2020.10.29

迫害を逃れて海を渡った。長崎・五島、潜伏キリシタン移民の子孫が語り継ぐ差別、戦争、信仰の記憶

2020.10.29
田川基成

大小140あまりの島々が連なる長崎県の五島列島。ペトロ尾上勇(おのうえいさむ)さんはその北部に位置する中通島(なかどおりじま)で生まれ育った。キリスト教徒であり、一人の漁師として生きてきた。「ペトロ」は洗礼名だ。

尾上さんは江戸時代のキリシタン禁制下でも信仰を守った「潜伏キリシタン」を先祖にもつ。江戸後期の18世紀末、多くのキリシタンたちは当時の迫害を逃れて、九州の外海(そとめ)地方(現・長崎市の北西部に位置)を離れ、たくさんの小舟で海を渡った。五島の島々に新天地を求めたのだ。

離島への大規模な移住には政治的な背景もあった。未開の土地を開拓する人手を欲しがった五島藩が、逆に人口が増えすぎて困っていた九州本土の大村藩に協力を求めたと言われる。その結果、3000人もの移民が五島を目指したが、その多くが潜伏キリシタンだったのだ。

2018年に世界遺産となった潜伏キリシタン関連資産が、九州本土だけでなく五島の島々の集落などを含むのにはこうした歴史的背景がある。

1930年生まれで現在90歳の尾上さん。彼の先祖にあたるキリシタンの夫婦が中通島の北部に移住し、江袋(えぶくろ)という集落を切り拓いたのは200年ほど前のことだ。尾上さんは第1世代の移民から数えておそらく5世代目ほどにあたる。

その後江戸末期から明治の開国にかけて、キリスト教徒を含む諸外国からの人の流入が急増し、長崎では潜伏キリシタンとして生きてきた多くの人たちが信仰を表した。だが、それによってキリシタンへの迫害はむしろ激しさを増し、五島でも「五島崩れ」と呼ばれる苛烈なキリシタン迫害が行われた。

拷問と虐殺、そして略奪。江袋にもその被害は及んだ。尾上さんは若かりし日に江戸・明治時代生まれの犠牲者たちの姿や話を直接見聞きしている最後の世代だ。彼自身も、五島の各地でキリシタンとしての差別を経験してきたという。

私は長崎県の生まれで、尾上さんの先祖が元々住んでいた外海地方のすぐ隣にある松島という島の出身だ。まさに潜伏キリシタンたちがかつて移住したルートの途中に松島があり、海の向こうには五島列島が肉眼で見える位置関係にある。

長崎周辺の人々は、16世紀の宣教によって大部分がキリシタンになっていたが、江戸時代の弾圧を経てその多くが仏教徒に戻っている。結果として、現在は仏教徒が多数を占めるが、尾上さんが暮らす中通島や、外海地方など、潜伏キリシタンをルーツとするカトリックのコミュニティも数多く存在する。

島ごと、村ごと、入江ごとに宗教が異なり、仏教徒が多数を占める島で育った私にとっては、五島で暮らすキリスト教徒の人々は「近くて遠い存在」だった。
中央右下に九州本土の外海地方。多くの潜伏キリシタンなど江戸後期の人々は、外海から私が生まれた松島の目の前の海域を経由して西の五島列島へと移り住んだ。中通島北部の縦に細長い部分に江袋集落が拓かれた。

私が尾上さんを知ったきっかけは、長崎県大村市の修道女会でシスターをしている彼の娘さんとお話ししたことだった。彼女の紹介を受けて、私はフェリーで海を渡り、中通島の江袋集落に尾上さんを訪ねた。

尾上さんは色々なことを話してくださった。迫害を受けて海を渡った先祖のこと、学生時代に経験した戦争のこと、様々な隣国と海を接する五島での暮らしのこと、日本という国や社会への思い、異なる価値観や信仰を持った人たちが共に暮らすということ。

私はすぐに気づいた。尾上さんが話す言葉の響きは私が生まれた地方の言葉にとてもよく似ている。その懐かしいアクセントに、彼の先祖たちが必死に渡らざるを得なかった海のことを思った。

ペトロ尾上勇さん、90歳、1930年生まれ。

板の上にゴザを敷いて寝るような貧しさ

――まず江袋という土地のことを教えてください。

ここは全員がカトリックじゃけん。今26世帯くらいかな。江袋教会があって。ここの先祖は、五島に逃げてきた潜伏キリシタンやもん。

「与助とチエ」と言うて、その夫婦が船を漕いで五島に渡って来たと。外海にある神浦(こうのうら)から。山奥に来てさ、木を切って、耕して、開墾をして。

一番よか所(便利な平地や港など)に住んだ仏教徒は生活が豊かじゃったけんね。後から来たキリシタンは山のてっぺんにおって、芋ば作って貧乏生活しよったけん。

海沿いの急斜面にある江袋集落。
江袋教会。

――先祖が江袋に入ったのはいつ頃のことですか?

