2021.06.18

妊娠した彼女を独りにしなかった人たち。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(3)

その日は朝から大雨だった。2019年11月24日。長崎では、多くのカトリック信者たちが雨ガッパを羽織ってフランシスコ教皇の到着を待ち侘びていた。ローマ教皇として38年ぶりの来日。前日の夕方に羽田に到着した教皇は、翌朝のフライトで最初の訪問地である長崎へと降り立った。

その後、車で長崎市内に入った教皇は、最初に爆心地公園で核廃絶を訴え、次いで豊臣秀吉によるキリシタン弾圧が行われた西坂の丘でも演説を行った。そして昼ごろ、「パパ様」は長崎県営野球場に現れた。3万人が集う巨大なミサ。いつの間にか、雨は上がっていた。

多くの日本人信者に混じって、ミサにはベトナム人の若い妊婦も参加していた。技能実習生のマイさん(仮名)。マイさんは21歳だった2年ほど前に来日し、熊本県の工場で実習生として働き始めた。そのうち熊本市内の教会にも通うようになり、そこで知り合ったほかの信者たちと一緒に長崎を訪れることになった。その日は、仕事のない日曜日だった。

長崎のミサでマイさんと同じベトナム共同体の席に座っていた熊川美子(よしこ)さんは、当時を振り返ってこう話す。「彼女は妊娠に気づかないまま長崎のミサに行っているんですね。ちょっと太ったなあと思って、痩せる漢方薬を一生懸命飲んでいたぐらいで」。このとき、マイさんはすでに妊娠7ヶ月から8ヶ月に差し掛かっていた。だが、本人も、周囲の人間も、誰も気づいていなかった。

熊川美子さん。看護師、公認心理師。マイさんと同じカトリック手取教会に通う。外国人支援団体コムスタカの支援会員としても活動しており、のちにマイさんの支援に関わる。

マイさんはちょうどその1ヶ月後、クリスマスイブの深夜に熊本市内の病院へと駆け込み、赤ちゃんを出産する。早産で、帝王切開での出産だった。長崎から戻って少しあとに妊娠に気づき、それからわずか3週間あまりで母親になった。母体は無事で、未熟児として産まれた赤ちゃんも、もうすぐ1歳半になるまで成長している。

熊川さんをはじめ、地域でマイさんの支援に当たった人々は、彼女の出産やその後の子育てがぎりぎりでうまくいったことについて、みな「奇跡だった」「ミラクルだった」と口を揃える。針の穴を通すようにして、マイさんの出産と子育ては成り立った。様々な幸運と支援が重なったその細かな過程を知ることで、私は逆に、日本で技能実習生が安心して出産し、育児をすることがどれほど困難か、その壁の高さを実感することにもなった。

なお、すでに記したがマイさんの名前は仮名であり、情報にも一定の加工を加えている。また、この記事ではお話を伺った様々な方を紹介するが、本人の希望で名前や言葉の直接的な紹介を控えた方もいる。それぞれに事情がある中で、お話を聞かせてくださったすべての方に感謝したい。

熊本市内にあるカトリック手取教会。ベトナム語でのミサも行う。
ベトナムでは人口の1割弱をカトリック信者が占めると言われる。

今この記事を公開することの背景には、マイさんのおよそ1年後に妊娠した同じベトナム人実習生であるリンさんが、予期せぬ妊娠と技能実習の継続とのはざまで思い悩み、恐怖と不安の中で誰にも相談できず、そうして死体遺棄罪で起訴されるまでにいたってしまった、そのことに対する支援者たちの後悔の思いがある。そして、自分と似た境遇の実習生に自らの経験を知ってもらいたいというマイさん自身の思いも。

マイさんとリンさんの支援者には重なっている部分もある。だが、とてもよく似た状況で予期せぬ妊娠を経験した二人の若いベトナム人女性の人生は、そこから全く異なる道筋をたどることになった。出産の直前に支援者とつながれたマイさん。死産にいたるまで孤立し続けたリンさん。二人の差はほとんど紙一重だった。

【前編】彼女がしたことは犯罪なのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(1)
熊本の農園で働く技能実習生のリンさんは、強制帰国を恐れ、妊娠を誰にも言えず、部屋で一人、双子を死産した。出血も多く、恐怖と混乱の中で、一日部屋にいた。それが犯罪だとして21歳の彼女は起訴されてしまう。彼女がしたことは本当に「犯罪」なのか?
【中編】彼女はなぜ誰にも相談できなかったのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(2)
リンさんは妊娠を誰にも言えなかったがために罪に問われる事態にまで陥った。ではなぜ彼女は「誰にも言えなかった」のか。背景にはどんな恐れや不安があり、それらは技能実習を取り巻くどんな構造の中で生み出されているのか。問題の根源は何か?

