2020.07.30

日本と台湾の狭間で「無国籍」を生きた少年

世界のどの国からも国籍を認められない「無国籍」とされる人々がいる。

多くの人が強く意識せずに持っている「国籍」を、その人たちは持たない。遠い外国の話と思うかもしれないが、日本にも無国籍者は少なくないと言われる。三重県で生まれ育った弘明さんも、そのうちの一人だ。

彼は日本の国籍を持たず、それ以外の国籍も持たずに育った。幼い頃から乳児院に預けられ、18歳までは児童養護施設で暮らした。

日本で生まれ、日本で育ったにも関わらず、弘明さんはどのような経緯で無国籍になったのか。日本の制度の中で、なぜ彼の無国籍は放置されてきたのか。弘明さんはこれまで、どんな人生を過ごし、何を感じてきたのか。

弘明さん、最も近くで彼を支えた児童養護施設の方々、そして彼の国籍取得に奔走した弁護士から、話を聞くことができた。

弘明さん。22歳。

なぜ無国籍になってしまったのか

――弘明さんが無国籍になった経緯から教えていただけますか。

小田川弁護士 台湾出身の女性が日本で日本の男性と結婚しました。そのとき女性はすでに妊娠していたのですが、その男性との間の子どもではなかった。相手の方もそのことを知って結婚したようです。それから弘明さんが生まれました。

日本の制度では、結婚している父母の間に生まれた子どもは嫡出子になります。また、日本では、生まれたときに法律上の親のどちらかが日本国籍の場合は子どもも日本国籍になります。お母さんは日本の男性と日本で結婚して入籍したので、弘明さんは日本人との間の嫡出子として出生届が出されて日本国籍を取得し、お父さんの戸籍にも載りました。

ところが、お母さんの複雑な事情で生後1ヶ月ほどで子育てが難しくなり、弘明さんは乳児院に預けられたと聞いています。

5歳頃の弘明さん。児童養護施設の園庭で。

――そうだったんですね。

小田川弁護士 乳児院に入った後もお父さんと弘明さんは1年ほど交流があったそうですが、お父さんにも複雑な事情があり、お母さんとは離婚を、弘明さんとは親子関係の不存在を確認する司法手続きがとられました。そして、弘明さんが2歳のとき、その審判が確定したため、生まれた時にさかのぼって親子関係がなくなり、お父さんの戸籍から弘明さんの記載が消去されました。

日本国籍についてはというと、国籍を取得する基礎となった条件がなくなってしまったので、元々取得していなかったということになります。

――はじめから日本国籍はなかったという扱いになったわけですね。

小田川弁護士 はい。そして、在留資格すらない非正規滞在者になってしまいました。しかし、生まれたときは日本国籍でしたから、在留資格は取得しようがないのです。

小田川綾音弁護士。分厚いファイルに弘明さんに関する資料や経緯がまとまっている。小豆澤史絵弁護士、関聡介弁護士とともに弘明さんの支援にあたった。

――弘明さんに国籍がないということは、児童養護施設で受け入れたときからご存知だったのでしょうか?

繁田園長 はい。何とか無国籍を解消する方法を児相さん(児童相談所)とも協議しました。今も交流してくれている里親さんがいるんですが、弘明くんとの特別養子縁組を考えてもらうことはできないやろかと打診したこともあります。

ただ、自分の子どもも3人ある方だったので、色々考えてくださったんやけどやっぱり難しいということで、日本人の養子になって帰化して日本国籍を取るということはできませんでした。

繁田進太朗園長。施設職員として入職したての頃に弘明さんがやってきて、ずっと成長を見てきた。

繁田園長 (日本の)法務局に言っても、お母さんはおそらく台湾の方だろうからそっちの国の話でしょという感じでした。なんぼ伝えても「お母さんが台湾の人ならそっちに言って」と。

それで台湾の領事館にも連絡したんですが「それは違う、そっちでしょ」みたいな。お互いにお互いを、という感じでなかなか話が進まなかったですね。台湾は中国との兼ね合いもあって難しいところもある。

小田川弁護士 台湾も血統主義をとっていますから、法律上はお母さんと同じ台湾の国籍を得られるはずということになります。ただ実際には、お母さんが不在で、他に頼れる親族もいない状況では、台湾でも日本と同じで、国籍取得の手続きが複雑で困難になります。その中で弘明さんが国籍を取得する手続きを進めていくことはとても難しかったと思います。

――日本の国籍も台湾の国籍も取れないという状態に陥ってしまったんですね。

「僕、苗字が二個あるみたいなんやけど」

――弘明さん自身の記憶は何歳ごろからありますか?

