように、日本全体で外国人労働者が増え、様々な産業を通じて日本社会の支えとなっている。数ある職種の中でも、競走馬の育成、調教はかなり特殊な仕事に入るだろう。

今回の取材(2025年2月末、以下肩書などは当時)では、浦河町職員の方々、競走馬の育成に関わる方々、そしてインド出身の方々にも実際にお会いし、お話を聞くことができた。男性の労働者の方が多かったが、なかには妻や子どもと一緒に暮らす人たちもいた。
今の浦河で共に暮らす人々の言葉、様々な場所で撮った写真を、前後編に分けてお届けしたい。
地域の中で孤立しないように
最初にお話を伺ったのは、浦河町役場企画課の室谷洋介さん。町役場では生活者としての外国人住民に対する様々なサポートに取り組んでいる。

――浦河町では現在どれくらいの外国籍住民が暮らしていますか?
外国籍住民が531人(2025年1月末現在)で、うち約350人がインド国籍です。浦河町の人口がだいたい1万1千人なので、20人に1人(約4.8%)くらいですね。
――インド出身の方々が増え始めたのはいつ頃からですか?
10年くらい前までは一人もいなくて、それから少しずつです。牧場経営者の方々が積極的にインドの方や外国籍の方を雇用しているので、特に近年、急速に増えています。通訳や生活支援などが必要になってきて、浦河町としてもこの3年ほどで特に力を入れ始めました。
町としては、日本人であろうと、外国人であろうと、同じ町民として、同等のサービスを提供するのが使命だと考えています。
具体的には、地域おこし協力隊としてヒンディー語が話せる稲岡千春さんと、国際交流員としてインド出身のミナクシ・ソニさんを採用しました。必要なときに通訳を担当してもらっています。

――ヒンディー語と日本語での通訳ができる方が二人もいるというのは心強いですね。
日高管内の他の市町村でもインド人の労働者が増えています。その中で、稲岡さんやソニさんの力も借りながら、浦河町が少し先駆けて支援を始めたというような状況です。
男性の労働者の方の場合は雇用主側で対応できることも多いのですが、最近では家族の女性も増えてきています。女性は特にヒンディー語しか話せないことが多いですし、現地の習慣で家の外にほとんど出ず、孤立してしまっている方も多くて。
それで、浦河町ではインド人のご家庭を定期的に訪問して、困りごとを聞いたり、生活をサポートする取り組みを行っています。

――町役場のほうから家庭まで訪問されているんですね。
そうですね。例えば野菜の共同購入の仕組みも作って、各家庭まで届けています。インドの野菜が浦河では買えず、料理を作るのが難しくて、家族が栄養失調気味になってしまっていたこともありました。
ほかにも母子手帳をヒンディー語に翻訳したものを配布したり、妊婦の方も含めて通院の際に通訳をするなどの支援も行なっています。
「ラジャスタン出身で日本語を話せる人」募集
牧場が集中し、インドの方が多く暮らすのは、浦河町の山間部にある西舎地区。町役場のある海沿いの市街地から、車で15分ほど日高山脈の方へ入ったところだ。
この日は夕方から、地域の生活館で町役場による外国籍住民への確定申告のサポートが行われていた。引き続き室谷さんのお話。

――インドの方たちが仕事を終えて続々と集まってこられましたね。今日はここで何をされるんですか?
今日は主に、確定申告で国外扶養(国外居住親族に係る扶養控除等)の適用を受ける際に必要な書類作成のサポートです。
日本からインドにいる家族に生活費などの送金をしていることを示す書類などですね。事業所側で少し対応が難しいところもあるようで、役場でこうした機会を設けています。
これまでは少しの英語とジェスチャーでなんとかコミュニケーションしていたのですが、今回からは去年の夏に国際交流員に着任したソニさんに、ヒンディー語と英語での通訳を担当してもらうことになりました。