たとえ稀少ではあったとしても、日本での出産に関する「成功事例」がゼロではないという事実を多くの人に知ってほしい。それは単に運が良い場合もあれば悪い場合もあるという話ではなく、現状の制度の中で大きな困難があることは事実だとしても、適切な支援やつながりを組み合わせれば乗り越えることも不可能ではないということだ。

実習生たち本人はもちろんのこと、雇用主や監理団体、地域の人々にも、その具体的なあり方を知ってほしい。イメージしてほしい。そして、妊娠に気づいたら、相談してほしい。誰かとつながってほしい。頼ってほしい。そうした祈りがある。孤独から抜け出せるように。独りから抜け出せるように。

妊娠の発覚から出産まで

2019年の12月初旬、妊娠に気づいたマイさんが最初に相談したのは、教会で知り合った修道院のシスターだった。シスターの付き添いのもと、マイさんはまず「こうのとりのゆりかご」で全国的に知られる熊本市内の慈恵病院を受診し、そこでの診断によってマイさんの妊娠が確定する。推定34週。予定日は1月前半とのことだった。マイさんは市役所で妊娠届を出し、母子手帳も受け取った。

その後、シスターはマイさんの監理団体のベトナム人職員であるキャリアスタッフに相談をした。だが、その職員から監理団体の内部や雇用主らに対してうまく話が伝わっていないことを不安に感じ、熊本市国際交流会館にある熊本市外国人総合相談プラザにも相談することを決める。

国際交流会館で相談を受けた勝谷知美さんは、これまでにも何度か実習生から妊娠に関する相談を受けたことがあった。実習生が訪れた先の病院から通訳を依頼されることもあったという。そのすべてが20代のベトナム人だった。「中絶をする方はそもそも相談に来られない。産む方は実習を辞めて帰って産む方が多いです」とその印象を話す。

勝谷知美さん。熊本市国際交流振興事業団事務局次長を務める。

熊本市でもここ数年で実習生の受入が急増しており、それに伴い外国籍住民の国籍別人数でもベトナムが中国に次ぐ2番目となっている(熊本県全体では1位)。ベトナム人の通訳スタッフも新たに採用したという。

勝谷さんは、マイさんの雇用主や監理団体との話し合いが必要であることから、交渉の経験も豊富なコムスタカの中島眞一郎さんに支援の可否を打診した。中島さんはすぐに応じ、マイさん、シスター、そしてコムスタカの佐久間順子(よりこ)さんと4人で顔合わせをすることになった。12月17日。当時は誰もそう思っていなかったが、今振り返れば、出産のわずか7日前だったことになる。

中島さん「夕方に彼女が場所を指定してね。なんやったっけあそこ?」。佐久間さん「すきや。なんでここなんだろうって思った(笑)」。マイさんと初めて会った佐久間さんの印象。「本当に妊娠してるの?という感じでした。(見た目では)全然わからなかった」。

佐久間順子さん。コムスタカ事務局長を務める。アメリカで東南アジア系移民家族の研究や児童福祉のソーシャルワークに従事した経験を持つ。

その後、4人は別れ、マイさんは自転車で帰っていった。だが、そのすぐあとにマイさんから佐久間さんに緊急の電話が入る。「(監理団体のベトナム人スタッフが)監理団体や会社に話をしたみたいで強制送還されるかもしれない。怖いから逃げたい」。リンさんと同じく、マイさんも妊娠したらベトナムに帰国させられてしまうのではないかと恐れていた。工場では20人以上ものベトナム人実習生が働いていたが、その中には意思に反して送り返された男性もいたという。

マイさんのパートナーであるズンさん(仮名)は別の職場で働くベトナムからの実習生で、二人は妊娠発覚を契機に結婚することを決めていた。だが、マイさんはパートナーが誰であるかを中島さんや佐久間さんに対して最初は明かそうとしなかった。それは、彼女の妊娠が理由で、彼までもが帰国を迫られるというリスクを恐れていたからだった。それくらい、彼女の中で妊娠の発覚と帰国の強制への恐怖はセットになっていた。

佐久間さんは車で急遽マイさんのもとヘ向かい、中島さんと相談して、その場で彼女をコムスタカとして保護することを決める。あまりに急だったが、なんとか知人のベトナム人留学生のアパートへと身を寄せることができた。マイさんは監理団体や会社から電話がかかってくることを恐れ、自分のスマホを佐久間さんに預けた。