弘明さん 2歳とか3歳ですかね。乳児院は記憶にないので、僕の中で生まれたらもう学園(児童養護施設)ですね。ずっとここだと思っていた。

――日本以外とのつながりを知ったのはいつごろですか?

弘明さん 小6の卒業証書の時ですかね。名前が「頭師(ずし)」と「姜(きょう)」と二つあって選べたんですよ。

繁田園長 卒業証書の字を間違えないために、学校が家庭に「これで合っていますか」と確認する手紙があるんです。そこに二つの苗字が書いてあった。弘明くんが「僕、苗字が二個あるみたいなんやけど、これ何?」って言ってきてな。それが最初に「姜」のいわれを話す一つのきっかけになった。

――子どもに対して重要な事実を伝えるうえで配慮されていることはありますか。

繁田園長 嘘はつかないこと。一箇所でもその場しのぎの嘘をついてしまうと、あとで結局「実は…」となってしまう。真実をそのときにその子が理解できる分かりやすい言葉で伝えることですね。

――弘明さんはそのときどんな気持ちでしたか。

弘明さん どんな気持ち…。別に何も思わないですね。今まで生きてきたし、今さらそんなん聞かされても、死ぬわけにもいかないし。別に何も気にせんと、あーそうなの、くらいですね。聞かされても、生きていくんで。それを聞いて人生変わるわけちゃうし、みたいなスタイルですね。

繁田園長 「ふーん、俺名前二つあるのかっこええな」って言っていました。内心はどうなんかなとこっちは色々考えていたけど、そういう心境だったんやな。

――頭師というのは、生まれたときに法律上のお父さんだった人の苗字ですか。

繁田園長 そうです。日本国籍があったときの名前がそれやったんです。

弘明さん 頭師さんっていうのは血が繋がっていないんです。なのに、頭師という名前で生きている。けど、その人の子どもではないことを裁判で証明しているくらいだから、よっぽど嫌だったんでしょうね。そりゃ自分の子じゃないのに養育費払うのは嫌でしょう。

――このときに名前だけでなく国籍や在留資格のことも伝えたということでしょうか。

繁田園長 このとき(小6の終わりに)伝えたことは、姜が正式に登録されている名前だということです。当時の記録を見ると「本人は両親が離婚したから名前が二つあると思っているようだ」とありますね。

繁田園長 国籍については中学のときでした。2012年から新しい在留管理制度になって、在留資格がないと住民票とか諸々出せなくなるということになった。それで在留資格を得るための手続きをしなければということで、「お母さんのルーツが…」という話をすることになった。

学園にいられるようにするために手続きが必要やからと言って、児童相談所にも関わってもらいながら色々手続きをしました。なんとか「在留特別許可」という形で在留資格は取れました。

――自分の国籍のことを知ったときはどう感じましたか。

弘明さん シンプルにだるいなって感じです。人よりだるいこと多くせなあかんし。大人がちゃんと手続きをしていれば、今こんなことになってないやろうし。施設の先生や弁護士さんに協力してもらっているからこうなっているけど、僕一人だったらやっていないですね。

日本の国籍が取れない

――中学生のときに在留資格のない状態は解消されたということですが、国籍についてはどうにもならなかったのでしょうか。

小田川弁護士 日本の国籍法では、「父も母も知れない」場合や父母が無国籍の場合には、日本で生まれた子どもは日本国籍とすることが定められています。無国籍者の発生を防止する目的でこの規定があるわけです。

また、帰化申請は通常は20歳にならないとできないのですが、日本で生まれ、生まれたときから無国籍の人は、日本に3年以上住所を持って過ごしていれば帰化申請ができます。

――ということは、生まれた時にさかのぼって無国籍となった弘明さんも、20歳を待たずに帰化申請ができたということでしょうか。

小田川弁護士 帰化は法務省民事局の管轄で、地方法務局で手続きをします。法務局の立場では、弘明さんのお母さんが台湾籍を持っているので、彼自身も台湾籍を持っているのではという疑問を持つと思います。

20歳より前に帰化申請をするには、法務局に対して出生時から台湾籍がなく無国籍であることを立証する必要があります。ですが、中国と台湾の間の問題も影響するため現実的には簡単なことではありません。

