2020.01.28

たった一人の母との和解。フィリピンルーツの母と娘が日本で背負い込んできたもの

2020.01.28
野口和恵

タワーマンションと古くからの商店が混ざり合う東京、月島。その一角にキリスト教の教会、月島聖公会がある。

ここでは月に一度、外国とつながる子どもたちを対象にした「ごはん会」が開かれており、私が訪れた日にも小学生からこの春大学を卒業した若者まで、さまざまな国につながる子どもやその家族が集まっていた。中には自宅から電車で2時間かけてやって来たという子もいる。

この日のメニューはフィリピンの家庭料理、チキンアドボ(鶏肉の煮込み)とトロン(バナナの春巻き)だ。

料理の指導をしてくれるのは、参加者の母親であるフィリピン人の女性で、子どもたちもお手本にならってバナナを春巻きの皮で包んでいく。

料理や食事をしながら、おもむろに「ちょっと聞いてくださいよ」と悩みを吐き出す子もいれば、大人たち相手にぽつりぽつりと話し始める子もいる。

この「ごはん会」を主催するのは「カパティラン(タガログ語で「隣人愛」を意味する)」という団体で、プロテスタント系のキリスト教派日本聖公会を母体としている。

80年代後半からフィリピン人女性への支援を開始し、現在ではフィリピンに限らず、ペルー、ブラジル、パキスタンなど外国にルーツをもつ子どもたちの居場所づくり、高校生・大学生への奨学金給付を行っている。

事務局スタッフの永瀬良子さんはこう言う。「ごはん会は、学校のこと、アルバイトのこと、恋愛のこと、楽しく話しながら、本当に困ったことがあったときに、親や先生以外にも安心して話せる第三者の大人の存在を知ってもらう時間でもあります。準備から片づけまでを一緒におこない、家庭的な雰囲気をつくるように心がけています」。

チキンアドボ。お母さんたちがそれぞれの出身国の料理をつくることも

「子どもたちだけでなく、お母さんにとっての居場所にもなれたらと」話す永瀬さん。その思いは1988年のカパティラン設立当初から受け継がれているものだ。日本聖公会の神﨑雄二司祭がカパティランの立ち上げ以前から日本で働くフィリピン人女性を支援してきたことが活動の前身となった。

それからじつに40年近くの月日が経つ。神﨑司祭、そしてカパティランの支援者たちはどのように外国人の女性、そしてその子どもたちに寄り添ってきたのだろう。

神﨑司祭が活動を始めた立川の教会へと場所を移し、神﨑司祭、永瀬さん、そして、フィリピン人の母親と共に2世代にわたってカパティランに支えられた一人の女性からお話を聞いた。

神﨑司祭と永瀬さん

「礼拝に参加したい」と願った女性たち

――神﨑司祭がフィリピン人の女性たちと出会ったきっかけを教えてください。

神﨑司祭 私が立川の聖パトリック教会で牧師をしていた1980年代初めのある日のことです。大きな外車が教会の前に止まりました。

運転をしていた日本人の男性とフィリピン人の女性が降りてきて、男性から「ここはカトリックの教会ですか?」と聞かれました。日本聖公会はプロテスタントですが、礼拝はカトリックとよく似ています。「カトリックではないけれど、いつでもいらっしゃい」と答えました。すると、日曜日の午前中の礼拝に、7、8人のフィリピン人女性たちが来るようになりました。

ただ、彼女たちは立川のフィリピンパブで働いていて、礼拝のある日曜日も早朝まで仕事をしています。そのため、疲れ切ってしまって、実際に午前中の礼拝に来られるのは月に一回程度でした。そしてその年の12月に入るとぱたりとこなくなり、心配になって彼女たちが住んでいるアパートを訪問することにしたのです。

――アパートではどのような生活を送っていましたか?