最初に大村藩の外海から渡った人が1797年っていう記録があるけん、その後くらいじゃないかな。うちの先祖も200年くらい前のことじゃろ。

その夫婦を「じいどん」と呼んで、私は祖父や親父から教えられてきた。江袋の元祖だから大事にしなさい、って。森の中に墓があってさ、私が子どもの頃から、正月とか盆にはその墓にお参りに行きよったね。

江袋の私たちが話す言葉のアクセントは、「じいどん」が渡ってきた海の向こうの外海と同じってよ。

――そう感じます。五島も島によって色々なアクセントがありますが、尾上さんの言葉は一番聞き取りやすくて、懐かしい響きがします。

私は先祖の出身地には行ったことがないんだけど。食べ物も「かんころ餅」(サツマイモで作る餅)とか向こうと同じってね。いつか神浦に行ってみたかな。

先祖が渡ってきた海。
江袋は中通島北部に伸びる細長い北魚目半島の斜面にある。半島は東西ともに急峻な地形。

――子ども時代はどんな風に過ごしましたか。

貧しかったなあ。家に畳はなかったと。板張りの上にゴザを敷いて寝よった。私は学校を卒業して就職するまで、敷布団の上に寝たことがなかったとよ。

学校に行くにしてもさ、教科書も新しいのを買えんで、1年生の時は2年生のお下がりをもろうて勉強した。服も着たきりで。買い物や病院にしても、隣の小値賀島まで1時間半、自分たちで舟を漕いで行く。そんな貧しい生活じゃったよ。

――五島は風が強いから、冬は寒かったんじゃないですか。

ここは目の前が海で吹きさらしやけん。寒かったばってん、仕方がなかもん。

不遇と迫害の記憶

――食べ物なんかはどうしてましたか。

麦を食べたり、サツマイモが主食。田んぼは少しあるとですけどね、主食にする分はないけん。米はお祝い日、クリスマスとか、正月に食べる分しかなかった。クリスマスは米と魚、野菜、里芋を煮たり、ふくれ饅頭を作ったりね。

――魚は十分に取れましたか。

はい。それだけはね。舟を持っとれば沖に釣りに行けたけん。先祖が、魚がよく獲れる湾の目の前に居着いてくれたとじゃろうさ。

しかしね、私が小さい時はサザエ、アワビとか、海藻、天草、ヒジキ、オゴノリなんかは、私たちは取ってはダメやったと。売れば高いとですよ。

――えっ、それはどういうことですか?

江袋は曽根(江袋の南にある仏教徒の集落)の地作権っていうことで、海も曽根の権利ってことになってた。だからここに居着いたもんは、陸で芋を作って食べるだけの生活じゃった。

だから、私ら磯に行くにしても隠れたような格好で。かっぱり(盗み)っていうか、自家用に採りよった。曽根の人も見張りはできんからね。

戦後は農地改革があったでしょ。そのあと漁業権も整理されたもんね。政府の方針で。江袋の海の権利は、(曽根の人々ではなく)江袋のもんが持ってよか、ということで。それから自由に採れるようになったと。

農地も戦前までは立串(江袋の東にある仏教徒の集落)の地主から借りて、開拓をさせてもらってて。そこで作った品物を穀納めしよった。

――特に戦前までは様々な権利の制約があったんですね。明治時代の迫害のことも聞いていますか。

それはいくらも聞いとる。江袋の迫害は郷責め(ごうぜめ、仏教徒の近隣住民による迫害・私刑)で、曽根の方々が責めに来たと。明治6年(1873年)が政府の禁教解除じゃったけれど、江袋の迫害はその後に起きたとじゃもんね。

