TOPICS 02

それでも日本を愛している。
地域の人たちと小さな畑に支えられ、
難民認定を待ち続ける歳月

難民支援協会(JAR)は設立から20年の間に6,000人以上の難民の方々を支援してきましたが、残念ながら、難民認定を得られた方はそのうちのごくわずかです。ほとんどの方は、日本の厳しい難民認定の壁に阻まれ、在留資格を失い、生きていくために必要な権利を奪われていきます。
しかし、母国は帰れる状況になく、生活がどれだけ苦しくとも、日本で生きていくしかない。収容や強制送還の恐怖に怯えながら、社会の片隅で暮らしています。もし速やかに難民として認められ、日本で暮らすことを許されていれば、彼・彼女らの人生はどう変わっていたでしょうか。

日本の少ない難民認定数の裏には、不認定となった数万人の人生があります。なかには帰る決断をする人もいるかもしれません。しかし、帰れない人がいるのも現実です。
私たちは20年という月日のなかで、権利を奪われ追い詰められる方々が徐々に増えていくのを目の当たりにしてきました。
次の20年を皆さまとともに変えていきたいという思いから、一人のストーリーを紹介します。

1990年代の終わり、激しい政党間の争いが繰り広げられていたウガンダを逃れ、日本にやってきた男性がいる。

彼の名前は、ここでは仮にジェームスとする。
難民としての認定は受けられず、ジェームスの法的な立場は長く「仮放免」のままだ。

仮放免中の外国人は、仕事に就けない。県外に出かけるには、出入国在留管理庁の許可がいる。日本での在留が認められる見通しも、母国に帰る希望もみえない長く苦しい日々だ。

日本で暮らす外国人は年々増えているが、地域の人たちと関係を築き、その一員として暮らしていくのは、外国人にとっても日本人にとっても、そう簡単なことではない。

しかし北関東で暮らすジェームスは、地域の人たちとの関係を時間をかけて築いてきた。
数年前には地域の人たちが署名を集めて、彼の在留を特別に認めるよう法務省に嘆願書を提出している。

こんなコミュニティが少しずつ増えれば、難民に「冷たい国」と言われる日本の状況は少し変わるかもしれない。ジェームスが歩いてきた道のりには、多くのヒントがある。

10代のころ、ジェームスは政党「ウガンダ人民会議(UPC)」の活動に参加していた。いまも、党の幹部たちと一緒に撮影した写真を大事に持っている。

UPCは、1960年代〜80年代にかけて首相や大統領を務めたミルトン・オボテが率いた政党だ。

1985年、クーデターでオボテ政権が倒れ、翌年にムセベニ大統領が政権を掌握して以降、UPCは一転して政府・与党による弾圧の対象になった。

政党の関係者たちは、次々に治安当局に逮捕された。オボテ政権で要職にあった人物は国を追われた。ジェームスの兄も当局に逮捕され、2カ月にわたって拘束されたという。

拘束の状況は、拷問そのものだった。地面に深さ1メートルほどの穴を掘って、収容者たちを並んで座らせる。その上に板でフタをして逃走を防ぐ。

UPCの党員は次々にウガンダを離れ、散り散りになった。行き先は、米国、英国、ドイツ、カナダ、スウェーデンなど世界中におよんだ。

仲間が世界中に散るなか、日本へ

ジェームスがウガンダを出たのは、ムセベニ大統領が当選した1996年の大統領選の時期にあたる。「当時は、難民として、国を出る以外の選択肢はなかった。世界中に散ったメンバーが、あちこちにUPCの支部をつくったんだ」と説明する。

来日当時は、レストランの掃除などの仕事で生計を立てていたという。わずかな稼ぎでも暮らしていける場所を探すうちに、北関東のアパートの所有者と知り合い、このアパートに落ち着くことになった。

数年後、家主の子どもや、地域の子どもたちに英語を教える活動も始めた。町の夏祭りにも参加して、神輿(みこし)を担ぐようになった。しかし、在留資格の延長ができず、帰国できる状況にもなかったためオーバーステイ状態になったという。
「いまのようにインターネットやスマートフォンがあればさまざまな情報が手に入るが、当時は、日本のシステムに関する知識がまったくなかった」と振り返る。