神﨑司祭 彼女たちは2DKの部屋に12人で住んでいていました。質素な生活でしたよ。月収はたった300ドルだと聞きました。お客さんからチップをもらっても、ほとんど家族への仕送りに回していたようです。

最初に教会に来た男性はブローカーだったのでしょうか、その男性が食材を届けに来て、それを自分たちで調理して食べていました。でも、それだけでは足らず、私が差し入れをしたこともありました。

女性たちは、12月は1日も休みがもらえず働いている、けれどもクリスマスは教会に行きたい、そう話していました。そこでクリスマスイブの日、私は店が終わった時間に車で彼女たちを店まで迎えにいき、教会で彼女たちだけの礼拝を行いました。

真夜中の教会でフィリピンの家族たちのために祈る彼女たちの姿はまるで天使のようでしたよ。礼拝のあと、私がつくったシチューをみんなで食べました。そのうちに誰からともなく花火を始めて、朝までにぎやかなパーティーになりました。私は水の入ったバケツを持って駆け回りながらも、楽しい時間でした。

それから月に一度、彼女たちのために日曜日の午後3時から英語の礼拝を始めるようになったんです。アパートの訪問も続け、アパートでの「出前ミサ」も行いました。

――そうしてフィリピン人の女性たちに寄り添っていったのですね。

神﨑司祭 突然「大変、トイレで赤ちゃんが生まれました」という電話を受けて、かけつけたこともあります。彼女は店に妊娠のことを隠して働いていたようです。同じように、ほかの女性たちも病気で具合が悪くなってもギリギリまで我慢して働いていました。

ブローカーの男性は同じアパートの1階にいて、彼女たちの行動を見張っていたこともあり、病院に行くといっても許されない感じがありました。具合が悪そうにしている人に気づくと、私は男性に断って病院に連れていき、診察代を支払いました。

そうして関係を築いていったのですが、彼女たちの在留資格では6ヶ月で帰国しなければならず、その後立川に戻ってくることはありませんでした。せっかく深まった関係もそこで途切れ、あとからやって来た女性たちと毎回ゼロからつくり直さなければなりませんでした。

人身売買とも批判されたフィリピン人女性たちの労働実態

1980年頃から2000年代初めにかけて、フィリピンから毎年数万人単位で女性が来日し、ナイトクラブなどで働いていた。高度経済成長期にあった日本は歓楽街での人手を求め、フィリピン側では送り出し機関がマスメディアや口コミを使って、女性たちを集めては日本へと送り出していた。当時のフィリピンは失業率が高く、家族を支えたいと考えた女性たちは日本行きを決断した。

当時のことを記した文献や、筆者のこれまでの聞き取りによると、1980年代、初めて日本に渡航する女性たちの給料は、神﨑司祭の話にもあった通り、月給300ドル前後が相場であり、その全額を帰りの空港で手渡されるのが慣例だったという。アパートの一室に二段ベッドを並べて、大人数で暮らしていたという話もよく聞く。

どの女性も歌やダンスのトレーニングを積んだうえで、芸能活動を行う者に与えられる「興行」という在留資格を得て日本へ来たが、仕事の大半は男性客の接待であった。妊娠した場合は強制的にフィリピンに返される、病気で欠勤したら罰金といったペナルティもあったという。

やがて女性たちが性的に搾取される、暴行を受けるという実態もあきらかになり、「興行」による女性たちの受け入れは人身売買だと海外から強い批判を受けるようになる。だが、日本国内では、ナイトクラブを別にすればフィリピン人女性と日本人とが接する機会は乏しく、むしろ偏ったメディアの報道を通じてフィリピン人女性への偏見が形成されていく側面も大きかった。

神﨑司祭が支援を始めたのはフィリピン人女性が日本に来るようになったごく初期の頃のことだ。次々に来日する女性たちを支えるため、神﨑司祭はタガログ語でコミュニケーションがとれるフィリピン人のシスターを呼び寄せた。シスターも女性たちのもとを訪ね、様々な形でケアをしていった。1988年には「カパティラン」が立ち上がり、シスターたちがタガログ語での電話相談を始めるようになる。

事務所で電話相談を受けるスタッフ。2010年ごろ(カパティラン提供)

――当時はどのような相談がありましたか?

神﨑司祭 もう、あらゆる相談がありましたよ。女性たちが日本人と結婚して生活するようになると、出産、子育て、医療、学校の相談、それからDVや離婚の相談も増えてきました。多いときには年間2000件もの相談が寄せられたようです。

――2000件とは、多いですね…。相談にはどのように対応していたのですか?