私の祖父母はその時分、曽祖父に背負われて、山の中に逃げておったそうです。作物は取り上げられて、家は荒らされ、衣類も盗まれ、農機具も打ち壊されたようなことで。

昔の長崎市の本島市長、鉄砲で撃たれたでしょ(1990年1月に天皇の戦争責任に関する発言が原因で本島等長崎市長が右翼団体幹部に銃撃された殺人未遂事件)。

あの人は江袋出身のカトリックなんですよ。これがそのお祖父さんのお墓。江戸時代生まれの人で、私が若い頃はまだ生きとったです。忠助っていう、心のよかじいちゃんじゃったな。

このじいちゃんは、迫害の時に算木責め(拷問の一種)に遭って、脚に尖った木を挟んで座らされ、その上に石を乗せられたって。当たり前に歩けん人やったもんね。その拷問で骨を痛めたからって。

算木責め。

――五島で「キリシタン」への差別や偏見を感じなくなったのはいつ頃からでしょうか。

やっぱりこの20、30年のことじゃないかな。ここらへんは田舎もんで収入もないし、身なり、生活の態度とか、そういうことで昔は見下げられていたような。今は五島の教会も世界遺産にまでなっとるけどね。東京とかけっこう遠くから毎日のごと巡礼に来るもんね。

五島にも迫る戦争の影

――戦時中の五島はどんな感じだったのでしょう。

江袋の北の仲知集落に国民学校があって、その高等2年(現在の中学2年相当)を卒業してから、福江島の農業関係の学校に進学したとさ。先生から推薦されて。ちょうど終戦の年じゃった。

戦争に使うという竹槍を担いで、草履を履いて、船の出る港まで一日かけて山ば歩いて行った。そんな漫画にもならんことをさせられたよ。

中通島の南端から。一番奥に見えるのが五島列島で一番大きい福江島。

ところが福江島に着いても勉強どころの騒ぎじゃなく。ツルハシとモッコを担いで、戦闘機が降りられる飛行場造りをさせられたと。現場監督は朝鮮人じゃった。その下で働いたと。朝鮮人のグループも一緒にな。

春に進学して、夏にはもう終戦になって。戦後は一転、自分たちが造った空港の土を掘り返して、食料増産たい。開墾して、サツマイモを植えて作りよった。

――戦時中は天皇とカトリックの信仰との関係はどのような感じでしたか。

結局、強制的に神棚を祀らされてたでしょ。当時は一軒一軒、私の家にもあったとよ。私どん(私たち)がイエス・キリストを祀っているような、国民全部、天皇陛下じゃったろ。

カトリックといえども日本国民じゃけん。戦争にも行く。徴兵検査にも行く。「戦争反対」って叫んだらそれこそ打ち首じゃもん。憲兵がそこらへんに私服で来てさ。

ここの教会の鐘なんかも、物資不足で、鉄砲つくるか、船つくるか、知らんばってん、供出させられたと。

善とか悪とか。戦争が悪か、人殺しが悪か、っていうことを知りながらも、政府の方針には従わないといかんかった。

――キリスト教徒だということで違う扱いを受けることもありましたか。

(福江島の学校では)やっぱり劣等感っていうか、カトリックは人数が少なくて、福江島は仏教徒が多いけん。何人かカトリックはおったよ。でも公にすると、あんまりよか目で見られんから。先生たちも宗教のことは聞かんやったね。

「キリシタン」の「田舎者」とか、「汚れ」っていう風に見下げられ、言われたり。まあ、本当に貧乏じゃったけん、人並みの服装はしとらんやったろうでね。

結局、戦時中のことじゃけんな。天皇制で、天照大神をもう一つの神として。別の宗教ってことで、余計にね。「アーメン、ソーメン」ってからかわれたりとかな。

全員がカトリックである江袋では気づかなかった差別の存在に、様々な島から人が集まる福江島の学校で初めて気がついたという。

――戦場に行く予定もあったんですか。

江袋でも10数名、戦死しとるもんね。一つ上の先輩は3人長崎市の三菱の兵器工場に徴用されて。(そのうち)1人は原爆で死んで、2人はガラスが刺さって火傷を負って帰ってきたよ。私は一歳下でギリギリ行かんじゃった。

特攻に志願する試験も受けさせられてな。志願者が誰もおらんやったもんで、江袋の学生は全部受けされられたと。

今でも覚えとるけど、「全弾命中 黒煙が渦巻いた なんと痛快であろう」という文句にカナ(振り仮名)を付けろって問題で。今は「ぜんぶの弾」って分かるけど当時は読めんかった。哀れなもんじゃ。

