2018.08.30

少数者の隠れた声に寄り添う。“多数者のぬるま湯”に抗い続けた男が「移民の支援センター」をつくった理由

神戸にあるもう一つの「KFC」

神戸市の長田区に「KFC」という名のNPOがある。KFCと言ってもあの有名なチェーン店ではない。1997年に設立された「神戸定住外国人支援センター(Kobe Foreigners friendship Center)」の略称である。

神戸市には在日コリアン、ベトナム難民、中国残留邦人帰国者など様々なルーツを持った人々が暮らしている。95年の阪神・淡路大震災後の支援活動を源流にもつKFCでは、神戸の定住外国人コミュニティのために高齢者支援、日本語学習支援、子ども支援など様々な支援事業を展開してきた。

KFCが運営するデイサービスセンター「ハナの会」

人手不足の世相を反映して若年の外国人労働者に社会の注目が集まる中で、KFCでは在日コリアンやベトナム難民など「移民や海外にルーツを持つ高齢者たち」の支援を行っていると知り、強い関心を持った。さらに、KFCでは利用者だけでなくそこで働くスタッフも多様なルーツの方々によって構成されているという。

私はKFCが運営するデイサービスセンター「ハナの会」を訪れた。ちょうどその日はベトナムにルーツを持つ利用者の方々が集まる日で、ベトナムの旧正月を祝う食事会が催されていた。

この写真で飲み物を振る舞っているのが97年にKFCを設立した金宣吉理事長。川崎で在日コリアンの権利獲得のために活動した90年代前半、震災をきっかけに故郷の神戸での活動を開始した90年代後半を経て、現在までKFCでの活動を通じて神戸の移民コミュニティのために多種多様な支援活動を積み重ねてきた。

最近はメディアでも外国人や移民に関する話題を目にすることが増えた。しかし、そうした変化のずっと前から地べたで移民たちの声に寄り添って活動してきた人たちが確かにいた。金理事長へのインタビューは期せずして、「平成」と呼ばれた30年間の時代をカバーするものになった。

金宣吉(キム・ソンギル)氏。NPO法人神戸定住外国人支援センター(KFC)理事長。1963年神戸市長田区生まれ。大学卒業後に一般企業に就職。その後、川崎市を拠点とする「青丘社」での勤務を経て、95年の阪神・淡路大震災を機に神戸に戻り、主に定住外国人を対象とした支援活動を行う。97年にその活動を発展させKFCを設立。定住外国人の高齢者支援、日本語学習支援、子ども支援など様々な活動を展開し、現在に至る。

川崎で在日コリアンの権利獲得に奔走

――金理事長、今日はお忙しいところありがとうございます。

はい、よろしくお願いします。こういう仕事していると聞かれますよね「何でこんなことしてるんですか」って。名前からわかるように、私は在日コリアンなんですね。もしかしたら自分の出自はかなり影響しているのかもしれません。ただ、それだからやっているというわけでもないと思いますし、それだけで決まるものでもない。

――お生まれは神戸ですよね?

ええ、神戸です。この近辺で生まれました。大学で専攻していたのは土木工学でこの世界とは全く関係がない。ボランティアを川崎の在日コリアン多住地域で始めたのがきっかけですね。

――ボランティアではどんなことをされていたんですか?

在日コリアン多住地域の学童保育を「大韓キリスト教会」という在日韓国人の教会の礼拝堂でやっていました。礼拝堂は日曜日しか使わないから、教会の長い重い椅子がありますよね。あれを前の方に立てかけて、子どもたちのためのスペースを作っていたんです。半分ガテン系のボランティアみたいな感じでした。

――ボランティアをされていたのは川崎市の中でも南部のエリアですか?

そう南部、池上町とかあのへんですね。大学を出た後に東京の会社に就職して川崎の武蔵小杉あたりの寮に住んでいました。その時代に始めた「青丘社(せいきゅうしゃ)」という社会福祉法人のボランティアがスタートです。

学生の頃にも在日コリアンの人権問題や教育問題をやっているサークルに関わっていました。「関わっていた」と言っても、展示会でパネルを運ぶときに2トン車のトラックを運転するとか、ずっとガテン系のお手伝いをしてきた感じです。

90年頃に青丘社の職員になりました。同時に「民闘連」という在日コリアンの権利獲得をずっとやってきた全国的なグループの神奈川事務局のリーダーにならなくてはいけないということにもなって。