神﨑司祭 フィリピン人のシスターのほかにも、かつてのクライアントのなかからボランティアとして関わってくれる女性たちが出てきて、電話で相談を受けていました。相談内容に応じて、専門的な機関につなぐ形です。

無料で診療してくれる病院や、離婚調停のときにはボランティアで受けてくれる弁護士につないだり、DVを受けている女性にはシェルターを紹介したりという具合です。教会のネットワークや、ほかの市民団体との連携で対応していました。

両親の離婚、家庭内暴力…「絶対にもどりたくない」子ども時代

日本人男性とフィリピン人女性との婚姻件数の統計が取られるようになったのは1992年。その時点ですでに約5800件あった婚姻件数はその後2000年代半ばまで増加傾向が続き、ピークの2006年には1万2150件に達している。当然の結果として、日本国内でもフィリピンにルーツをもつ子どもが多く誕生した。

一方、この時期はフィリピンをはじめとする外国籍の女性への暴力が問題となっていった時期でもある。カパティランも、夫の暴力から逃れるフィリピン人女性たちとその子どもたちに寄り添っていくことになる。

フィリピン人の母と日本人の父との間に生まれ、現在は児童養護施設の職員として働く20代の麗奈さん(仮名)も、10代の頃からカパティランに支えられてきた一人だ。

麗奈さんは事前に用意したメモを手にインタビューに臨んでくださった

――カパティランと出会ったきっかけを教えてください。

麗奈さん 母はフィリピン人です。フィリピンで父と知り合い、日本に来て結婚しました。そして兄と弟と私の3人が生まれたのですが、母が父からDVを受けるようになりました。そして、母はカパティランに電話相談をしていたんです。

――麗奈さんが神﨑司祭に知りあったのはいつごろですか?

麗奈さん いつからだろう…? ちょっと覚えていないです。

神﨑司祭 おうちにも行ったことがあるよ。

麗奈さん それは覚えています。家族のことを丸ごと受け止めてくれる広い心を持った方だなというのが、最初にお会いしたときの印象です。

――その後、ご家族はどうなったのでしょうか?

麗奈さん そのあと、母は夜逃げのような形で私と弟を連れて、家を出ました。兄はそのとき一緒に逃げることはできなくて、あとから父のところへ引き取りにいきました。

その後母子寮に住んだり、そこからまた引っ越したりしていたのですが、結局は親子で父のところに戻って暮らすようになりました。経済的な事情があったからだと思います。

私が中学生になるころにもDVは続いていて、母は父から生活費をもらえず、夜中に弁当工場で働くようになりました。兄はひきこもるようになり、母がいない夜中に父が兄に暴力をふるうこともありました。私はどうすることもできず、ただ部屋に閉じこもって弟を守るのに必死でした。

私が高校生のころには兄から母への暴力も始まり、母と私と弟でまた家を出ることになりました。そして、ついに両親は離婚することになりました。親権のことで調停が行われ、カパティランのスタッフの方が法廷で母の通訳をしてくれました。

――大変な子ども時代だったのですね。

麗奈さん もう、絶対に戻りたくはありません。早く大人になりたいと思っていました。

――そうした家族の事情があると、学校に行って勉強をすることも大変だったのではないですか?

麗奈さん 小学校では3回転校しています。でも勉強については、言ってみれば、そつなくできる方でした。兄は不登校だったので担任の先生が家庭訪問に来ることはありましたが、私の担任の先生は来たことはないです。うちの家庭の事情も知らなかったと思います。

神﨑司祭 彼女のように優秀な子は本当にまれだと思います。塾にも通わせる余裕がない家庭では、どうしても学力をつけるのが難しいことが多いです。

家に居場所がなくなったとき「あの人たちなら助けてくれる」と思った

――将来についてはどんな風に考えていましたか?