法務局は弘明さんを「無国籍」と見なさなかったにも関わらず、それと並行して入国管理局(現・出入国在留管理庁)は彼を「無国籍」として扱っており、在留カードの国籍欄には「無国籍」と書かれていた。同じ法務省内で弘明さんの国籍について二つの異なる判断が存在していたことになる。

――今度は逆に台湾籍がないことを証明して認めてもらう必要があるわけですね。難しい…。

繁田園長 帰化は乳児院からうちに来たときにも児相さんがチャレンジしてくれているし、在留特別許可を得た14歳のときにもトライをしたけれどうまく進みませんでした。結局、20歳になってからもう一度やるしかないということで、20歳になる少し前に小田川さんたちを紹介してもらって、今に至ります。

――小田川弁護士たちが加わってからはスムーズに進んだのでしょうか。

小田川弁護士 いえ、大変でした。法務局からはやはり「台湾のパスポートが取得できるかどうか、確認してきてください」と言われ、台湾の領事部に連絡しました。

領事部に事情を説明して確認を進めると、もしお母さんの台湾戸籍が取れれば、弘明さんは台湾のパスポートが作れるということが分かりました。そして、お母さんの戸籍は親子関係を示す書類などを台湾に郵送申請すれば取れる可能性があるということでした。

これが何を意味するかと言うと、もし弘明さんが日本国籍を取得したいのであれば、事前に台湾籍を取得したうえで、その証明書類を日本の当局に提出するというプラスアルファの現実的負担を負わなければならないということです。しかも、日本に帰化するためには制度上、元の国籍を離脱することが要請されるので、この得たばかりの台湾籍は結局失うことになります。

台湾では国籍があっても戸籍がないと様々な権利が制限される。戸籍を作るには20歳を超えると1年以上の居住が必要といった各種の要件がある。弘明さんの場合、国籍のみ認められパスポートは取得できた(しかし戸籍はないので様々な制限がある)。

――かかる労力や時間もそうですし、そもそも小田川さんのような専門家がいなければ正しく理解して乗り越えること自体が相当困難なプロセスですね。

小田川弁護士 領事部の方は丁寧に対応してくれましたが、必要書類の関係で一筋縄ではいきませんでした。問い合わせからお母さんの台湾戸籍を申請するのに約半年かかり、最終的に弘明さんの台湾旅券が手元に届くまでには約10ヶ月かかりました。

彼のような複雑な状況の場合、必要となる専門的な書類を認識し、関係国とも交渉しながら書類を取得していくプロセスは極めてハードルが高いものだと思います。専門知識のある弁護士などのサポートが大切です。

他方で、日本の帰化申請は裁量性の高い手続きであり、たとえ弁護士が窓口に立っても、地方法務局や担当者の方によって対応は千差万別です。国の立場に立てば、帰化申請とは国籍を与えてあげる手続きというスタンスなのかもしれませんが、弘明さんのような生い立ちの場合、日本国籍の取得を人権保障の問題として認識する必要もあると思います。

無国籍であること

――無国籍であることで不便に感じてきたことはありますか。

弘明さん 全部不便ですけどね。

運転の違反もやばいですよ。シートベルトひとつとってもそうだし、そういうことはマメに気をつけていますね。僕はまだないですけど、外国人が車で猛スピードを出したら問題になるじゃないですか。日本人がしても別にスピード違反で済みますけど。

喧嘩も日本人同士だったら喧嘩で終わっても、僕が喧嘩した場合は多分「外国人が暴行した」って取り上げられると思うので、そういう意識がすごく面倒くさいですね。 

就職するときも二人の保護者が要るんですよ。そういうのが面倒くさい。おらんし、みたいな。緊急連絡先も用意せなあかんし。

繁田園長 彼の場合は説明せなあかんことが沢山ありすぎて。無国籍ということだけではなくて、施設で大きくなった、親御さんがいてないということもそうだし…。

弘明さん いちいち説明するのが面倒くさいですね。家を貸してくれないこともありました。

保育士の岡田尚美さん。弘明さんは8歳から18歳まで、施設の本園とは別にある少人数型の地域小規模児童養護施設で暮らしていた。責任者である岡田さんは弘明さんの成長を最も近くで見守ってきた。

岡田さん (養護施設を出た後に)不動産屋さんでうまいこと話が進んでいたんですよ。それが「国籍がない」という話になった時点でもう連絡がない。

アルバイトのときの銀行の口座も作れなかった。忘れもしない。無国籍だということを分かってくれへんくて、「テロ目的で口座を作るのでは?」とまで言われて。彼は帰して私が対応しました。

