2019.10.31

「やっぱり愛していたからね」ベトナム難民の定住を支え続けた一人の女性の半生

2019.10.31
白波瀬達也

1990年代以降、日本有数の外国人集住都市として知られるようになった静岡県浜松市。だが、実はそれよりも随分前から浜松市がベトナム難民の集住地だったという歴史まで知っている人はあまり多くないかもしれない。

1975年に終結したベトナム戦争とその後の社会主義国化によって発生したたくさんの難民たち――彼らの多くは欧米諸国に移り住んだが、日本に定住した者も少なくない。なかでも浜松市は神戸市などと並んでベトナム難民にとって主要な定住先のひとつとなり、その後家族の呼び寄せも行われた。さらに、現在では難民のルーツを持つ人々に加えて留学生や技能実習生として来日するベトナム人も増えており、2019年8月時点で市内に3,000人弱のベトナム人が暮らす。

当時ボートピープルとして日本への仮上陸を許可された難民たちは、まず長崎県大村市にある「大村難民一時レセプションセンター」を経由したのち、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)の要請にもとづく全国35の仮滞在施設へと収容保護された。浜松市に隣接する引佐郡細江町(現在は浜松市に併合)に作られた「愛光寮」もそうした施設の一つであり、この場所が浜松市でのベトナム難民定住化のきっかけとなった。

愛光寮の母体となったのは、キリスト教精神に基づく社会福祉法人「聖隷福祉事業団」。1977年8月に日本赤十字社からの委託要請を受け、翌9月に愛光寮を開設した。愛光寮での取り組みは他の地域の仮滞在施設に比べて踏み込んだものであり、特に地元の公共職業安定所と協働して直接定住を促進する試みは全国初の開拓的実践だった。

愛光寮には老若男女のベトナム難民が暮らしていた。写真提供:聖隷歴史資料館

愛光寮が提供したプログラム・サービスは以下5つの領域にわたり、日本政府の難民への対応が本格化したことを背景に1984年3月に閉鎖されるまで、約250名のベトナム難民を受け入れた。初期の定住化の鍵は「愛光寮の精力的な取り組み」と「定住を可能とする就労環境」であったと言える。

① 健康(聖隷福祉事業団が経営する総合病院の協力による健康管理)
② 教育(子どもの学習援助、就学援助等)
③ 就労(就労斡旋等)
④ 地域関係(地域住民との相互交流等)
⑤ 定住(直接定住に向けた援助等)

聖隷福祉事業団の創設者、長谷川保(1903-94)とベトナム難民の子どもたち。 写真提供:聖隷歴史資料館

その後、浜松のベトナム難民の多くはアメリカ、オーストラリア、イギリス、ノルウェー、カナダへと出国(第三国定住)。だが、後に欧米諸国による入国審査が厳しくなったこともあり、日本に留まらざるをえなくなった、あるいは留まることを選んだ人々も一定数いた。

愛光寮の閉鎖後、その間隙を縫う働きをしたのがこれまで35年間にわたって「難民ケースワーカー」を担ってきた古橋楓さんだ。さらに、彼女と二人三脚で同胞の組織化に尽力してきたベトナム難民のトラン・バン・ミン(日本名:山田明)さんの働きもその後のベトナム人の定住化に大きな役割を果たしてきた。

この記事では、彼らへの数次にわたる聴き取り(2013年〜2019年)から得られた生活史にフォーカスを当て、浜松市における「もうひとつの多文化共生」の展開に目を向けてみたいと思う。

トラン・バン・ミン(山田明)さん(左)と古橋楓さん(右)

未経験からスタートした難民支援

――古橋さんはどういう経緯でベトナム難民の支援に関わるようになったのですか? それまでも社会福祉のお仕事をされていたのでしょうか?

古橋:日本女子大学の社会福祉学科の出身なんです。卒業後は大学の事務職として働いていましたが、結婚を機に浜松に来ました。主人が浜松の人間で家業を継がなきゃいけないっていうので帰ってきたんですよね。ちょうど東京オリンピックの年ですね。

それで浜松に来てからは三男一女の子どもを産んで、子育てと主人の仕事を手伝って、少し一段落した頃に日本国際社会事業団(ISSJ)の理事長から難民ケースワーカーをやってほしいっていう話があって…。45歳のときです。少し社会参加してみたいなぁと思っていた時にそういう話があったものですからお引き受けしたんです。

――古橋さんにどうして声がかかったのですか?