室谷さんが言う通り、会場ではソニさんが日本語を含むいくつもの言語を使い分けながら、役場の担当者と相談者とのあいだに立って大活躍されていた。そんなソニさんからもお話を聞いた。
――昨年、インドから浦河町に来られたんですね。
はい、そうです。私は元々インドのラジャスタン州の出身で、大学からムンバイに住んでいました。父がラジャスタンで金細工の仕事をしていて、日本の金継ぎの器を持っていました。それがきっかけで子どもの頃、日本に興味を持ちました。
日本語の勉強は大人になってから始めました。日本語検定を取って、ムンバイの中学校で日本語を教えていました。去年、友人から、日本の浦河という町で「ラジャスタン出身で日本語を話せる人」を探しているって聞いたんです。それで面接を受けて、こちらに来ることになりました。
――普段はどんなお仕事をされているんですか?
ヒンディー語での住民向け資料の翻訳ですね。あと、町役場にインドの方が来たら、通訳をしています。1週間に2回、町内の小学校で、インド人の小学生の宿題のサポートもしています。

――小学校に通う子どももいるんですね。ソニさんもラジャスタン州出身とのことですが、浦河にはラジャスタンの方が多いと聞きました。
はい、とっても多いです。インドの中でも、ラジャスタンのジョードプルはポロ(馬に乗って行う団体球技)が有名で、馬の世話をしている人が多いから。私も浦河にこんなにラジャスタン人がいると知りませんでした。こっちに来てびっくり。
ラジャスタンの人はラジャスタン語(マールワール語)を話します。ラジャスタン語とヒンディー語は少し似ていますが、発音が少し違います。外で働いている男性はヒンディー語も話せる人が多いですが、女性にはラジャスタン語しか話せない方もいます。
浦河にいるラジャスタン出身の女性は、小さな村から来た人が多いです。ヒンディー語がほとんどわからない女性も数名います。
――ソニさんがヒンディー語とラジャスタン語の両方を話せるというのはとても大きいですね。お話ありがとうございました。


浦河で働く理由
その後、浦河町での滞在中に、ラジャスタン州のジョードプル出身の方から牧場でのお仕事の合間にお話を聞くことができた。ガヤド・シンさんと妻のプシュパさんだ。
地域おこし協力隊(取材当時)の稲岡千春さんに通訳をしてもらいながらお話を聞いた。

――せっかくのお昼の休憩どきにお時間をいただいてすみません。シンさんはいつ頃浦河に来られたんですか?
私は6年間。妻は来日して16ヶ月です。
――後から一緒に住むようになったんですね。牧場の仕事は朝が早いですか?
4時半に起きて、5時半から牧場で馬の世話などの仕事です。7時半に一旦自宅に戻って朝ごはんを食べて。1時間の休憩後、8時半からまた仕事です。
午前中は13時半まで。昼ごはんを食べてまた休憩。そのあとは17時まで仕事です。夜は21時に寝て、朝はまた4時半に起きる生活ですね。

――日本に来る前はどんなお仕事をしていましたか?
最初にジョードプルで馬の調教の仕事について10年くらいやっていたけど、インドでは給料がすごく安いです。そのあとタクシードライバーになって、それからまた馬の仕事に戻って、5、6年経ってから日本に来ました。
インドでは馬に乗るのが仕事だけど、日本では馬の世話も両方やらないといけないから、考える暇もないくらい忙しい。休みは月に3日です。馬の出産シーズンはもっと忙しいこともあります。
――インドに帰ることもありますか?
2年間帰国していなかったけど、ちょうど1ヶ月後に結婚式があるから帰ります。45日間です。片道のチケットと半月分の有給休暇をもらって帰国します。