入国管理局による長期の収容

2008年、ジェームスは不法在留で入国管理局に拘束された。収容先は、東京・品川にある東京入国管理局と、茨城県牛久市の東日本入国管理センターだった。難民支援協会(JAR)とのかかわりがはじまったのは、この時期のことだ。

当時の東京入管では、弁護士などを除き、被収容者と外部の人との面会は10分までに制限されていた。

収容されている人が外部の人と話をするには、樹脂製の透明の板で隔てられた面会室で会うことになる。刑事ドラマに出てくる面会室を思わせる部屋だ。

写真はイメージです。

施設内では、被収容者たちがグループをつくって、いっしょに聖書を読んだり、新聞を読んだり。互いに支え合ってはいたが、いつ収容を解かれるのか、母国に送り返されるのか、だれにも先は見えない。
収容が長期化するにつれ、心身を病む人が増えていく。中には、自殺を図る人もいる。

入管の施設には、気の合う職員もいた。ときには、「あきらめちゃだめだよ」「がんばれ」と励ましてくれた職員がいたことを、ジェームスは忘れていない。

仮放免と厳しい生活

収容施設を出るには、仮放免の保証金を支払い、日本人の保証人も必要になる。仮放免として施設を出たとき、収容から2年近くが経過していた。

仮放免中の外国人は、日本で仕事をすることができない。しかし、仕事をしなければ家賃は払えず、食べ物も買えない。仮放免中に仕事をしていることが入管に発覚すれば、再収容の理由になる。
望む望まないにかかわらず、生きていくには、支援団体などからの食糧支援に頼らざるを得ない現状がある。

仮放免としての暮らしの中で、小さな畑が、ジェームスにとっての大きな支えになっている。トマトやレタス、タマネギといった野菜をつくり、近所の世話になっている人たちに配る。畑仕事に子どもたちが加わることもある。

正月には、地域の人からジェームスのもとに、もちが届くこともある。さまざまな支えがあり、何とか生き抜いている状況だ。

もし日本の政府が難民であると認めれば、法的に安定した立場で暮らすことができる。
ジェームスは、難民としての認定を求めて申請をし、野党に転落したUPCに対し、どれほど苛烈な弾圧が加えられていたかを繰り返し入管に説明してきたが、いまのところ認定はされていない。
日本で難民としての認定を受けるのは、極めてハードルが高い。2018年、1万493人が難民認定を申請し、認められたのは42人だった。

地域の人々からの応援

仮放免となってから数年が経った頃、家主や地域の人たちが署名を集め、法務省に提出した。嘆願書には、ウガンダから来たジェームスと、地域の人たちの交流の様子がつづられている。

「初めは外国人という事で多少警戒してましたが、私の店で時々手伝いをしてくれたり、アパートの周りをきれいにしてくれたりと、日本人でもできないことを自分からやってくれ、私も家族にあわせたりしました。
私の子供にも、言葉が分からない中、心が通じるようになり、子供の将来も考えて、私にできない指導等してくれています。
小さな町ですが、たくさんの友達がいて、今は外国人の中でも信頼の厚い人として声を掛け合う人も多くいます」

母国・ウガンダの状況は大きく変わった。
ムセベニ大統領の政権はいまも続いている。政治・経済の安定は国際的に評価を受ける一方で、選挙期間中にSNSへのアクセスが遮断されるなど、独裁色を強めているとの評価もある。

ジェームスは定期的に、仮放免の更新のため入管にでかける。その日が近づくと、いつも体調が悪くなる。
仮放免中の生活には、いつ再び収容されるかわからない不安が常につきまとう。日本で思うような仕事はできず、法的な立場も暮らし向きも不安定なままだ。
けれど、近所にはたくさんの友だちができた。地域に支えられながら、20年の歳月を生き抜いてきた。ジェームスの声が熱を帯びた。

「ぼくは、日本を愛している。この国での暮らしを愛している」

※個人が特定されないよう仮名を使い、一部内容を編集しています。

CREDIT

小島寛明 [取材・執筆]

難民支援協会 [編集]

LIFE.14 [撮影]

20th anniversary since 1999