古橋:ISSJの理事長が日本女子大学の一番ヶ瀬康子っていう社会福祉の先生に「浜松に誰か良い人がいないか?」って尋ねたのがきっかけですね。一番ヶ瀬先生が「教え子が浜松にいるから」って、私を紹介したんです。

この話を受けたとき、私は次男の大学入試が終わってホッとしているときだったわけ。正直、ベトナムのことは何も知らなかったけど「私にできることなら」ってことで引き受けたんですよね。愛光寮が閉鎖したのが1984年の3月末で、私は5月1日付で赴任しました。

――もともと難民支援に関心があったんですか?

古橋:当時、愛光寮という施設が近隣の小中学校などで衣類などの提供を呼びかけていたんです。それで私も寄付するぐらいのことはしていました。でも直接的にベトナム難民と接触したこともないし、ほとんど知らなかったんです。

すでに浜松には大勢のソロプチミスト(女性実業家などで構成される国際的な社会奉仕団体)の人たちがベトナム難民に関わっていましたし、最初はお断りしていたんです。でもベトナム難民を雇っていた会社の社長さんが「古橋さんは白紙だから良いんだ」って言われて。

――余計な先入観がないからってことですね。ベトナム難民を雇っていた会社の社長さんというのはどういう人たちなのでしょう?

古橋:ベトナム難民の人たちの多くは第三国へ出国したけれども、しばらく浜松に住んでいる間、やっぱり働かないと食べていけないですよね。こういう難民も雇ってくださっていたんです。

――具体的にはどういう会社なんですか?

古橋:主にバイクや自動車の部品を作る会社です。浜松はご存知のように、ヤマハがあり、スズキがあり、ホンダがあるでしょ。浜松にはこういう大企業の関連工場がものすごく多いわけ。工場の仕事は日本語が十分に喋れなくても務まる部分もあるんです。

家族みんなが相談員

――古橋さんはどのようにベトナム難民の方々と接触していったんですか?

古橋:「とにかくベトナム難民って一体何?」っていうことから勉強しなくちゃいけない。だから勉強しましたよ。ベトナム戦争のことやいろんなことを。一人ひとりヒアリングして、どうして出国したのかとか。出国前に日本という国を知っていたかとか。

今では笑い話ですけど、静岡県ベトナム人協会を一緒に立ち上げたミンさんは、私が訪ねてもほとんど話してくれなかったんです。ミンさんは南ベトナムの軍人として亡命していたので、私のことを最初はスパイかもしれないと疑っていたんです。

――スパイですか?

古橋:もしかしたら私がスパイで密告するかもしれないって考えを持っているわけ。だからベトナム難民の人たちは自分のことをあんまり語りたがらなかったんです。

私自身も偏見を持っていましたよ。ベトナム難民の家に行って、水を出してもらったとき、「きれいなコップかしら?」って…。体は欲しているんだけど飲めない時もありました。打ち解けるのにずいぶん時間がかかりましたよ。

――お互い疑心暗鬼の状態でケースワークの仕事が進んでいったのですね。信頼関係を築いていくために古橋さんはどのようなことをやってこられたのでしょう?

古橋:就職先を探すとき、私は足で稼いでいきましたね。難民の方と一緒に行って。「とにかく私が責任を持つから一週間だけ使ってください」、「一週間使って適性がなければすぐ引き取ります」ってね。それで就職先をどんどん広げていったんです。

――就労のほかにニーズの大きいものはありましたか?