翌朝。マイさんの不在に気づいた職場の工場長から電話が入る。佐久間さんはマイさんの妊娠の事実とコムスタカとして保護していることを伝え、中島さんから監理団体も含めて話がしたい旨を提案した。

それから数日後、国際交流会館でマイさん本人も含めた話し合いの場が持たれる。中島さんからその年の3月に出たばかりの政府の注意喚起(妊娠・出産を理由とした解雇などの不利益取り扱いは禁止)についての確認をし、産休の利用も含めて、雇用主と監理団体側から必要な協力を取り付けることができた。

実習先の工場長からは「産休は手続きしますが、それでは暮らせないでしょう?どうしますか?」とも聞かれたという。確かに元々の給料が低い実習生の場合は特に、標準報酬の3分の2である産休手当だけで生活するのは容易ではない。赤ちゃんと暮らす住まいの問題もある。中島さんは「じゃあこちらで寄付集めて面倒見ます」と応じた。ものすごい踏み込みではある。

中島眞一郎さん。コムスタカ代表。36年前から熊本で暮らす外国人の支援を続けてきた。

中島さんはすぐにパートナーのズンさん側の関係者にも連絡をし、出産時の立ち合いも含めた配慮について確認した。一つずつ、丁寧に、外堀を埋めていき、リスクを減らしていく。もし第三者の介在や支援が無かった場合、マイさんだけで同じような協力や配慮が得られただろうか。相当の不安や恐怖、困難があったはずだ。

出産後の復職を強く希望するマイさんにとって、このとき二つの選択肢があった。一つはベトナムに一時的に帰国して出産し、赤ちゃんを家族に預けて再度来日、技能実習に戻る道。もう一つは日本で出産する道である。佐久間さんや多くの支援者たちの目には、前者のほうが現実的と映っていた。だがそうでない意見もあり、結論はなかなか出なかった。

マイさん自身は後者の道を強く望んでいた。ベトナムでは未婚での妊娠・出産をよく思わない見方も根強く、彼女にはそうした社会的な批判を強く恐れる気持ちがあった。パートナーのズンさんが日本にいることもとても大きかった。最終的には、マイさん自身の意思を尊重し、日本での出産をサポートすることが決まる。そもそも妊娠の週数がかなり進んでいたため、飛行機に乗れるかどうか自体も定かではなかった。

12月24日。マイさんは教会のクリスマスパーティに出席した。ベトナム人の信者たちも多く集まり、楽しい時間を過ごした。だが、帰宅したマイさんを急激な腹痛が襲う。陣痛が始まったのだ。

シスターや佐久間さんに電話をするも、深夜なのでつながらない。間借り先の女性の留学生に助けられ、マイさんはたまたまアパートの近くにあった産婦人科の福田病院へと駆け込んだ。福田病院は年間出生数が10年連続で全国1位の病院として知られ、様々なリスクを抱える場合でも積極的な受け入れを行ってきた。

マイさんの場合も飛び込み出産の形になり、感染症や金銭面などのリスクもあったが、福田病院はマイさんの受け入れを決める。慈恵病院での受診記録や取得したばかりの母子手帳があることなども確認し、そこからすぐに帝王切開での出産へと移り、なんとか無事に、マイさんは赤ちゃんを産むことができた。予定日より一ヶ月ほど早い出産で、赤ちゃんは2000gに満たない未熟児だった。

翌朝の中島さんの回想。「佐久間さんから電話があって『産まれました』って。一瞬、何のことか分からなかった(笑)。無事に産まれたこと自体がミラクルに近いと思う」。病院にはズンさんも来ていた。「彼は非常にいい人だったんよ。ずっと寄り添ってね」と中島さんは初対面となったその日を振り返る。男性側が責任を取らない場合も少なくない中で、ズンさんの覚悟ある姿勢は大きな意味を持った。

家族が安心して暮らせる場所

赤ちゃんが急に産まれる前、中島さんは予定日までの一ヶ月ほどをかけて、次のようなことを一つひとつクリアしていく必要があると考えていた。だが、それまで一ヶ月はあると思っていた。その全てが一気に迫ってきた。

マイさんと赤ちゃんの在留資格をどうするか。保険をどうするか。家族はどこで暮らすのか。三人は一緒に暮らせるのか。育児にかかる費用はどうするのか。仕事との両立はどうするのか。買い物はどうするのか。果たして、実習生で共働きの二人は、これから赤ちゃんをどうやって育てていけばいいのか――。

まずはマイさん家族が退院後に暮らせる場所が必要だ。留学生のアパートに間借りを続けるのは、赤ちゃんと一緒では流石に難しかった。中島さんは、生活困窮者の支援に携わりコムスタカの会員でもある高木聡史さんに、出産の前から協力を依頼していた。