80年代後半から90年代というのは、在日コリアンの権利獲得のための活動を各自治体との話し合いの中で進めていた時代で、私の役割も普通の社会福祉法人の職員というより役所との交渉という感じでしたね。ほぼ死語ですけど「活動家」みたいな職域ですよね。

だから私はいわゆる「国際貢献」とか「社会福祉」とかを考えて始めた人間でもないんです。役所とタフな交渉をするのにガテン系が合っていたのかもしれないですね。

――自治体と交渉することが仕事だったんですね。

そうです。例えば当時は「指紋押捺拒否」の運動というのがあって、押捺を拒否した人を自治体が法務省に対して告発しないように自治体とネゴシエーションする必要がありました。

ほかの例だと、59年にできた国民年金法では「国籍要件」を設けていたため、在日コリアンなど外国籍の高齢者たちは年金の掛け金を払いたくても払えなかったんです。その後日本は82年に難民条約を批准した。そして「内外人平等原則」ということで日本の社会保障法は初めて国籍要件を外すんだけれども、そこで「無年金になっていた外国籍の高齢者たちのために自治体が代替制度を設けてほしい」という活動を全国的にしていました。

――活動はいつ頃まで続けていたんですか?

94年頃に青丘社の仕事は辞めて、東京で企業や行政に対して人権啓発をするグループを作る予定だったんです。ただ95年に阪神大震災が起きてしまった。それで震災ボランティアで神戸に戻ってきたんです。ここのスタート地点ですね。

阪神・淡路大震災後の支援活動に取り組む

――震災後のことを聞かせてください。外国人の方も配給や行政サービスは平等に受けられていたのでしょうか?

物理的なハードの面について大きな差をつけたということはトータルに見ればあまりないですね。「ここに入っちゃいけない」とかはなかった。

ただ、例えば「外国人窃盗団が出ているからゴルフクラブを持った自警団ができている」とか関東大震災の頃を彷彿とさせるような報道はあったし、在日ベトナム人の方が小学校の避難所へ行ったら「お前らが来るところじゃない」と断られたような事例もあったけれども。

当時あった制度的な問題は3つくらい。まずは弔慰金の問題。短期滞在の人には日赤とかが集めている弔慰金は出せないということで「外国人救援ネット」というNGOが取り組んでいました。それから医療費の問題。無保険の人が「クラッシュ症候群」になっても透析とかが受けられない。あと義捐金ですね。

当時神戸にいたベトナム人は80年代に日本に来た人たち。日本の難民受け入れが80年代中盤からだからまだ10年くらいですよね。長い人で15年。避難所ではそういうベトナム人コミュニティの言葉や文化に配慮したことはできない。だから学校や公民館ではなくて南駒栄公園という児童公園でのテントを張っての避難生活が長く続きました。そこの支援をしていたグループがここのKFCの源流の一つです。

KFCに勤めるハ・ティ・タン・ガさん。ベトナム難民として来日。震災後の支援活動やベトナム人の自助グループにも関わってきた。前回の記事で紹介したMCナムの母親でもある

――ベトナム難民のコミュニティに対する支援をしていたんですね。

在日コリアンの方に関わる問題だと「非識字者」というね、「字が読めない高齢者がたくさんいる」という問題がありました。

震災後の初期の頃に、知的障害を持っている方や高齢の方たちが入るカマボコ型の仮設住宅があったんですよ。「集合型仮設」と言ったかな。そこには「ライフサポートアドバイザー(LSA)」というお世話をする人がいるんですが、LSAから私たちに在日コリアンのおばあちゃんのことで支援の要請が来たんです。95年の夏頃だから介護保険が始まる前のことです。

聞くとそのおばあちゃんが「日本語で話しかけても返事をしない、つくったものもなかなか食べてくれない、だから今で言う認知症の特別な措置や配慮が必要なんじゃないか」と言うわけです。

それで実際に会いに行ってみると、その方は別に認知症でもなんでもなかった。「母語帰り」というか、意図的かもわからないけれど、日本語で話しかけると韓国語で返すし、食べ物についても「甘くて口に合わないから食べないんや」と言うんですよ。

そのとき単に「言葉が通じない」という風に捉えるのではなくて、高齢の方の文化とか生活の背景みたいなものにも配慮したサポートが必要なんだということに気がつきましたね。

人間はハードだけで生きているわけではない

その後「集合型仮設」から復興住宅とかの「受け皿住宅」に変わってきて、一旦この活動は終わりました。東北の場合はまだ仮設も残っているけれど、2年くらいで仮設は概ねなくなりますよね。そうすると次は「コミュニティを失ったマイノリティ」の問題になります。