江袋からは一人も通らんかった。同級生の、立串(仏教徒の集落)の人は、何人も合格したとな。

結局、軍国主義の思想を打ち込まれとったけん。戦争に負ければさ、涙までは出らんけど残念じゃった。やっぱ、勝った方が良かった。本当を言えば、反対やったかも知れんけど。子ども心にさ、そげな気持ちになりました。

しかし良心的に考えてさ、侵略していって、満州事変にしても支那事変(日中戦争)にしても。人の国に行って、踏みにじって、罪のない子どもや女性を無理して。道徳的に違うじゃんね。

朝鮮人にしてもさ。連れてきて、一緒に働いて、一番最初の危ない仕事をさせて。給料はやる。しかし原子爆弾に遭ってもその被爆手帳はやらん。あれは矛盾しとると思う。我が身と比べてみればさ。私らもいじめに遭って育ってきて。

外国人ってことで差別をする。あれは人間的にするべきじゃなかと思うばってん。そういうのを見聞きするごとに、日本人として、はがいか(悔しい、憤りの意)。

(編集部注:戦前は植民地の人々も帝国臣民とされ日本国籍もあったが、同時に内地と異なる外地の人々として様々な差別的扱いを受けた。その上で戦後には1952年の政府通達により日本国籍が選択の余地なく喪失させられた。政府の被爆者援護法には国籍条項こそないものの、申請が日本でしかできず、しかも出国すると打ち切られるといった状況が2000年代まで続くなど、在外被爆者を中心に実際の受給を阻む様々な壁が存在した。)

戦後は漁で生計を立てる

――戦後はどういう生活を送ったのでしょうか。

終戦して1年経って、福江島から江袋に帰ったと。そいで私は漁師になって巻き網漁船に乗ってね。手っ取り早か話がこっちで現金収入っていうと船乗りで。

私の父は、戦争前後は五島中を船で回って、樒(しきみ)っていう植物を山から買い集める仕事をしよった。それを中国行きの船に積んでね。あっちで葬儀なんかに使うそうで。けど戦時中の最後の船は途中で爆撃を受けて沈んでしもうたそう。そん時はお金を回収できんかったようで。

――どこの海で漁をしていましたか。

主な漁場は五島の西沖。アジ、サバ、イワシが主で。三陸沖とか、一番遠くでは台風で台湾の港に避難したこともあったな。あとは沖縄、奄美大島。鹿児島県の種子島、屋久島あたりは魚のようおるから、あそこも主な漁場じゃった。

当時、五島の沖に「李承晩ライン」っていうとがあって。韓国大統領の李承晩のな。日本の漁師がそこに行って、韓国の警備艇に追っかけられて、拿捕されて、船を取られたり。そういう時代があった。結局、向こうからしたら密漁たいな。

巻き網船に乗っていた頃。

私も巻き網船の漁夫長をしとる時に警備艇に追いかけられて逃げた。そしたらすぐ追いつかれて。その時分は、灯船(魚群を探して灯りで魚を集める船)をロープで引っ張って走りよった。そしたら遅かったい。もう止むをえず、ロープを外して自分たちだけで逃げて。灯船は拿捕されて、朝鮮さ連れて行かれた。

――灯船の人たちはどうなったんですか?

6、7人くらい乗っとったかな。心配やった。膝が震えるって言うけど、あん時は本当に震えたね。ガタガタ震えてさ。追いかけられよる時に。ロープを外した時には、仲間に申し訳なか気持ちじゃったけど。何ヶ月かして人間だけは無事帰ってきたよ。

――それから先もずっと漁師で?

巻き網船団の網船で責任者になった頃には、海に入って泳いで作業したりとか、けっこう辛くてな。40歳過ぎくらいじゃったろ。年を取れば無理がきかんようになるじゃん。

それで職業替えをして、講習に行って免許を取って。それで巻き網の運搬船の船長になった。そのほうが仕事も楽で。退職したとが55歳じゃった。

――船にはカトリックの人もいましたか。

網元がカトリックの船にも乗ったし、そん時は船員の半分くらいがカトリックやったね。五島の浜串の船団。「十字軍」って言うて、今もおるじゃろ。煙突に十字ば書いとるっちゃもん。港から沖に出る時は、マリア様の像があってな。

――浜串も江袋と同じく外海から渡ってきた潜伏キリシタンの集落ですよね。船に乗ってて、クリスマスなんかはどうするんですか。

クリスマスは、こっちは24日の真夜中に御ミサをする習わしで。漁労長がカトリックやったもんで、その時間には全船エンジンを止めて、暗い海の上でお祈りしよったと。年末は一番の稼ぎどきじゃけん、家に帰ってはこんとよ。他の宗教と同じで正月が休みたい。

――55歳で巻き網船団を離れた後は、お仕事はやめられたんですか?