高木聡史さん。一般社団法人minori 代表理事。ホームレス状態の方々の支援に長く携わり、熊本地震のあとには車中泊の方々や益城町のみなし仮設居住者1500世帯に対する見守り支援にも取り組んできた。

高木さんは、様々な困りごとを抱えた人たちが一時的に滞在可能なシェルターを運営しており、中島さんが裁判支援に入ったフィリピン人実習生の男性を受け入れたこともあった。彼は事前の話と違う現場で働かされたために退職を申し出たが、強制帰国をされそうになり、コムスタカに助けを求めた。裁判で争うには住所も必要なため、ほかに暮らせる場所が必要だったという。

高木さん「行政の政策は目的別に切られているので必ず制度の狭間が生まれます。その隙間を埋めるために信頼できる団体と連携し、シェルターがあることで支援のプランが完成する場合は特に前向きに検討します。夜の見守りはできるし、何か緊急のことがあれば同じ敷地に僕が住んでいるから来てもらえたらいい。支援団体としても安心だし、僕自身の負担も少なくて済むので、ウィンウィンの関係だと思っています」

このシェルターに空きがあったことが、マイさん家族にとっては大きな幸運だった。未熟児として産まれた赤ちゃんが、3週間ほどの入院を経て初めて病院の外に出たのが1月の半ばだったが、そのすぐあとからコロナの感染拡大が始まり、シェルター利用の希望者も急増していった。急遽3部屋から6部屋に増室したが、外国人の帰国困難者などからの利用希望も多く、すぐに満室になってしまったという。

築50年ほどのアパートを転用し、備え付けの家具はすべて寄付で集めた。
食事はフードバンクから定期的に提供を受けている。

部屋の確保の次はその中での生活面の支援を考えなければならない。産まれたばかりの赤ちゃんがいるとなればなおさらだ。

そんなマイさん家族の生活を強力にサポートしたのが、「熊本カトリック女性の会」の人々だった。慈恵病院の相談員でもある荻原きよみさんは、慈恵病院でボランティアを募り、教会関係者と共に、マイさん家族が入居予定の2Kの部屋に集まって、一日かけて大掃除をした。

荻原さん「徹底的にお掃除して。全部磨きました。赤ちゃんが来るもんですから。モノもありませんから持っていきました。ベビーバスも、お布団も、電気の傘も。男性陣が洗濯機を運んでくれたり、ガスコンロを設置してくれて。足りないものは女性の会が買いものに行って整えました。それくらいのことなんです」

荻原きよみさん。保健師。2010年に東京から熊本へ、ハンセン病の待労院診療所に勤め、2012年に慈恵病院へ(待労院と慈恵病院は共にマリアの宣教者フランシスコ修道会の5人のシスターにより1898年に創設された)。

実は、カトリック女性の会ではマイさんのために様々な教会で募金も呼びかけており、かなりの額が集まっていた。そこから必要な出費ができたのはとても大きかった。

シェルターへの入居で家賃が浮き、女性の会などからの支援で必要なものは大体揃った。佐久間さんも、友人のお下がりをマイさんのもとへと持ち寄った。日本で暮らすベトナム人の友人たちから肌着などの差し入れもあった。

ここで重要な背景に触れておきたい。荻原さんは慈恵病院で「こうのとりのゆりかご」(「赤ちゃんポスト」の通称で全国的に知られるが、荻原さんたちは「ゆりかご」と呼んでいる)や24時間無料の電話相談(SOS妊娠相談)の相談員を務めている。

荻原さんは慈恵病院のこうした活動とカトリック女性の会との接点を成しており、日頃から数多くの女性や赤ちゃんの支援に取り組んできている。マイさんの支援に迅速に対応できたのは、この経験豊富なネットワークとつながりの蓄積があってこそのことだった。

医療法人聖粒会慈恵病院
こうのとりのゆりかご。「私たちは決して責めません。責めても何にもなりませんし、責めることではないので。ここは全部を受け止めます」と荻原さん。慈恵病院では年間6~7000件の相談を受けている。

荻原さん「私たちは何人もこうして支援してきています。だから大丈夫なんです。例えば、18歳で妊娠していて彼からのDVがある。そういうときには緊急にお金が必要なので女性の会に頼みます。そうすると、すぐに箱を持って立ってくださって支援が集まるんです。マイさんのときには熊本市内の全部の教会が支援したのでかなりの額になりました」