古橋:入管の手続きに関する支援ですね。かなりの数の身元保証人になってきました。

あとは自動車の免許ですね。それでタクシー会社の社長さんにお願いして、免許証取得のための日本語教室を開いていただいたんです。受講料も取らずにボランティアで。それがきっかけでずいぶん多くの方が自動車免許を取りましたよ。うちの次男も教習所への送迎なんかをしたり、試験勉強のサポートなんかをしょっちゅうしましたよ。

――家族ぐるみでお付き合いをされていたんですね。

古橋:そうですね。私がそういうことをやることによって子どもたちに良い影響をもたらしたと思いますよ。「お母さん、いったい何をやってるんだよ」ってことにはならなかったですね。我が家は子ども4人と夫、みんなが「相談員」でしたね。次男は小児科医になったので、ベトナム人の子どもの具合が悪いって連絡が入ったらすぐに飛んで行ったりもしましたね。

決死の亡命、そして同胞の世話役へ

――ミンさんは古橋さんと一緒に静岡県ベトナム人協会を立ち上げられたコミュニティの世話役ですが、ベトナム戦争をどのように経験したのでしょう?

ミン:私は1952年に南ベトナムの田舎町で生まれました。小学生の頃、この町は戦争でゲリラ地域になりました。17歳のときに徴兵され、南ベトナムの政府軍に入隊して6年間軍人として戦争しました。1975年に南ベトナムの首都サイゴンが陥落し、洗脳教育、重労働をさせられました。2年後に釈放されましたが、差別を受けました。

――どのように亡命したんですか?

ミン:1981年にボートで脱出しました。マレーシア方面へ向かいましたが、台風に遭って5日間漂流して太平洋の海上でイギリスのタンカーに救出されました。その船が千葉港に着いたんです。最初は滋賀県の天理教の難民施設に入りました。そのあと1984年に品川国際救援センターに入って6ヶ月間、日本語と日本の習慣を勉強しました。

――どういう経緯で浜松に暮らすようになったのですか?

ミン:品川国際救援センターで仕事を紹介してもらって、浜松で自動車部品のプレス工になりました。センターの職員から「浜松は気候も暖かいし、工業地帯で仕事も多い」と紹介されました。

――当時、すでに浜松にはベトナム人はいました?

ミン:はい、いました。愛光寮がなくなった後に、浜松に定住した人が働いていました。1981年より前はアメリカなどに第三国定住という形で移るベトナム難民が多くいましたが、日本でも難民を受け入れるようになったのでアメリカに行くことが難しくなりました。私は親族が暮らすアメリカに行きたいと申請したけど、受け入れてもらえなかったのです。

――親族の多くがアメリカに亡命したのですか?

ミン:お母さんとお父さんはベトナムに残っているのですが、お兄さんやおばさんがアメリカのシアトルに住んでいます。お父さんとはずっと会っていなかったけど、20年ほど前アメリカで再会できました。そのときは嬉しかったですよ。みんな泣いて。その5年後にお父さんは亡くなりました。お母さんは私がベトナムを出た後、一度も会うことができないまま亡くなってしまいました。

――浜松に来てからはどのような環境で暮らしていたのですか?

ミン:浜松に来てからはアパートで生活していましたが、その後に妻と一緒にカトリック三方原教会で暮らすようになりました。三方原教会はもともとカトリックの信者が所有する土地で、その人が管理していました。その人が亡くなった後、私が三方原教会に住んで管理するようになりました。現在は別の場所に住んでいますが、長い間、私が三方原教会に住んでいました。

エスニックコミュニティの拠点となったカトリック教会

――カトリック三方原教会が1978年に設立された当初、信者は日本人だけだったそうですね。後に愛光寮に暮らすベトナム難民との交流が生まれ、彼らが日曜日のミサに参加するようになったと。1980年代後半にはベトナム人の信者数は日本人と同規模に、1990年代後半には日本人を大きく上回るようになった。こうした動きのなかでカトリック三方原教会がベトナム難民の同胞組織の拠点になっていったのですか?

古橋:そうですね。静岡県ベトナム人協会ができたのは1986年です。私が難民支援をしているといろんな支援団体から助成金をもらうでしょ。だから最初は会計を明確にするために作ったの。「私の片腕になる人を」と思ってミンさんに白羽の矢を立てたんです。

――実際に静岡県ベトナム人協会ではどんな活動をしているのですか?