麗奈さん 高校生のときに何か資格を取ったほうがいいだろうと考え、子どもが好きだったので保育士を目指そうと思いました。高校三年生の夏に、指定校推薦で児童学科のある4年制大学に進学が決まりました。けれどもそのあと、私と母の関係が悪化し、私は家で暮らせなくなってしまいました。

きっかけは、私と当時の彼との交際でした。彼は私より11歳年上だったのですが、母と父も11歳の年の差があって結果的にうまくいきませんでした。母に言ったらこの交際に反対するだろうと思い、母に対してなかなか彼のことを言えずにいました。結局は母にばれてしまい、それから母はその怒りで私に対して暴力が出るようになりました。

私が家にいられない状況になったとき、電話をしたのがカパティランのスタッフの方でした。「あの人たちだったら助けてくれる」と顔が思い浮かんだのです。カパティランの方たちが動いてくださり、私は家族から離れてシェルターで暮らすようになりました。

――お母さんとはそれから…?

麗奈さん 大学の入学時期が迫って、親に書いてもらわなければならない書類もたくさんあったので、不安でしたが母と向き合わなければなりませんでした。カパティランの方が立ち会ってくれて母と会い、家に戻ることになりました。母は最初、話し合いの場にも来たくないと言っていたそうです。それをカパティランの方がタガログ語で説得してくれて、連れてきてくれました。

――大学の学費はどうやって工面したのですか?

麗奈さん 日本学生支援機構の奨学金と、住んでいた自治体の社協の奨学金を申し込みました。あと入学金が免除になる制度があったので小論文を書いて申し込み、無事に審査に通って免除してもらえることになりました。高校生のときに始めた飲食店のアルバイトも続けて、月8万円くらいの収入を得てなんとかまかないました。

手続きは全部自分でやりました。小学生の頃から学校でもらってくるプリントを母が読めなかったため、小さいときから何でも自分でやるようになっていたんです。そして、私が大学二年生のとき、カパティランが奨学生の募集を始めるということを聞いて応募し、選ばれて奨学金がもらえることになりました。

奨学生を通して見える外国人の親たちの苦労

カパティランが奨学金事業を始めるようになったのは2015年からだ。前年には相談件数はピーク時の半分以下に減り、その内容も法律や心理の専門家でなければ対応できないものが大半となった。

一方で子どもの教育の問題が新たな課題として出てきた。そこで、カパティランは長らく続けてきた電話相談事業を休止し、代わりに奨学金の給付と子どもの居場所づくりという新たな事業をスタートさせた。時代の変化とともに、フィリピン以外の国の出身者も増えてきたことから、新しい事業では多様なルーツの子どもを対象とするようになった。

永瀬さんは、ボランティアとしての関わりを経て2017年からカパティランの事務局スタッフとして事業を支えている。

――奨学生はどのように選考しているのですか?

永瀬さん 外国籍、日本国籍問わず、両親のどちらかがいわゆる発展途上国の出身であることを条件としています。現在は大学生7名、高校生5名の奨学生がいて、フィリピンのほかにもペルー、パキスタン、ネパール、ウクライナ、ブラジル、ベトナムにルーツを持つ子がいます。

募集要項では、世帯年収が400万円以下の家庭としているのですが、実際に応募してくる学生たちの家庭の所得はそれよりずっと低く、シングルマザーの家庭や生活保護を受けている世帯もあります。親たちが契約書もなく、社会保険もないような労働環境で働いている場合もあります。

親を精神的にケアする人がいないことも深刻な問題です。外国人の親は様々な社会的資源の存在を知らず、アクセスできないために、日本人よりも孤立してしまいやすい状況があると思います。だからこそ、奨学生には顔の見える支援をしたいと考え、年に4回の「ごはん会」に参加してもらうことを原則としています。

ごはん会を楽しみにしてくれる子も多くいますし、色々なことが重なってつらくなり、事務局に電話をかけてくる奨学生もいます。こちらでできるのは話を聴くこととわずかな奨学金を支給することくらいで、根本的な問題を解決してあげられないのがつらいところです。

――居場所づくりという点では、ごはん会以外にどんな活動を行っていますか?

永瀬さん 夏休みには、毎年長野県の野尻湖で2泊3日のキャンプを行っています。以前、参加した子が、「長野県って初めて来た」と言っていました。生活に余裕のない家庭に育った学生たちには「旅行」という選択肢がないことに、恥ずかしながら私はそのとき初めて気がつきました。普段は生活費や学費を賄うために週6日もアルバイトをしている学生にも、キャンプではのんびり過ごしてもらっています。

――麗奈さんも参加していたのですか?