家族になっていくための時間を支える

そんな荻原さんが「一番の鍵」だったと言うのが、マイさんと長崎のミサに行った熊川美子さんの存在だ。熊川さんはシェルターで生活を始めたマイさん家族の部屋まで1ヶ月以上にわたって連日のように通い続けた。熊川さんの支援は、赤ちゃんが退院した瞬間から始まる。赤ちゃんはまだ2400gしかなかった。

熊川さん「パートナーのズンさんは職場が遠かったので、最初は一緒に住まない予定でした。それで、マイさんと赤ちゃんを初めての場所で二人だけにするわけにもいかないと思って、初日は私が泊まるねと言って退院したんです。その日はズンさんも一緒だったんですけど、『朝早く自分のお弁当を作らないといけないから夕方6時には寮に帰る』と自分のお弁当のことを心配していて(笑)。そこでマイさんと説得をして、翌朝私が職場まで送る約束をして、お弁当も同僚の方に頼んで、ズンさんも一緒に泊まることになったんです」

マイさんもズンさんも妊娠を知ってからまだ2ヶ月と経っていなかった。そこから、結婚を決め、予定より早い突然の出産を経験し、教会で結婚式を挙げた。すべてが駆け足だった。ズンさんは初日にシェルターに泊まることを決めると、翌日以降もマイさんと赤ちゃんと一緒にシェルターに同居し続けることを決心する。運良く佐久間さんが自転車を用意することができたこともあり、ズンさんは毎日早起きして自転車と電車で実習先まで通っていった。

熊川さん「まだ夫婦になり始めたばかりだったんですよね。妊娠がわかってから3週間でお産をして。少しずつ夫婦になって、親にもなっていった。ズンさんが一緒に暮らせたことはものすごく大きかったです。マイさんにもマタニティブルーかなと思える時期がありました。つらい気持ちをズンさんにぶつけることもあって、受け止めるのは大変だったと思うんですけど、そうやって夫婦関係が作られていったなあと思います」

熊川さんは適度な距離感でマイさん家族と接しながら、そのときどきの必要に応じて、近所になかったスーパーでの買い物をサポートしたり、哺乳瓶の消毒の仕方や、便秘で泣き止まない赤ちゃんにうんこを促す仕方など、はじめての育児に取り組む二人の学びに寄り添った。熊川さんやカトリック女性の会の方々によるそんな日々の後押しにも支えられながら、マイさんとズンさんは赤ちゃんと一緒の新生活を一歩ずつ作りあげていった。

「二人ともすぐに新しい生活に適応して。生活能力がすごく高かったんです」と熊川さん。マイさんには歳の離れた小さな弟を育てた経験があった。ズンさんは料理をするのが好きだった。日本語でのやりとりに苦労はあったが、熊川さんはスマホの翻訳ツールも使いながら会話を成立させた。砕けた言葉だと難しいが、教科書に載っているような日本語であれば通じるくらいだったという。

熊川さん「小さい不安がいっぱいあるんですね。ガスのメーターの紙がぽっと入っているだけでも、日本語がわからないから、大事な紙なのかもしれない、今すぐ何かしなければいけないのかなと不安に思ったり。赤ちゃんが引っ掻いちゃうから爪を切ったほうがいいんだろうけれど、でも爪が切れないとかですね」

熊川さんたちの支援が決まる前、佐久間さんたちコムスタカのメンバーはベトナムからマイさんの母親を一時的に呼び寄せることも検討していた。だが、日本語のできない母親を呼ぶことでむしろ支援がより困難になるリスクも考え断念する。そうして、熊川さんたちがまさに親代わりのような形でのサポートに入ることになった。家族と遠く離れた地での出産であることは、経済的な意味での困難に加えて、期待できる社会的サポートの脆弱さという困難とも結びついていた。

佐久間さんの回想。「最初はベトナムで出産をして戻ってくるほうが現実的だと思っていたんです。その頃はまだカトリック女性の会ともつながっていなかったですし、誰が赤ちゃんの面倒を見るの?って。在留資格の問題もあったし、本当に問題が多すぎたから」。

なんとか本人の意思を尊重したいと思う支援者たちにとっても、「日本で出産する」という選択肢の前には高すぎる壁が立ちはだかっているように見えた。妊娠した実習生に帰国を迫るのは善意の不在だけではない。社会的な仕組み自体が、妊娠した実習生を帰国へと強力に追い立てる背景となっている。

在留資格と保険、お金の問題

佐久間さんが言うように、実習生同士での出産となったマイさん家族には在留資格の問題もあった。つまり、生活面の支援だけでなく法的な観点からのサポートが不可欠だった。在留資格は保険、医療費などの問題とも絡み合って非常に複雑だ。この問題には行政書士でもある中島眞一郎さんを中心に取り組むことになった。