――浦河では男性が一人で暮らしている方が多いですが、ご夫婦で一緒に住むことにしたきっかけはありますか?
インドにいる私のお父さんとお母さんが二人とも亡くなってしまったので、妻が本当に一人だけになってしまって。心配だから、それで一緒に暮らすことになりました。
私たちには子どもが二人います。一人は故郷のジョードプルから離れたバンガロールで馬の調教の仕事をしていて、もう一人は日本に来ています。
インドでは学校を出た人には良い仕事がないわけではないですが、自分たちのように教育を受けていない人にとっては馬の仕事かタクシードライバーくらいしか仕事がない。給料も安くて生活するのが難しいです。
――普段は仮眠をとられている時間に貴重なお話を本当にありがとうございました。午後のお仕事も頑張ってください。
調教場の風景
浦河町にはJRA(日本中央競馬会)が保有する巨大な育成調教場がある。現地で施設の運営などを担う公益財団法人軽種馬調教育成センター(BTC)の石井伸宏さんにご案内いただきながら、お話を聞いた。

――石井さん、朝早くからありがとうございます。
はい、よろしくお願いします。調教場は朝7時からで、閉場は14時半ですけど、11時ぐらいまでには調教場を使った馬のトレーニングを終えている牧場が多いですね。
一頭あたりの時間は短くても、騎手一人に対して乗る馬の数が多い牧場は時間がかかります。午前中で終えても、午後は厩舎で馬の世話が色々あって、夕方は餌も食べさせなきゃいけないので。
――馬はここまでどうやって来るんですか?
近い牧場からは普通に歩いていきます。道路で馬に乗っているのは軽車両扱いで、自転車と同じなんですね。本当はもっと高級なものなんですけど(笑)。牧場が遠い場合は車で連れてきています。

――1日にどれくらいの馬が来るんですか?
去年が1年間で延べ16万6000頭ぐらいで、1日平均で535頭ぐらいです。この時期だと700頭ぐらいかな。
今ちょうどトレーニングをやっているので見てみましょうか。この細長い建物が屋内直線馬場です。外はまだ雪が積もっているので、皆さん施設の中で調教をしています。


――ものすごく大きな施設ですね。屋外で調教ができるのは何月頃までですか?
屋内直線馬場は長さが1000メートル、幅員が片側7メートルあります。外でやるのは例年11月いっぱいまでかな。雪が降ったら終わり。今年は雪が少なかったんです。降り始めも遅くて、かなり遅くまで外でトレーニングできたんですけど。
――長さが1キロも。
ここの土地や施設はJRAの持ち物で、BTCはその運営管理をする形になっています。調教場がオープンしたのが1993年で、私もその頃から働いています。

この地域には明治時代から今の調教場ができるまで、農林水産省の種畜牧場がありました。馬牧は江戸時代からあって、明治の日露戦争とか、あの頃は戦場でまだ馬が主流でしたよね。
現在BTCを利用する育成牧場が40ぐらいです。育成牧場は馬主さんから馬を預り、調教してレースに出られるまで育てる牧場ですね。出産から調教開始まで育てるのが生産牧場です。
ここで馬に乗っている方たちはどこかの育成牧場に所属していて、騎手の帽子の色で牧場を見分けられるようになっています。無線で指示を送っているのが各牧場の代表者の方で、ほとんどがこの近辺の牧場さんですね。

――最近はインド出身の調教要員の方が増えているそうですね。
インドの方はこの10年ぐらいで増えてきましたね。インド以外だとフィリピンの方が20数名いて、大体20年くらい前から。南アフリカとかジンバブエからも結構。
――これはイギリスの植民地だった国と関係があるのでしょうか。
そうですね、イギリスが作った競馬場が影響していると思います。マレーシアから来ている方も昔からいます。シンガポールも近いですしね。
昔は豪州とかヨーロッパから来る方もいました。それこそイギリスやアイルランドからも。それからだんだんとフィリピンやマレーシアなど東南アジアに変遷して、10年くらい前からインドの方が増えましたね。

人手不足の理由
――インド出身の方が多くなる前の歴史があったんですね。欧米や東南アジアなど世界中から。
最新のトレンドとしてはジンバブエや南アフリカなど、アフリカの旧植民地で競馬が盛んな国からも来るようになってきています。
――調教要員と調教師は違う仕事なのでしょうか。
違います。日本の調教師は、JRAや各地方競馬において厩務員等が働く厩舎を運営して、競走馬を管理調教し、レースに出られるようにする仕事です。