いや、それからは江袋に帰って定置網の運搬船に乗ってね。80歳くらいまで乗ってたぞ。江袋漁業経営団というのがあって。集落のみんなで、江袋の前の湾に定置網を仕掛けとる。

取れた魚ば佐世保港まで運んでな。魚の量によって2、3日に一回。あんまり網の中に置いとくと鮮度の弱るけん。昔は木製のポンポン船で、片道3時間半くらいかかりよったよ。

生き抜くために、移動する人々

――当時は漁業以外の仕事もありましたか。

農業はあるけど土地が狭いけん、自分で食べるだけのあれで。貧しかけん、子どもを高校にもやりきらん。勉強をさせるには収入がなきゃいかん。ていう風で、親が出稼ぎに行ったりな。

私の少し下の世代からは「金の卵」と言うて、中学を卒業するとわざわざ江袋まで募集に来てな。都会にだいぶ連れて行かれたよ。

従兄弟は外海の池島炭鉱に行った。姉貴が池島炭鉱に行きよる人に嫁いだようで「お前も池島炭鉱に来いよ」ってことで呼び寄せとるたいな。従兄弟は若い時から何十年も炭鉱におったやろ。今はもう閉山しとるけど。

長崎県外海地方にある池島炭鉱(2001年閉山)。奥に見える陸地が、尾上さんの先祖の出身地である神浦。

――尾上さんのご兄弟も、どこか出稼ぎに行ったんですか。

私は8人兄弟の長男でここに残ったけど、あとはみんな女(6人が島を離れているとのこと)。5人は結婚して、あとの2人はシスターになってな。

結局、修道会から募集に来るじゃんね。それで自分で決めて、親の許しばもらってさ。妹はカリタス。姉は五島のお告げのマリア修道会に入った。だいたい中学生の頃から行っとるよ。

シスターになった妹さんの誓願式。

――昔は別の集落のカトリックの人同士で結婚してたんでしょうか。

そうそう。私の妻のフサも、山を越えた向こうにある赤浪江の出身たい。カトリック集落の。私の叔母2人は戦前に隣の野崎島に嫁いだとね。それぞれ別々の村に。封建時代ほどの見合いでもないけど、恋愛でもなか。親同士の関係かな。

――すぐ隣の野崎島は、1970年代には無人島になっていますよね。

叔母の1人は戦時中まで野崎島におったばってん、その後、名古屋に移住したとな。もう1人は叔父を頼って長崎市に。

野崎島。元は潜伏キリシタンの集落があったが、厳しい環境のため、1970年代にはほぼ無人の島になった。

その叔父は元は北海道の函館のトラピスト修道院に行っとって、高校、大学を卒業したくらいの教育を受けとるさ。戦前の時分、親が学校にやりきれんでな。そこで英語も覚えて、貴重がられて、長崎の三菱重工で技師にまでなった。叔父は三菱で責任者として、大きな戦艦を造りよったそうな。

それで、私の祖父母も親父の兄弟姉妹も、みんなその叔父を頼って長崎市に引っ越してしもうた。うちの親父が長男じゃったから、長男だけ江袋に残してな。

昔は子どもが多かったろう。分家して狭い土地を分けたところで食べられるほどなかったもん。出稼ぎに行けば、行ったところで家庭を持つような格好で。だから私は今も長崎市に従兄弟、親戚がたくさんおるとよ。

――五島からも出稼ぎなどでたくさんの人が外に出ていったんですね。今はコンビニや居酒屋、水産加工場、様々な職場で外国からの労働者も増えています。どう感じていますか。

ここから出て行った人たちとイメージは重なるよな。今、息子は私の跡を継いで巻き網船に乗っとると。10人くらいの船に2人インドネシア人がおるそうよ。よう働くとって。母国に金を送金する、そのために来とるとやけん。

給料も日本人と変わらんようにやるとって。そういう風に良心的にしてくれればよかさ。努力に応じてね。いじめじゃなくて。食事も一緒に食べる。休憩時間には会話もする。よそから来て働いてくれるけんっていうねぎらいをしてさ、気兼ねしとる外国人をさ。