麗奈さん はい、何度も行きました。野尻湖は私にとっては夏に帰省する場所になっています。何も考えずに湖に飛び込んだり、大自然のなかで日ごろのストレスが出ていく感じが好きで。同じフィリピンルーツの子と「フィリピン人あるある話」もしました。

神﨑司祭 麗奈が年下のフィリピンルーツの女の子とブランコで話していた光景、忘れられないんですよ。

永瀬さん 彼女たち同士の間では私たちにはできないケアができる。本当の思いを打ち明けられるんですよね。

母への理解につながったフィリピンの旅

――フィリピンへのツアーも行っているということですが、どのような経緯ではじまったのでしょうか?

神﨑司祭 日本では人と違っているものが学校で叩かれてしまう傾向があるでしょう。そのためにフィリピンのルーツを隠さざるを得ない子たちがいます。

私は1979年から一年間、神学校に通うためにフィリピンに滞在し、休暇中はほかの神学生たちについてあちこちの田舎に行きました。初めて会った人も昔からの友達のように受け入れてくれる温かさ、優しさに触れました。

だから日本で育った子どもたちにもフィリピンに行って当たり前の人間として扱われ、優しくされる体験をしてほしいと思ったんです。それで麗奈にも声をかけて一緒にフィリピンに行きました。

2019年夏に行われたフィリピンツアーの報告会。家族や支援者にフィリピンでの体験を話す

――麗奈さんがフィリピンへ行ったのはそのときが初めてですか?

麗奈さん はい、子どもの頃、母がフィリピンに帰省するとき「一緒に行かないか?」と誘われましたがついていくことはありませんでした。フィリピンに対してはマイナスのイメージがあったんです。母との関係から「フィリピン人は言葉が強い、自分勝手」と思ってしまっていて。

私は外見からハーフに見られることはなかったので、ある時期までは母がフィリピン人だということも隠していました。だから、神﨑先生にフィリピンに行こうといわれたときは「へっ?」という感じでした。でも、神﨑先生と一緒なら大丈夫、と思って行ってみることにしました。

実際に行ってみたら、フィリピンの親戚にも初めて会うことができたり、すごく温かく受け入れられたりして。イメージがガラっと変わったわけではないのですが、フィリピンの文化を知って、母のことが少し理解できた気がして、以前は怖いと思っていた口調も気にならなくなりました。

――カパティランを通してたくさんの経験をされたんですね。

麗奈さん カパティランに一番感謝しているのは、母との関係を調整してくれたことです。あのときカパティランの方がいなかったら、母との関係は切れたままになっていました。今年は母と二人でフィリピンに行くこともできて、やはりたった一人の母ですから、良かったなと思っています。

児童養護施設でくらす外国につながる子どもたち

――現在は児童養護施設で働いていますね。大変なお仕事だと思いますが、あえてその仕事を選んだのはなぜですか?

麗奈さん 私自身もこれまで児童養護施設に入るかもしれない場面がありました。大学の保育実習で施設にいってみて、自分は児童養護施設と縁があるように感じたんです。

ただ、元々大変な仕事だとは覚悟していましたが、働いてみると想像以上でした。短期間で辞めていく人も少なくないです。でも、私は子どもの成長を見られるのが嬉しいんです。

今、2歳の子を担当しているのですが、その子は親に聴覚障害があったこともあり、施設に来たばかりのときは言葉がまったく出ず、不安定な様子でした。でも、一生懸命考えながらスキンシップをとってかかわり続けているうちに少しずつ成長して、言葉を覚えてきて、私の名前を口に出して言ってくれたときは本当に嬉しかったです。

――児童養護施設で生活している子たちはどのような背景を持っていますか?