インド出身の方たちは「技能」の在留資格で来ている方で、採用は各牧場が行なっている形ですね。
――インドを含めた外国出身者の総数としては今が一番多いのでしょうか。
多いです。外国籍の調教要員が約500人で、合計数も増えています。日本人の志望者が少ないという状況だけに。
――馬を調教できる人が不足しているからこそ外国出身の方が必要になるわけですね。競馬業界自体は盛り上がっているのでしょうか?
盛り上がっていますよね。7年、8年ぐらい前から徐々に増えてきました。中央競馬よりも地方競馬の売り上げがすごいですよ。

一番増えたのがコロナ禍からですね。ホッカイドウ競馬だったら2000年代初頭までは年間100億円超で推移していたものが、今、400億、500億と。もうアンビリーバブルの世界なんです。
――スマホで馬券が買えるようになったのも大きいですか?
そう、それが大きいと思います。ウマ娘なんかもありますよね、ああいう話題性のあるものの影響が。
だから馬券が売れる売れる。そうしたら魅力ある馬を自分で持ちたいという人も増えますよね。馬を持ちたい人は、競り会場で少しでも価格を積み上げる。
昔は競り市場で200万円くらいで買えた時代もありましたが、今はもうそれじゃ無理ですよね。何百万円じゃ買えない。本当に1000万円からスタートみたいな世界です。

――馬が高く売れるから育てる、育てるためには人が要ると。
実はこのあたりでは、その前20年ぐらいは業界の下り坂が続いて、生産牧場が減少しました。その中でも、BTCを使っている育成牧場はなんとか頑張っているような時代でした。
馬に乗るのはけっこう特殊な仕事じゃないですか。いきなり乗れって言われても、誰でもできるわけではない。
だからやっぱり経験のある人が必要で。日本人の就労者だけでは、この業界は慢性的な人手不足になっているので、それで外国から来て働いてもらうような形になっています。
――インドをはじめ外国出身の方が浦河町で働く背景やどんな仕事をしているかなど、とてもよくわかりました。石井さん、ありがとうございました。

スーパーでまとめ買い
夕方、インド出身の方がよく訪れるという市街地のスーパーに行ってみた。二人組の男性が買い物をしていたので早速声を掛けた。浦河に来て5年目だというグラブ・シンさんと簡単な英語でやり取りをしていると、ほかの友人たちも集まってきた。


――これは何の材料ですか?
カレーを作るよ。トマト、ポテト、キャベツ。日本のトマトは高いね。キャベツはヒンディー語でパタゴビと言います。
これはチャイに使う砂糖で毎回一袋買ってる。大きな家にインド人8人で住んでるからね。台所は一緒で、みんなで一緒にご飯を食べています。浦河の牧場で働いていて、同僚はインド人が8人、日本人が3人です。
――スーパーには週に何回くらい買い物に来ますか?
週に2回くらい来るね。同じ牧場で働いている友達の分もまとめて買うから。


――家族はインドに?
こっちでは単身で、妻と息子がラジャスタンのジョードプルにいます。8年前にインドからカタールに渡って馬の仕事をして、イギリスのロンドン、フランスでも働いて、それから浦河に来ました。ここのほうが給料が高かったし、友達もたくさん来ていたからね。今は38歳で、浦河に来て5年目になる。
――浦河での仕事はどうですか?
毎日BTCに行って、馬のトレーニングをしています。休みは日曜日だけで、月1回は日曜日も働くね。だから休みは月に3、4日。それで12ヶ月働いたら、45日間の休みがあるのでそのときにインドに帰ります。

これは何かな?靴を修理するのに使える?
――ゴム用って書いてあるから、使えますね。
ありがとう。じゃあ買おう。
――牛乳もたくさん買うんですね。
こっちの緑色のパックの牛乳はチャイ用で、青いほうはそのまま飲みます。大体みんな1日に1本飲むね。ヨーグルトもたくさん食べるよ。