ミン:カトリック三方原教会を拠点に「静岡県ベトナム人協会」は主に3つの活動をしています。一つはベトナム難民に対する相談や世話、もう一つはベトナム人同士や日本人との交流事業、最後はベトナム人に対する教育や学習活動です。

私は1998年から市内の小中学校でベトナム人の子どもに指導協力も行っています。相談員として進学相談、生活上の指導、学校からの重要な通知の翻訳、面談の通訳などをしています。

――カトリックの教会を拠点にしているということであれば、信者向けの組織なのでしょうか?

古橋:静岡県ベトナム人協会の活動には信者じゃない方も関わっていますが、ミンさんをはじめカトリックの信者が多いんですね。三方原教会で日本人との関わりをしっかり作っている人たちは大勢います。以前は何かあると私の家に来てましたけど、広い場所を借りられるっていうこともあって三方原教会に集まるようになりましたね。

――個人としての難民ケースワークから徐々に組織的な対応に移っていったんですね。地域社会での共生に向けてはどのような工夫をされてきましたか?

古橋:積極的に地域の役を受ける、会合にも積極的に出て行くっていうことを勧めてきました。私以外の日本人に頼むことも勧めてきました。「私が教えることは簡単だけど、隣近所の方にも頼みなさい。あなたも隣の方が困った時には助けてね」って。こんなふうに草の根のように入っていったからね。大掛かりなことは何もやらないですよ。もう私も歳だからいつまでもできないしね。

悲喜こもごもの難民支援

――古橋さんが献身的な取り組みをするなかで、うまくいかないケースなんかもありましたか?

古橋:いっぱいありますよ(笑)。車をローンで買うときの保証人になって、そのままいなくなっちゃって私が150万円くらい負担したこともあります。だけど私自身はゴルフとかお金のかかる趣味はもってないから、大きな病気をしたと思って「まぁいいか」っていうふうに、うん。

――150万円は大きいですね。何だかんだ色々トラブルがあっても続けられた一番の理由は?

古橋:それはね、やっぱり彼らを愛していたからだね。どうしてベトナムの方たちが好きだったかっていうとね、日本人が忘れた心をいっぱい持っていたんですよ。1つのリンゴを8人兄弟が8つに分けて食べる。そういう心をいっぱい持っていて。すごいなぁと思いましたよね。

――実際に長年、ベトナム難民に関わられて特に大変だったことはなんですか?

古橋:在留資格の更新手続き、学校の入園・入学の手続き、就職。話せばもういっぱいですよ。学校の三者面談にまで行っていました。学校からも来てほしいって言われるし、本人や親も来てほしいって言うから。ずいぶん進路相談にも乗りました。大学に行きたいけどお金がない家の子どもには、奨学金制度が充実した看護系の大学を勧めてきました。だから看護師になった子はたくさんいますよ。

「困った時は何でもいいから、とにかく私の家を訪ねてくれるか電話をくれれば動くよ」って言ってきました。だから家庭のなかで色々なゴタゴタがあるとよく相談されました。私がベトナム人じゃないからこそ話しやすいっていうこともあって…。ベトナム人同士だと話がツーツーになるから。

――ケースワークで繋がったベトナム難民の方々とは継続的なつながりがあるのですか?

古橋:もちろんですよ。私が70才になったときはベトナムの人たちが350人くらい集まって古稀のお祝いをやってくれたの。私には何にも言わないで彼らが企画したサプライズだったんです。

――難民ケースワーカーを引き受けた時、こんなに忙しくなるとは分かっていたのですか?

古橋:いや、それは思ってもみなかったですよ。少し前に私が入院した時には100人以上がお見舞いにしてきてくれたんです。だから病院で看護師さんたちが「古橋さんって何者?」って話になって(笑)。いまだに永住権を取るための保証人になってほしいと依頼があるんです。だからまだ死ねないじゃん(笑)。そういう点では恵まれた相談員生活だったんじゃないかな、と思います。

取材後記

社会福祉学者の荻野剛史はベトナム難民の定住化には「重要な他者」としての日本人の存在が大きいと自著で指摘している。浜松でも聖隷福祉事業団の開拓的な実践、古橋さんの活動など、様々な「重要な他者」の存在が浮かび上がってきた。もちろん製造業の労働力不足もあったが、それ以上に困難を抱えた人々の生活を支えていこうとする姿勢が社会福祉の従事者のみならず行政職員、企業経営者、教会関係者にもあることがわかってきた。