まずはマイさんの健康保険。保険に入っていれば、42万円の出産育児一時金が利用できるし、産休手当も受給できる。また、マイさんの場合のように帝王切開など出産に際して医療的な行為が必要となった場合にも保険が適用される。逆に言えば、無保険状態で高額の出産費用を実習生が自ら支払うことは難しく、そのため技能実習を中断することになる産前産後の期間に母親の保険をいかに維持するかが重要な課題となる。

マイさんの場合は在留資格の更新時期と産休のタイミングがたまたま重なっていた。そのため、事情の説明を受けた入管による配慮もあって、在留期限後の更新申請と産休の期間とを重ね合わせることで、技能実習の中断期間中も技能実習の在留資格を維持することができた。これによって、健康保険も利用し続けられることになった。

加えて、赤ちゃんの健康保険の問題もある。マイさんの赤ちゃんは未熟児で保育器に入っており、しばらく入院が必要だった。こうした赤ちゃんを対象とする新生児室などでの医療費に保険が適用されるためには、マイさんではなく、赤ちゃん自身が保険に入っている必要があり、そのためには赤ちゃん自身にも住民登録可能な種類の在留資格が必要になる。

だが技能実習生に家族帯同を認めない現行の制度では、実習生同士の間に産まれた赤ちゃんには家族滞在の在留資格が出ず、住民登録できない短期滞在の在留資格しか出ないのが当時の通例だったという。中島さんが全国の様々な支援団体に問い合わせても直接的に応用できる前例は見つけられず、そもそも日本で出産した実例自体が少ないという状況だった。中絶ではなく出産している場合でも、日本ではなくベトナムでの出産がほとんどだった。

実際、中島さんが入管の熊本出張所に出向くと、最初は「短期滞在しか出せない」と言い張られたという。だが、中島さんの粘り強い交渉によって、マイさんの赤ちゃんは技能実習生同士の間に産まれた赤ちゃんとして恐らく初めて特定活動の在留資格が出たケースとなった(入管職員から中島さんに対して「前例がない」との説明があったという)。これによって、すでにかかってしまっていた赤ちゃん自身の医療費を無事に支払うことが可能になった。病院側には回収できないリスクもあったが、なんとか回避できた。

こうして、マイさんは赤ちゃんの出産に伴って支払い不可能なほどの経済的負担を負うという状況には陥らずに済んだ。だが、中島さんたちの支援や交渉を抜きに同じだけの権利を行使できたかはわからない。支援者とつながっていない実習生のほうがほとんどであり、その場合は自分だけの力で監理団体や雇用主、あるいは入管や外国人技能実習機構などとの間でなんとかしなければならない。残念ながら、現状では非常に高い壁だ。

出産直後の期間を乗り越えたマイさん家族にとって、次の問題は仕事をしながら育児をどうしていくのかになる。実習生でなくても、育児とそれ以外の生活の諸側面との両立は大きな悩みの種であり、時間もお金も今まで以上に必要になる。だが、マイさんとズンさんにとってはその両方が不足していた。別々の実習先での共働きをしながら長期間に渡って育児をすることは想定できず、ベトナムに住むマイさんの母親を頼ることが決まった。

元々マイさんはベトナムで自分たちの結婚や出産が受け入れられないことを恐れていたが、時間の経過と共に少しずつ両方の家族からの理解が得られるようになっていた。そこで、2月の終わりに赤ちゃんと三人でベトナムに戻り、現地での結婚式や挨拶回りも済ませることができた。二人はマイさんの母親に赤ちゃんを預け、数日後には日本へと帰国する。コロナの感染拡大で、日本への飛行機に乗れるかはギリギリのタイミングだった。

もしマイさんとズンさんが日本での育児の継続を選んでいたら、あるいは頼れる家族がなくそうせざるを得なかったとしたら、それは実現可能だったのだろうか。無視できないのが、多くの実習生にとっては、出産後に育児休業を利用したり、育休手当を受給したりすることが難しい仕組みになっているという現実だ。

というのも、育休は子どもが1歳6ヶ月になるまでに雇用契約が終わらないことが利用条件の一つになっているが、そもそも技能実習生の通常の在留期間は3年間なので、来日前か来日後の数ヶ月間に妊娠する例外的な場合を除いては、出産時点で1年6ヶ月も契約が残っていないのである。だから、多くの場合は使えないということになる。

様々な支援者たちの力を組み合わせた多面的で分厚いサポート、そしていくつもの幸運が重なり、マイさんによる「日本での出産」はなんとか可能になった。本人が妊娠に気づいたのがかなり遅かったことや、予想外の早産だったことを考えても、大事にいたらなかったことは奇跡だったと思える。