受け継いだ信仰の意味

――江袋集落には、子どもは今どれくらいいるんですか。

それがさ、今はもうおらんと。去年一人、おととし一人と、最後の高校生が卒業して島から出て行ってしもうた。小中学校も今は廃校よ。一番多い時で中学生までで70人おったとけどね。私が部落長をしよったとき。1980年代くらいかな。今は大人を含めても50人足らずさ。

――尾上さんのお子さんたちはどうされているのでしょうか。

三女は大村でシスターになっとる。長男は跡取りで漁師たいね。あとの子どもは国内各地に。長女は大牟田(福岡)、次女は桑名(三重)、次男は神奈川におる。四女は山口県たい。孫はたった3人よ。

そいけん、子どもにもこの宗教、カトリックの宗教を忘れんようにっていうことでね。電話で孫とお祈りも何回かしたとよ。「ほんとにお前たちは故郷ば離れて行ってお祈りばしよるとかな」って。そしたら孫はちゃんと覚えとったけん。おー感心感心って(笑)。

――尾上さんにとってキリスト教の信仰にはどんな意味があるのでしょうか。

やっぱ宗教、カトリックっていうとは、自分の救い、平和のための祈りというか。神様を大事にする。教会も生活の拠り所ですよね。先祖は宗教を守るためにここまで逃れてきた。その末裔としてそれを大事にせんと先祖に対して申し訳なか。そういう気持ち。

そして来世の霊魂の救い。天国地獄のことがあるたいな。学校の勉強はなおざりにしてでも宗教の勉強はせんばいかん。そういうことで頑張って勉強してきたとです。先祖の宗教に学んで良心的に悪を避ける。善行に励むっていう風な心構えでね。

結局、信仰を守るっていうことは先祖を守ること。先祖を大事にするっていうことは宗教を大事にすること。私はそういう風に思う。船で危険な目に遭ったりすると宗教を思い出すもんな。やっぱ宗教は生活の基本たい。

――毎日どんな気持ちで祈っているのでしょうか?

神に依り頼むってことたいね。神に頼んで救ってもらう。病気でもした時に。災難に遭った時に。そげな感じでさ。

いつも喜んでいなさい。いつも祈りをしなさい。いつも感謝をしなさい。という。(新約聖書「テサロニケ信徒への手紙一」の言葉)

祈ることは、すべて、常に叶えられるという。そういう確信っていうか。聖書の言葉にあるとですが。祈ることは叶えてもらうっていう確信のもとに、祈り、疑うことじゃなくて。そういう風な気持ちです。

けてしまった教会

――江袋の教会はできてから何年になるのでしょうか。

それが昔ははっきり分からんやったと。私が子どもん頃、慶応生まれの祖父から「17歳の時に教会ができた」とは聞いとってね。私が自分なりに計算したら明治15年(1882年)だろうと。それを当時の神父様に伝えたら、記念をするかって。それで1982年に「百年祭」をしたとです。だから今は138年になるたいね。

――尾上さんが江袋教会のできた年を調べたんですね。

そう。昔からよう人の話を聞いて、江袋の歴史なんかに詳しかったから。今は私が江袋で一番年上ですよ。

今では昔のことを子どもや孫に語って聞かせるっていう傾向はもう薄れとるんじゃないかな。そこが残念とよ。昔のルーツをたどるのに、先祖がどこから来て、どういう生活をしてっていうことは、今の若いもんはあんまり知らんはずよ。

江袋教会。パリ外国宣教会のブレル神父の指導のもと建設された。

――江袋教会は2007年に漏電のため火事に遭ったそうですね。

その日は定置網に行ってて、15時過ぎに仕舞って。バイクで坂を登りよった。そしたら防災無線で「教会が火事です」って。

下の浜から煙は見えんやった。上まで登った時には教会からもうもう煙が上がりよった。もう手をつけきらん。昔はバケツリレーで火を消す訓練をさせられよったけど、教会にバケツがあるじゃなし。ただ見るだけじゃった。

教会の入り口に昔の江袋出身の神父様方の写真を飾っとるですよ。私が頼んで飾らせてもらった遺影じゃったけん、煙の上がる教会の中に飛び込んで持ち出してきたとたい。

火事から運び出した遺影。右手の島田喜蔵師は五島で初めて司祭になった人物。明治の江袋の迫害から逃れ、香港、マカオなどを経て司祭となった。
火災直後の江袋教会。

――全焼してしまった教会を再建したんですね。

本当に先祖に対して申し訳なく思って。食べるもんも十分にない時代に苦労を忍んで造った教会やろう。あまりのショックでお見舞いの電話にも応対できんようじゃった。

修復が決まって、中に入れるまでに3年かかったとよ。修復中にここの信者が二人亡くなってな。江袋教会から送れんやったことが、今でも残念よ。

再建された教会。
妻のフサさんと。再建された教会の上で。

立て直した時は、ショックのひどい分、打ち返しの喜びもすごかった。形がさ、焼ける前とそっくりそのままさ。中の柱なんかはそのままにして、樹脂を入れて補強したとね。町の主催で記念式典をして、それから全員は教会に入りきらんけん、江袋のもんだけでお祝いばしたさ。