震災の前、長田には長屋が集まった在日コリアンの多住地域があった。近隣に10とか20世帯くらい住んでいるようなところです。でも、仮設住宅から受け皿住宅に入っていくときには、そういう背景が配慮されるわけではなくて抽選で決めたり、点数制で入れたりとかするわけです。東北では同じ集落ごとの移住とか少しは配慮するようになっているけれども、95年ではそういう配慮もなかった。

震災で住宅を失った人が仮設住宅に入り、それから復興住宅、受け皿住宅に移っていくと、一人ひとりがバラバラになってしまう。するとどういう不便が起きるのか。さっき話した「文字が読めない少数者」という問題も、代わりに読んでくれたり、気兼ねなく代筆をお願いしたりできる近所の人たちに頼っていたけれどそれがなくなってしまう。

ハードとしてはとても堅牢な住宅、平米も十分、日差しもいいし、ベランダもある、お風呂もある。そんな住宅でも、その人たちにとってのライフラインがない。人間はハード面で生きているわけではないからね。ソフト面が大切なんです。

KFCに勤める呼和徳力根(フフデルゲル)さん。中国・内モンゴル自治区の出身。留学生として来日したのち新卒でKFCに参画

――コミュニティが担保してきたソフト面のライフラインが震災をきっかけとした移住で失われてしまったんですね。

98年にアメリカのサンフランシスコとロサンゼルスに行きました。実は「ハナの会」は日系人の高齢者支援をモデルにしているんですよ。アメリカには100年くらい日系人の歴史がありますから。

アメリカといっても西海岸、ワシントン州とかカリフォルニア州がちょっと違うというのは後でわかりました。当時のアメリカはまだバックラッシュの前でもあったんですね。移民コミュニティや多文化主義的な流れの中で民間がかなり大きな事業規模を持ってやっている。「NGOの自立」みたいなことで非常に刺激的だった。

当時は日系人会館、「KIMOCHI会」というところがやっていましたけれど、ランチサービスで味噌汁とかお豆腐とか照り焼きとかを高齢者に提供していた。コーディネートしているのは日本語を喋る日系人の3世で海兵隊だったかな、「青森の三沢基地に勤めていました」とか言っていました。感覚的には「在日コリアンの自衛隊出身者がNGOで高齢者支援をしている」という感じですよね。

そういう活動をアメリカで見て、震災のときの集合型仮設に人を派遣して得た経験もあったし、神戸に帰ってきて「やろう」ということで周りに声をかけました。「ハナの会」は99年に食事会としてスタートすることになります。

「ハナの会」のはじまり

――「ハナの会」はどういう活動から始めたんですか?

最初は識字教室に行っているお年寄りとかに声をかけて5~6人くらい集まったのかな。当時30代の少し後輩の在日のお兄ちゃんに一緒にやろうと言ったんですが、彼は「宣吉さん何がやりたいんですか?」「ばあちゃん集めてどうするんですか?」と言っていました(笑)。

最初は医療相談とか色々なプログラムを考えてやってみたんだけど、結果的には「毎週同じところに集まる場所を新長田の駅前につくる」ということの意味がすごく大きかったですね。

新長田駅は地下鉄が2本乗り入れている結節点で大きなバスのターミナルにもなっている。神戸市の「高齢者パス制度」で地下鉄とか市バスは無料で乗れるから、震災でバラバラに住まざるを得なくなった高齢者たちがここになら集まれるというところなんです。

ただ場所の確保がすごく大変でした。駅前の「ピフレホール(新長田勤労市民センター別館)」という大きなホールの3階に料理教室スペースがあるんですが、そこを毎週使わせてほしいと言ったら、「特定の団体に毎週使わせることは市民の公平性からなんとか…」とか言うんですよ。

一体何を言っているんだと。「おたくらがずっと放りっぱなしにしている問題をこっちが自分のお金で準備すると言うのに…」って。神戸市の課長や部長とね、ネゴシエーションしましたよ。

――流石です…。

一歩一歩つくっていきました。その場所が何なのかって言われると、食材を買ってきて、在日コリアンの料理をみんなでつくっていたわけです。ナムルとか一人だけでは到底食べきれないから。

元々は大家族の主婦だった人たちが年を取って年金も無い、だから生活保護のために一人暮らしをしている。そういう社会的に厳しい背景があります。この活動が99年に始まって多いときは48人くらい来てたのかなあ。