一連のインタビューのなかでたびたび耳にしたのが「やらまいか」という方言だ。これは「やってみよう」というチャレンジ精神を表す遠州弁として浜松ではお馴染みのものである。今では浜松市が多文化共生の先進自治体であることは大前提になっている感があるが、その背景には古橋さんやミンさんのような「やらまいかスピリット」に溢れた人々の奮闘があったことは覚えておきたい。

だが同時に古橋さんやミンさんのように長きにわたりベトナム人の暮らしを無私の精神で支えてきたキーパーソンを美化するだけで十分ではない。今後は個人の資質に強く依存した取り組みから、持続可能な組織的取り組みへと移行することが求められるはずだ。

最近では留学生や技能実習生なども増え、一見同じベトナム人でもそれぞれが抱える生活課題は多様化している。そんな中で、カトリック三方原教会は違いを超えてベトナム人が集まる稀有な場所として機能している。また、この教会ではベトナム人をはじめとする多様な外国人が定期的に日本人と同じ時間を共有している。

日本人の多くが特定の宗教にコミットしていないため見過ごしがちだが、日本で暮らす多くの移民や難民にとって、教会や寺院などの宗教施設は信仰を実践する場にとどまらない多様な役割を果たしている。そこはエスニックコミュニティの結節点でありソーシャルワークが展開される場でもある。

カトリック三方原教会や静岡県ベトナム人協会の取材を通して、宗教施設を信者たちの「閉じた共同体」としてのみ捉えるのではなく、多様な人々の出会いを可能にする「開かれた共同体」としても捉え直していく、そうした視点の変更が今私たちの社会に求められているのではないか、そんな思いを強く持った。

私が浜松市に足を運ぶきっかけになったのは2008年秋のリーマンショックだった。当時はかなりの数の日系ブラジル人が失業し、家を失うようなケースも少なくなかった。生命を脅かすような危機に対して、行政は迅速な対応ができずにいた。

そんな中、私はブラジル人が多く通う規模の大きなカトリック教会が食糧支援や学校に通えなくなった外国人子弟への教育支援に尽力していることを知り、共同研究者の高橋典史と本格的なフィールドワークを開始することにした。そして、同じ浜松市内にベトナム人たちが集う小さな教会があることも教えてもらった。

初めてカトリック三方原教会に足を運んだのが2013年。そこで出会ったのがミンさんや古橋さんだった。彼らが歩んだ人生を何としても書き留めておきたい。そんな思いで取材を重ねてきた。移民が急増するようになった今、彼らの長年にわたる取り組みに学ぶものは少なくないはずだ。

注記
このインタビューは2019年6月15日に実施したものだが、2013年5月18日、2014年8月23日、2015年11月17日に東洋大学の高橋典史と共同で実施した調査内容も部分的に含んでいる。また、本記事に連なる記事(高橋典史執筆)が今後公開予定である。

参考文献
・愛光寮記念誌編集委員会編、1984、『愛光寮記念誌』日本赤十字社静岡県支部聖隷福祉事業団
・愛光寮写真集を作る会編、1984、『ベトナム難民援護施設<愛光寮>写真集 青い鳥のゆめ ベトナムから来た子供たち』静岡新聞社
・荻野剛史、2013、『「ベトナム難民」の「定住化」プロセス』明石書店

CREDIT
白波瀬達也|取材・執筆
田川基成|取材・写真
望月優大|取材・編集

TEXT BY TATSUYA SHIRAHASE

白波瀬達也
社会学者/桃山学院大学社会学部准教授

1979年生まれ。関西学院大学大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。社会福祉士。大阪市西成区で質的調査に基づく研究の傍ら、ソーシャルワーカーとして6年間勤務。関西学院大学社会学部准教授を経て2018年より現職。単著に『宗教の社会貢献を問い直す』(2015年、ナカニシヤ出版)、『貧困と地域』(2017年、中公新書)、共編著に『釜ヶ崎のススメ』(2011年、洛北出版)、『現代日本の宗教と多文化共生』(2018年)。