――お会計は1万2000円ですか。すごい量ですね。いつもこれぐらい?
いつも同じぐらい買うよ。買った食材で料理をして、毎週土曜日の夜に20人ぐらいのインド人みんなで集まって、家でパーティーをするのが楽しみだね。


自宅の一角をインド食材店に
シンさんたちと別れると18時を回っていた。近くの住宅街にインドの食材を扱う小さなお店があると聞いたので向かってみる。
ダンニャワードショップという名前で、「ダンニャワード」はヒンディー語の「ありがとう」だ。
インド出身者の要望に応え、7年前に自宅の一角でお店を始めたという及川直之さんにお話を聞いた。

――このお店はいつ頃から?
2018年頃からもう7年くらいやっています。実は副業で。
――本業は何をされているんですか?
僕も彼らと同業者でして。浦河の育成牧場で馬に乗ってるんですよ。

――なんと、そうなんですね。どうしてこのお店を?
同僚で友達のインド人たちから「インターネットで食材を買ってるんだけど高い」って聞いていて。自分で試しに仕入れてみたら口コミで広がって。これ仕事で成り立つなって思ったのがきっかけです。
インド人って食べ物に関しては何でもいいわけじゃない。やっぱり故郷の食べ物ですね。休みの日にラーメン食べに行こう、とはならないですから。
最初はアタ(チャパティを作るための全粒粉)とか、バスマティ米とか、チリパウダーとか、そんなものだったんですけど。そのうちに「あれ取って」「これ取って」ってなってきて。今は頼まれたものを何でも取り扱ってます。


――お客さんは単身の男性が多いですか?
そうですね。家族連れは感覚的に数十人に一人くらいじゃないでしょうか。家族を日本に連れてくるとやっぱりお金がかかる。一人暮らしの男性がめちゃくちゃ家事をしていて、仕事が終わってから買い物に来ている。
よく「食事食べにきて」って誘われるんですけど、夕食は20時くらいなんですよ。朝は4時、5時に起きるのに、大変ですよね。
――ムスリムのお客さんも来ていますね。
最初はラジャスタンの人(ヒンドゥー教徒)が多かったですけどちょっと減ってきて、今はビハール出身のムスリムと半々くらいじゃないかと思います。ハラールフードなんかもありますよ。
最近は南アフリカやジンバブエの人も増えてきています。南アフリカ大使館にも直接電話して、食文化を聞いたりしました。この黄色い粉はミリミルというトウモロコシの粉を乾燥させたもので、これでバップという南アフリカでは主食になる食べ物を作ります。


――馬の仕事で浦河に来る人たちが多様化する中で、扱う食材も増やしているんですね。最近減っているラジャスタンの方たちはインドに帰っているのですか。
帰国じゃなくて、働く国を変えています。日本の円がどんどん安くなってきたこともあって、ニュージーランド、オーストラリア、あとイングランド、アイルランド、そのあたりがよく話に出てきますね。
――まさに世界各地で働いているんですね。お忙しい時間帯にお話聞かせてくださりありがとうございました。
後編では「家族」の話を
今回の取材では故郷のインドから中東やヨーロッパなどの国々を経て浦河に来た方に多く出会った。スーパーで出会ったシンさんもその一人だ。彼らの多くは単身で、より良い職場があれば、浦河からまた別の国に行く場合もある。
その一方、まだ少数ではあるものの、妻を浦河に呼び寄せ、浦河で子どもが生まれるという家族も増えてきている。後編では、浦河でインド人住民の母子支援に取り組む稲岡千春さんと一緒に、様々な家庭を訪れた様子やそこで聞いたお話などをお届けしたい。
後編記事:北海道浦河町のインド人(2)孤立した女性や子どもに野菜を届ける人たち

CREDIT:田川基成(取材・執筆・写真)、望月優大(取材・編集)