――パーティーですね。

毎回そうです。どこの韓国料理屋よりも美味しかった感覚がありますね。でもKFCのハナの会「素晴らしいです」って言われるけど全然そんなことない。おばあちゃんしか来ないから。

一度おじいちゃんが来たときにおばあちゃんらがすごい怒りだして。「私たちの国では女の集まりにくる男は下のゆるい男で、あれは昔からとんでもない人間や」とか、「女の尻ばかり追いかけているような不埒な男だ」とか。

――おお…。

おじいちゃんを連れてきた彼女もいたんだけど、「男を連れてきた」「あのじいさんを帰さないと今後私は来ない」って言うからね、おじいちゃんの肩叩きさせてもらいました。だから全然「多文化共生」なんかじゃないんですよ。「女の人の園やからね」って言って。しかもほとんど未亡人なんです。男は酒飲みすぎて早く死ぬから在日コリアンは(笑)。

――どこまで笑っていいのか…。

大変ですよ。民族的な多様性があるわけでもないし、ジェンダー問題もあるし。まあ、いつも言っている冗談ですね。

隠れた声に寄り添う

ただ、やはり女の人たちが厳しい状況にありました。歴史的に教育を受けさせてもらえなかった。その人たちが高齢になって、友達とずっと一緒に暮らしていた長田の街で大きな地震があって、孤独を抱えないといけなくなった。

そういう状況でどういった場所が必要なのか、というところから始めたアプローチなんです。だから「絵に描いた餅」のような話ではなくて、彼女たちの声を聞きながらやってきたことなんですね。

その本質は普遍的なもので、アメリカの日系人にしろ、日本の在日コリアンにしろ、フランスにいるマグレブ出身の人たちにしろ、自分たちの生まれ育ってきたものを大切にしてくれる居場所のようなところが必要だということですよね。

それをいわゆるマジョリティ中心の社会の中で確保するということなんです。さっき言ったように「毎週同じ場所を貸さない」とか、「何ヶ月前に申し込みに来い」とかそういうことの中でね。

――手続きのようにして排除されてしまう。

それがいわゆる日本の役所の平等ですよね。公正なことがない。

2000年代前半になると「腰が痛い」「膝が悪い」って来られなくなるおばあちゃんが一人、二人と出てきたんですね。背もたれのない丸椅子でしょ、料理教室の椅子って。私に「社長、家を買ってくれないか、寝っ転がったり、テレビを見たりする場所がほしい」って言うんですよ。日本のNPOがどんだけ貧乏かわかってないと思うんですけど(笑)。

継続していくためには2つの問題がありました。1つは横になれる、料理教室とは違うスペースを確保しないといけない。もう1つは送迎の問題です。四方八方に散らされた人たちを送迎するとなると凄まじい距離になるんです。復興住宅って都市部にはなくて田舎の方にしか作れないからね。

――自力で来れなくなると送迎が必要になったんですね。

色々と検討しました。ただ車を確保してやっていくとなると2000年にできた介護保険の中に通所介護事業、いわゆる「デイサービス」というのがあって、それで仕切り直したらいいということで切り替えました。介護保険の適用は内外人平等でできた初めての制度ですから外国人だからダメってことはありません。

借金もしました。介護保険事業をするために2004年に法人格もとって、2005年に駅前の物件を偶然押さえることができて、今の「デイサービスセンター・ハナの会」の形で再開できました。

切り替えはなかなか大変でした。介護保険料を滞納しているおばあちゃんもいて「今のままがいい」ってずっと言っていましたよ。「介護保険を使ったら私は行かへん」「みんなの前で滞納しているとも言えないから」と。

制度に乗せるということは制度を使えない人も出てくるということです。経済的に厳しい人もいる。そういう人たちのために別曜日でただの食事会もやっていましたね。

――それぞれの具体的なニーズに寄り添って活動をされてきたんですね。

何かの事業をやる前には調査をします。2010年の調査で中国残留邦人帰国者の方たちが特に孤立感を高めているということがわかりました。

どういうことかと言うと、その方たちは日本の管理型の移住で来たんですよね。郊外の人気のない巨大公営団地に入って、県が斡旋する清掃の仕事をして、あっという間に60歳。

日本語もきっちり勉強できていない。年金があるわけでもなく、生活保護を受けている。中国にいる養父母に会いに行くこともできない。趣味の釣りをしに釣り場に行ったら「中国人は来る場所じゃない」と言われる。「なんでや」って。