だが、それでも「日本での育児」についてはそもそもからして想定の範囲外だった。「日本での仕事」と「ベトナムでの育児」という形で、出産直後の親子は離れて暮らすことを選んだ。働くことと子どもを育てることとを日本で両立するのは容易ではない。そして、もしベトナムの家族という頼り先が存在しなければ、「誰が赤ちゃんの面倒を見るの?」という問い自体はずっと残り続けるのだ。

誰かとつながってほしい

こうして2020年の初めにマイさんの支援に携わった佐久間さんだったが、その後、同じ年の11月に、別のベトナム人実習生のリンさんが熊本県内で孤立出産の末に死体遺棄容疑で逮捕された事件を知ることになる。佐久間さんはそのニュースを知り、「本当に申し訳ないな」と思った。自分がマイさんの「成功事例」を発信していれば、もしかしたらリンさんにも「全く違う将来があったんじゃないかな」と。

佐久間さん「知らないということだけでここまでの差があるというのがあまりに不公平だなと思いました。どこかに相談することができていたら、コムスタカでも、慈恵病院でも、カトリックの教会でも、どこかにつながっていたら違ったかもしれない。でもそうしたつながれる場所がわからない。妊娠した場合に何ができるか、自分にはどんな権利があるのかということもわからない。だから知ってほしいと思ってウェブサイトを作ったんです」

コムスタカではリンさんの逮捕以降、佐久間さんが中心となって、地域の様々な支援機関や、性と生殖に関する健康と権利(SRHR; Sexual and Reproductive Health and Rights)に詳しい専門家の協力も得ながら、「日本でのにんしん」というウェブサイトを立ち上げた。主に熊本で暮らす技能実習生や留学生が読むことを想定してベトナム語、英語、日本語の3ヶ国語で制作した。

ウェブサイトでは様々な相談先をリストアップすることに加え、避妊や妊娠、中絶、出産、育児などに関する基本的な情報を平易なQ&Aの形で紹介している。そこには先に取り上げた出産費用や保険適用、在留資格といった問題だけでなく、日本とベトナムとでは認められている避妊方法が異なることや、アフターピルの入手方法なども含まれる。日本での具体的な出産事例の紹介も盛り込んだ。

「妊娠についてどこに相談ができますか?」、「妊娠したかもしれません。どうしたらいいですか?」、「出産したいです。仕事や学校はやめないといけませんか?」など、想定される困りごとや疑問ごとに、情報がわかりやすく整理されている。

だが、まだまだ課題も多い。現状ではまだウェブサイトの存在が広く知られておらず、また利用者と直接やりとりできる仕組みにもなっていない。今後はベトナム人の実習生や留学生がよく利用しているFacebookにもページをつくり、そこからベトナム語での相談が受けられる体制づくりを目指す。実習生らの多くはスマホで通話可能な契約をしておらず、WiFiだけでつながれる仕組みが必要だ。また、リアルな接点でも知ってもらえるよう、熊本県内に増え始めているベトナム食材店やレストランのトイレなどにポスターの掲示もしていく。

忘れてはならないのが、アプローチすべき対象が女性だけではないということだ。予期せぬ妊娠についても、男性こそ、その様々な局面と側面に関する適切な知識を持っている必要がある。佐久間さんが「妊娠・出産を女性だけの問題だと思ってほしくない」と言うように、セックス、妊娠、出産、子育て、そのすべての過程に対する男性側の知識と認識、関わりと責任の問題を見過ごしてはいけない。実際、日本で妊娠し、ベトナムに帰国して出産した女性たちがシングルマザーになっている場合は少なくないと聞く。

コムスタカの活動においては今も女性からの相談が8割以上を占めており、フィリピン人女性との間で子どもをもうけた日本人男性に対する養育費請求の裁判支援を行うなど、36年前に始まった活動の初期から「男性にも責任を取らせる」ことは常に重要な課題であり続けてきた。2021年になった今も、リンさんが誰にも言えずに孤立出産し、それが犯罪として逮捕・起訴され、社会的なバッシングをたった一人で背負い込まされているように、非対称な構図は本質的に変化していない。

技能実習生の孤立出産から見えること

これまで3本の記事を通じて、同じ熊本県内で妊娠を経験した二人の技能実習生のことを書いてきた。リンさんとマイさん。ベトナム出身で、20代前半で、予期せぬ妊娠だった。