麗奈さん 身体的、心理的に虐待を受けている子、経済的に苦しい家庭の子など、背景はさまざまです。外国につながる子もたくさんいます。私がいる施設では今は8人に1人が外国にルーツを持つ子で、だいたいがフィリピンのハーフです。「私も体の半分はフィリピン人なんだよ」とその子たちに言うと、びっくりしますが、親近感を持ってくれるように感じます。

ケースによっては、親子の関係を調整したり、現在の状況を親に説明したりすることがあるのですが、フィリピン人のお母さんとは言語のコミュニケーションが難しく、現場では頭を悩ませています。家庭と子どもの個人情報を扱うため、外部から通訳を呼ぶこともできなくて。私がタガログ語を話せて、通訳できたら良かったのに…、ともどかしく思います。

私の母は、家庭のなかではいつも日本語で話していました。あとから母に聞いた話では、本当は私たちにタガログ語を教えたかったようです。でも父親に「ここは日本だから」と言われて、日本語で通すようになったと聞きました。今思えば、もったいなかったなと思います。

――児童養護施設のこと、知らないことばかりです。

麗奈さん 私も高校生の頃は何となく児童養護施設に対して良いイメージを持っていなくて、それで施設に入るのを拒否したという面もあります。だから、この仕事につくと決めたとき、もっと開かれた施設になればいいなと思いました。

去年のクリスマスの時期、フィリピン人のボランティアのグループが施設に来て、パワフルなダンスで盛り上げてくれたんです。一緒にノリノリでダンスする子もいたし、フィリピンのハーフの子にも刺激になったと思います。こういう機会をもっと増やしていけたらいいなと思います。

取材後記

「あの人たちなら助けてくれると思った」――麗奈さんのその一言が強く印象に残っている。

日本には社会保障や福祉など様々なセーフティネットの仕組みがある。けれども、外国人やその家族の場合、そうした社会資源や権利の存在さえ知らないことも少なくない。そして、日本人よりも条件の悪い職場で必死に働いている場合がよくある。

日本人でも「自分が悪いのだから」という「自己責任」の呪縛にかかり、苦しくても助けを求めにくくなってしまう現状がある。離婚してシングルマザーになること、困窮すること、子どもが進学をあきらめたり、将来、奨学金の返済に苦しんだりすること。それらを本人の、そして親の自己責任で片づけてしまう論調はテレビにもSNSにもあふれている。

けれども、いくつもの問題が家庭に積み重なったとき、どうしたらいいのだろうか。問題を背負った自分を責めることなく無条件に助けてくれる人、その存在を必要としている人は、外国人であれ日本人であれ、大人であれ、子どもであれ、無数にいるのではないかと思う。

SNSで知り合った大人を頼る少女たちもそうかもしれない。麗奈さんが今接している子どもたちの親もそうだったかもしれない。家庭の中だけではどうにも解決できない、苦しい状況に陥ることは、誰しも生きている限りあり得ることだ。

神﨑司祭と麗奈さんはフィリピンで人の温かさ、優しさに触れたという。私自身もフィリピンで生活をした時期があり、それを実感している。フィリピンで出会った人たちは、私が危ない目にあわないようにといつも見守ってくれ、言葉を覚えればものすごくほめてくれ、体調を崩せば病院へ連れていってくれた。

だからこそ、その国から日本にやってきた女性たちがこれまで大変な思いをしてきたこと、その子どもたちが自分のルーツを隠して暮らさざるをえない空気があることに胸が痛む。同時に、そんななかでも、麗奈さんのように大人になって社会へと一歩を強く踏み出していく若者たちが確かにいる、そのことに強く勇気づけられもする。

誰をも受け入れることができ、誰もが生きやすい社会へ。私は麗奈さんの声、かれらの声をもっと聞きたいと思った。

参考文献
・「フィリピン女性 エンターテイナーの世界」マリア・ロザリオ・ピケロ・バレスカス著 津田守監訳 小森恵・宮脇摂・高畑幸訳(明石書店)
・「日本で暮らす移住者の貧困」移住連 貧困プロジェクト編(移住者と連帯する全国ネットワーク)

カパティランHP

CREDIT
野口和恵|取材・執筆
柴田大輔|取材・写真
望月優大|取材・編集

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TEXT BY KAZUE NOGUCHI

野口和恵
ライター・編集者

ライター・編集者。1979年生まれ。法政大学文学部卒業後、編集プロダクションで児童書の編集に携わる。2011年7月~2013年1月までフィリピンに滞在し、NGOでストリートチルドレンの支援ボランティアをしながら、ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンを取材。著書に『日本とフィリピンを生きる子どもたち』(あけび書房)がある。ストリートチルドレンを考える会共同代表。@PRACAdaKAZUE