そのときとある公民館でやっていた日本語教室に行ったら、真っ暗なところでね、おばあちゃん2人がずっと中国語で話しているのを見た。

「この人達はここに日本語を勉強しに来ているのではなくて中国語で話せる仲間に会いに来ているんだな」という感じがしたんですね。レクリエーションみたいなものを求めてるのかなと。

面白いのが、彼女たちに何をしたいか聞いたら「太極拳をしたい」って言うんです。「中国から来たから太極拳ができるとみんな思っていて、期待に応えたい」って(笑)。日本人がアメリカに行って「カラテ」って言われるのと同じかもしれないですね。しかも、それで始めた太極拳のクラスの先生は日本人の先生だったんですよ(笑)。

当事者たちの思いを聴いて「咀嚼する」っていう表現がいいのかな。「自分がどう見られたいか」とか、「今の環境の中でその人の本当のニーズに合わせられているのか」とか。

「この人たちは日本語教室で日本語を学びたいんじゃなくて、同じ中国語を話せる同じような背景の人たちと会いたいんだ」というのはね、あくまで僕の感性ですよ、でも本当かなと思うんです。それはベースに持っている「知識」みたいなことなのかなと思いますね。

ここは「移民」の支援センター

うちは高齢者支援のイメージが強いけれども、子どもの支援や日本語支援も神戸で最大規模です。日本の中では概念的に成立しにくいんですが、要するにうちは「移民」の支援センターなんですよ。「移民」という言葉は日本の中ではなぜか海外の話になってしまうけれど、うちがやっているのは世界標準でみたら「移民」の支援です。

それが通じないということが日本の異常さですね。在日コリアンにしろインドシナ難民にしろ、中国からの帰国者にしろ結婚移住者にしろ、「移民」の人たちなんです。でも日本には「移民社会ではない」という建前があって、「移民」という言葉にネガティブなイメージがついていますね。

――「移民」という言葉を使わないですよね。

異常なまでの本音と建前の乖離があります。「実習生」の問題もそう。要は労働力として足りない部分を補完してくれたらいいんだと。彼らが家族をもうけたり、教育を受けたり、高齢化をすることはお荷物だと。

もう100年くらい前から在日コリアンや華僑って日本にいるわけですから、その人たちを無視し続けて社会を作ってきただけの話です。我慢させてきた人たちがいるだけですよね。

――最近になって始まったことではないですよね。

「私がなぜこんなことをしているのか」という話にまた戻るけど、若いときは「自分がやらなかったら誰がやるねん」というのがありましたよね。

だから「多文化共生」と言っている多くの団体とは論の建て方がかなり異なると思います。職員の構成も違うし、文化や言語も大きな要素だけれど、その前に主流社会と非主流社会の間にある格差や差別、対象とされる側、観察される側、見られる側と見る側との間にある固定した関係性を根底から変えないといけないと思っているんですよね。

――その違いについてもう少し教えてください。

日本人が問われますよね、ここの活動を見たら必ず。「なぜ今日あなた(※筆者)はここに来たの、何をしに来たの?」と。日本人は当事者です、移民が困難を抱える社会を作っていることのね。外国人だけが当事者なわけではないですから。

自分が今まで持ってきたステレオタイプのイメージとは違う実態に目を向けなければいけないし、そうするとストラグルが生まれますよね。

役所はホームページを多言語化することは喜んでやるけれど、特定の施設のスペースを毎週貸すのは日本人の顔色を伺ってからとなる。マイノリティに「ゴミの捨て方に関する日本のルールを守らせる」とかはやるけれど、その人たちの居場所を作ることにはあまり関心を向けない。

「日本に来たから日本のルールに従いましょう」という話はよほどの縦関係の中で強いるということでない限りあまり効果はない。その人たち自身がリーダーとして社会に参加するために鼓舞をしていく、モチベーションを上げていくということの方が効果があるはずなんですよね。

隣の席に座らせない限り無理ですよ。「多文化共生なんとか協議会」のメンバーが全員日本人だったりするわけです。女性問題の協議会で委員が男ばっかりだったら異様な雰囲気になりませんか。でもそれと同じことがほとんどのところで進んでいる。

当事者が全てをどうにかすればいいとは全然思っていないですよ。ただ当事者の力は共生していくためにものすごく大切な力です。その力を育成するための機会を作る、そういうことを意識しない社会というのは偽善的な社会でしょうね。多様性を消費するということだと思います。

多文化の重さと覚悟

――KFCのスタッフはとても多様ですよね。

在日コリアン、ベトナム、中国系、あとはペルーもいますね。今度インド系の人も入りますね。

――色々な国や文化の背景を持つ人が一緒に働く中でうまくいっていますか?