二人の境遇にはいくつもの共通点があった。そうであるにも関わらず、その結末は全く異なるものとなった。二人の人生を分けたのは、孤立出産へと至る前に状況を好転させられる誰かとつながることができたか。そして、妊娠の事実を打ち明け、助けを求めることができたか。その差は本当に紙一重だった。

マイさんと関わった人たちからのお話を聞く中で、一人の女性が妊娠し、出産し、子どもを育てていくことの大変さを改めて思った。どれだけ多くの不安とプレッシャーが付きまとい、どれだけ多くのお金を必要とし、どれだけ多くの時間と手間がかかることだろう。そして、毎日、毎時間、理想通りにはいかないことの連続の中で、どれだけの回数、挫けそうな自分と向き合うことになるだろう。

そのとき独りであるか、それとも誰かと共にあるか。その差がもたらす大きな違いのことを、私たちはどれくらい真剣に考えてきただろうか。熊川さんや荻原さん、佐久間さんや中島さんは、出産直後のマイさんとズンさんを決して独りにしなかった。多くの実習生たちは孤独で、妊娠すればさらにその孤独は深まる。自分でなんとかすることばかりが求められ、そうして親たちを独りにする社会の中では、子どもたちもまた独りになっていく。

誰も独りで抱えきれないのに、みんな独りで抱え込まされている。本当は誰かとつながっていいし、できるなら誰かとつながってほしい。コムスタカでも、慈恵病院でも、カトリック教会でもいい。どうすれば見つけてもらえるか。どうすれば連絡してもらえるか。本来であれば政府こそが率先して提供に努めるべき機能の不在を、地域に根ざした市井の人たちが、必死の工夫で埋め合わせている。

技能実習生の妊娠・出産という主題は、日本社会における働く女性の妊娠・出産という主題とも、若年女性の妊娠・出産という主題とも深く通じ合うものだ。合理性のない差別的な性別役割分担意識や、現実から乖離した「普通の家族像」を引きずり続け、働きながら子どもを産み育てることや、若年で子どもを産み育てることの足を引っ張る環境として、今の日本社会は存在している。

そして、考えてみれば当たり前のことだが、今、若い実習生が大勢日本で働いているという事実は、まさにそうした日本社会の歪んだあり方自体の結果でしかないのだ。つまり、日本社会が子どもを安心して育てることの難しい社会であり、仕事と子育てのトレードオフで若い世代を引き裂く社会であり、それゆえ世代間の人口バランスが著しく偏り、人手が大きく不足した社会であるがゆえに、外国人労働者の存在に頼るしかなくなっているわけである。

私たちは子どもを産み育てづらい日本社会の問題それ自体の本質的な解決はせず、日本より賃金の低い国から若者たちを大量に呼び寄せ、子どもを産み育てる機会を奪ってまで働かせるという非人間的で擬似的な解決を図ってきた。そんなことはもう、終わりにすべきだと思う。

40万の技能実習生たちが生み出す利益と共にある私たちの社会は、数百、数千の孤立した妊婦たちを毎年、構造的に生み出し続けている。はっきりした自覚もないままに、そうし続けているのだ。その圧倒的な無関心の中で、女性たちは悩む。支える誰かと共にいられたら、みんなで一緒に悩む。中絶か、帰国か、出産か。少しでもマシな道筋を求めて、必死になって模索し続ける。

彼女たちを孤立させないためには、私たち全員が知る必要がある。この社会の姿を直視して、変える必要がある。(了)

リンさんの刑事裁判は6月21日から始まる。彼女を支援するコムスタカでは裁判支援などのための寄付金を募っている。この記事が一人でも多くの人の目に触れることで、リンさんの境遇への理解や支援が広がればと思う。

【前編】彼女がしたことは犯罪なのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(1)
熊本の農園で働く技能実習生のリンさんは、強制帰国を恐れ、妊娠を誰にも言えず、部屋で一人、双子を死産した。出血も多く、恐怖と混乱の中で、一日部屋にいた。それが犯罪だとして21歳の彼女は起訴されてしまう。彼女がしたことは本当に「犯罪」なのか?
【中編】彼女はなぜ誰にも相談できなかったのか。あるベトナム人技能実習生の妊娠と死産(2)
リンさんは妊娠を誰にも言えなかったがために罪に問われる事態にまで陥った。ではなぜ彼女は「誰にも言えなかった」のか。背景にはどんな恐れや不安があり、それらは技能実習を取り巻くどんな構造の中で生み出されているのか。問題の根源は何か?

CREDIT
望月優大|取材・執筆
柴田大輔|取材・写真
伏見和子(難民支援協会)|取材

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TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

1985年生まれ。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。著書『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)。代表を務める株式会社コモンセンスでは非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21