先祖の墓を掘る

――教会の再建が先祖からの歴史を引き継ぐことにつながっていたんですね。

前にあんたに言うた「じいどん」の墓っていう伝承たいな。海を渡って来た、江袋の始祖になる夫婦の。

私は親父に、遺言のように言われとったもんで。「勇、お前が一人前になったら、じいちゃんばあちゃんは本当に江袋の元祖だから、森の中に迎えに行って、子孫の眠る共同墓地に一緒に眠ってもらうようにしろ」って。

私はずっとそれが頭の中にあったんですよ。実は昔、江袋にカトリックの共同墓地を造った時に、外海から渡って来た祖先は本当にカトリックの洗礼を授かっとるか授かってないか、確認できんということで。当時の神父様から許可が降りんかったそうです。

それで「じいどん」の夫婦の墓は湾の向こうの森の中に200年かいくらかずっとそのままにされとった。その話を昭和56年(1981年)ごろ、私が新しく赴任した神父さまに話したとですよ。佐藤神父という方じゃった。

そしたら「勇あんちゃん、そんなことがあるか。宗教を守るために外海から逃げるようにして来て。ここに第二の故郷を築いて。子孫が今に至るまでカトリックの信仰を守っとるということは、その与助、チエのじいちゃんばあちゃんは洗礼を受けとるに間違いはなか。そう思うとが正統じゃろうが」って。そう言ってくれて。

私どもも「そう思うとですけど」って伝えて。そしたら「はよ連れに行こうで」って。

その日は盆前の8月14日で、男ばっかり34人で森に入ったとよ。海岸から歩いて行って。私の娘もついて来た。しかし、墓を掘るとばってん、なかなか出てこんとたい。

何百年も前のことやけん、ただの伝説的な話じゃないか。そう言う者も出てきて。私はもう涙が出そうで、私が引率して行ったとじゃもん。じいちゃん、ばあちゃん、早く出てこいよっていう気持ちで掘った。

すぐ隣に、辛抱強く掘ってくれる青年がおってな。そしたら、これは遺骨じゃない?って。どら?って見てみたら、本当にそうじゃった。大人二人と、小さな子どもの骨じゃった。

私はもう嬉しうて泣いたよ。じいちゃん、ばあちゃん、今までごめんねって。そん時の感激は今も忘れられん。それで骨を抱いて帰って。その晩はみんなで寄って、お通夜たいね。その明けの日に、教会で御ミサをして送ったとですよ。

先祖の苦労はわかるよな。海を渡って、山奥に来てさ。木を切って、開墾して。今のように手袋も、地下足袋も、長靴もない時代にさ。つるはしで耕したろうでな。どうせ芋ば作ったろうでな。

今まで先祖を森の中に見捨てたようにしてたけど、ようやく孝行の一端をできたかなって。本当に嬉しかった。そいで、カトリック墓地に埋葬して、何年か経ってから、江袋の石を使って石碑ば建てたとよ。

90歳になるまで、いろいろあったとよ。

明治の時代にもカトリックの迫害はあった。あっても、明治天皇を憎むとか、政治家を憎む、大東亜戦争を始めた人を憎むじゃなくて。あるいは長崎の原子爆弾も、戦争がなかったら起きんやった。だけど今は、それを赦すというか、宗教の心にのっとって、それを憎むじゃなくてさ。

カトリックの信仰の元は、結局、愛の精神じゃもんね。そういう時代やったんじゃなあ、という感じです。私の人生の感想を聞かれればね。

取材後記

尾上勇さんが語ってくださったのは、五島の島々に確かに存在し、語り継がれてきた江戸後期から今へとつながる200年以上の歴史と記憶だった。

迫害、移民、開拓、家族、差別、戦争、出稼ぎ、地域、そして信仰。尾上さんの人生を形づくるあらゆる要素が江袋の小さな集落に刻み込まれ、そうした人間の営みの光と影の上に私たちの社会も存在する。そのことを改めて知った。