いくわけないです(笑)。うまくいくわけがない。ここの理事長をすればするほど日本人の良さを見出しますよ(笑)。「外国人の人がたくさん集まってきて素晴らしい世界ができています」って言うのは嘘になりますから。やっぱり苦しいものもたくさんあるわけじゃないですか。

「みんなが言わなくてもわかるよ」とか、細かなことを決めなくてもやっていけるムラ的で同質的な社会ってある意味居心地はすごく良いと思いますよね。でも本当はそうであるのに「開かれた社会」のフリをすることが問題で。「多数者のぬるま湯」というのは少数者に厳しい社会を作るしかないわけですから。

休みの取り方にしろ、主張の仕方にしても、色々な人がいます。言葉も全員が十分にできるわけではないし、逆に色々な言葉が通じる団体だからこそ要求やクレームもたくさん入ってくるわけです。すごく良い意味でね。

ここは何でも言える場所かもしれないけど、言え過ぎる場所でもある。多民族の社会というのはすごく覚悟のいる社会です。それを先駆的にやっているところはオーストラリアとかあるわけですが、綺麗ごとだけでなくて説得力のある話をたくさん聞きますよね。

学生と話していたときに「多文化共生、多様性を尊重する、全ての個性を尊重するって言うけれど、あなたの隣人がカースト制度の中を生きていて、誰かに凄まじい仕打ちをしていてもそれを受け入れられるの?」と聞いたことがあります。「文化」ってそれくらい重いものだし、違うものだよって。

そういうことを想像もしていないでしょ、日本の「多文化」ってものは。ずっと少数者に我慢させてきたことで、その人たちが同化をして、文化的なものや大切なものを失ってきても、それで「うまくやってきた」という認識でしょう。

今みんなで生活しているこの社会と、新しい文化とは衝突することがあるわけです。そのとき何を基準にやっていくのかと言ったら、それは「人権」の問題と比較考慮しなければ仕方がないと思います。

突き詰めていけば「どう生きたいか」ということになるのかもわかりません。僕は出自がマイノリティだから、しんどくてもそこは避けて通らない方が良いと思っているんですね。

――金理事長、今日は貴重なお話を聞かせてくださり本当にありがとうございました。

取材後記

KFCの金理事長にお話を伺った。「若くて健康な労働者」としてフォーカスが当てられがちな「外国人」や「移民」というテーマ。しかし、「高齢者」や「被災者」というプリズムを通してみれば、誰もがそれぞれに固有の生い立ちや生活史をもち、強さと同時に弱さももった人間たちであるという当たり前の事実に直面させられる。

一人ひとりの人生の拠り所である記憶やプライドを綺麗さっぱり洗い流してしまおうとする「多数者のぬるま湯」の中で、少数者たちが自分自身であり続けるために必要なのは「境遇を近しくする者たちが共に集える居場所」なのではないか。KFC、そしてハナの会、金理事長は仲間たちとの活動を通じて、日本社会のぬるま湯の隙間にそんなスペースを構築し続けてきた理論と実践の人だ。

少数者にとっての幸福が多数者への同化にあるわけではない。考えてみれば当たり前の事実を、多数者の多くは今も見ないようにしている。同化に成功した者たちが「日本語上手ですね」と褒められ、そうでない者たちが煙たがられがちなこの社会。その中では「多文化共生」という言葉の多用と少数者たちからのコミュニティの剥奪とが奇妙な形で共存してきた。

移民の問題を移民たちだけの問題にしてはならない。移民を移民と認めず「日本」への同化を迫るか排除するかでしか対応してこなかったこの国のあり方そのものを問い直さなければいけない。金理事長の言葉の一つひとつが、安全で透明な「観察者」というポジションなどないのだということを強く訴えていた。

社会を閉ざすのも開くのも「当事者」である私たちの振る舞い次第だ。ボールは一人ひとりの手の中にある。

 

参考:神戸定住外国人支援センター(KFC)ホームページ

 

CREDIT
望月優大|取材・執筆
田川基成|取材・写真
二見茜|取材協力

 

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TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

ライター・編集者。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。経済産業省、Google、スマートニュースなどを経て独立。株式会社コモンセンス代表取締役。東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了(地域文化研究専攻)。関心領域は社会問題、社会政策、政治文化、民主主義など。趣味は旅、カレー、ヒップホップ。1985年生まれ。Twitter @hirokim21