「宗教迫害」と聞くと、歴史の教科書の中やどこか遠い国の話だと思ってしまうかもしれない。しかし、たった150年ほど前、明治時代の初頭までは、日本でもキリスト教を理由にした凄惨な拷問や虐殺が行われていた。そして尾上さんによれば日常の中の差別も、つい2、30年前までは残っていたのだと。

禁教の時代に海を渡った尾上さんの先祖は、今でいう「難民」とも言える。彼らが離れざるを得なかった大村藩の藩主・大村純忠は、16世紀に洗礼を受け、日本初のキリシタン大名、ドン・バルトロメウとなった。5万人ともいわれる領民もキリスト教徒に改宗したが、その後は一転、大村藩は江戸時代を通してキリスト教を弾圧する側に回った。

現在その同じ大村に出入国在留管理庁の大村入国管理センターがあり、多くの難民認定申請者なども収容されている。迫害などを逃れて日本に助けを求めた結果、上限もなく何年も収容されている人々が現在の日本にいるのだ。あまりにも皮肉な歴史である。

南から北へと向かう対馬海流の上にある五島には、1970年代以降、インドシナ難民を乗せたボートが数多く漂着し、大村には「難民一時レセプションセンター」が設置された。今も五島各地の港に行くと、年配の漁師から、ボートピープルを船で助けた、海上で発見し救助を要請した、といった話を聞くことができる。難民の中にはベトナム戦争後の共産化を恐れたキリスト教徒も多かった。

そもそも1950年に大村に収容所が設置されたのは、尾上さんの語りでも触れられている在日の朝鮮人の収容・送還のためだった。国内と国外、日本人と外国人、我々と他者、そうした「日本」をめぐる様々な境界線は、この地で何度も揺れ動き、政治的な意思と力によって引き直されてきたのだ。

この海を通して、歴史は複雑に重なりあっている。辺境の暴力に直面した潜伏キリシタンたちは、目の前の海に新天地を求めた。そこに小さくも大切に受け継がれてきた人々の営みの上にこそ、尾上さんのかけがえのない一生がある。

もし私たちが前を向いて生きることができるとしたら、その大事な手がかりは、かつてそこに存在した死者、先人たちの意志、そして土地に刻まれた記憶を大切に知ることのうちにあるのかもしれない。尾上さんのお話を聞いて、そんなことを思った。

CREDIT
田川基成|取材・執筆・写真
望月優大|編集

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編集部より

ニッポン複雑紀行でいつも写真を撮ってくださっている写真家の田川基成さん。今回は尾上さんへのインタビューと島々の写真を通じて、長崎・五島における複雑な「移動」の歴史と今を伝えてくださいました。

記事のきっかけは彼の初写真集『見果てぬ海』が完成したこと。今日から写真展も2つ続けて開催されるそうです。今回の記事の舞台となった五島の島々の海、土地、人などを映した写真展、ぜひ足を運んでみてください。会場では実際の写真集を手に取ることもできます。

1)写真展「Vernacular Churches」10/29-11/10 水曜休/於 Alt_Medium/東京都新宿区下落合2-6-3 1F(高田馬場駅徒歩6分)

2)写真展「見果てぬ海11/17-11/30 日曜休/於 ニコンプラザ東京 THE GALLERY2/東京都新宿区西新宿1-6-1 新宿エルタワー28F(新宿駅徒歩3分)

3)写真集『見果てぬ海』(赤々舎)発売中/237×270mm、180ページ、上製本

ウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」の活動は毎回の記事を読んでくださる皆さま、そして難民支援協会への寄付によって支えられています。記事を広めてくださることも大きな励みになります。これからも関心をお寄せください。

TEXT BY MOTONARI TAGAWA

田川基成
写真家

長崎県西海市松島出身。1985年生まれ。北海道大学農学部森林科学科卒。幼少期、父が当時西海市にあった「日本赤十字ベトナム難民大瀬戸寮」に勤務していたため、ベトナム難民の人々と交流して育った。自身のルーツと暮らしてきた土地、旅の経験を通して、移民と文化、土地と記憶などをテーマに写真作品を撮る。千葉県に住むバングラデシュ移民家族の5年間を撮った「ジャシム一家」で第20回(2018年)三木淳賞受賞。故郷、長崎の海を舞台にした写真集『見果てぬ海』(赤々舎)を10月末に刊行。 @mototagawa