無国籍ということを理解してもらうまでに時間がかかって、説明して、何回か電話でも話して、調べてもらってやっと分かったときには「すみませんでした」ということで作れましたけど、1週間かかりました。

17歳でテロって…。こっちも半分、喧嘩腰になってしまって。あとは市役所で住民票を取るのも国籍のことで一人だけ時間がかかってしまうことが多かった。

繁田園長 彼には言わんと、こっちで処理するようなことも多かったです。知ってしまうことで傷つけることもありますし。

岡田さん 聞かせたくないことってありますからね。

繁田園長 法務局の人に淡々と言われるのも温度差は感じましたね。帰化申請の相談にいったときは、「何が不便なんですか?高校も行けて免許もとれますよ?」なんて言われてしまう。でも、マンションひとつとっても住もうとしたところには住めない。

――無国籍だとパスポートも作れない、日本から出られないということですよね。

弘明さん 外国には行ったことないですね。一番遠くて沖縄。

この歳になってきたらやっぱり行きたいです。前の会社で社員旅行に行くことになって、旅行先を決めるアンケートがあったんですけど、選択肢が全部海外なんですよ。国内がなくて。だから「ここに決まりました」って言われても行けへんし。行きたくないから行かへんのではなくて、行けない。

支えた大人の思い

――児童養護施設では国籍や在留資格は問わずに受け入れているということでしょうか。

繁田園長 問わないです。外国籍の児童は今もいます。日本にいる子に関しては外国籍だろうが全て、親の要望があって必要ならば措置します。虐待で親が同意していない場合でも、措置が必要と認められたら国籍も性別も問わずに措置する。年齢は2歳までが乳児院で、2歳から18歳までが児童養護施設。今は里親に委託するという形も増えていますね。

親御さんが入国管理局(現・出入国在留管理庁)の施設に収容されて、子どもたちは収容するわけにはいかないから、施設に3人兄弟、2人兄弟といった形で急に何組か来て、親御さんの手続きが済んだら帰国していったという子たちもいました。

――弘明さんの状況と向き合ってこられた経験から国籍や在留資格に関する日本の制度についてどのように思われますか。

繁田園長 国は「いる子どもに関して、必要があれば措置して」って言うんやけども、そこの整理までは誰も足を踏み入れないんですよね。親がしたらいい、ぐらいで。そういったところを整理しないと、退所してからそのままずっと隠れて過ごしていくことになってしまうかも分からん。だったら、施設にいる間にちゃんと整理してあげることかなという思いはあります。

弘明くんについては、どこかで整理してあげないと、という思いが引き継がれてきたんだと思います。児相のその時々のワーカーさんが、ちゃんと申し送りをして引き継ぎ事項に線を引いてくれたんやと思います。

成人になってからの帰化申請に関しても、退所した児童にも関わらず児相さんも一緒になって動いてくれました。小田川さんたちを見つけてくれたのも児相のワーカーさんです。僕らだけでは絶対にできていない話です。

――様々な書類を準備したり、遠方の法務局に何度も行ったり、施設の皆さんも含めて相当に長く大変な作業だったわけですよね。それぞれどんな思いで取り組まれていましたか。

岡田さん やっぱり自由に動けるようになってほしいという思いがあります。国籍がないことでパスポート取れへんかったら、みんなが当たり前に行けてる海外旅行さえ行けへんし、ずっと日本に育ってきているのに国籍がないだけで…という思いがあって。国籍は取ってあげたいなと思って。

最初、自分だけでできるかなって、簡単なもんやと思っていて。帰化は20歳になればできるんやと。それが、何年かかるか分かりませんみたいな話になって、自分らだけでは無理やと思って話をさせてもらったら、弁護士さんにも協力していただいて本当に良かったなと思います。

繁田園長 小田川さんたちが来てくれて、引っ張ってくれる人がいて、これが最後のチャンスやと。過去もそのときはそのときで精一杯していると思うけれど、しっかり責任を取りたいという思いもあった。

この手続きをすることで、事実確認を一緒にしていくことで、弘明くんにとってはこの作業をすることが、今までの自分を受け入れることにつながるのかなと。知っていたことを極力伝えようと思ったら、やっぱり分かるときにしか言えへんし、そうすると、やっぱり施設を退所してからになることが多いのかな。上手にまとまらんけど、大変なことだと思いながらもするのは、そういう思いかな。

小田川弁護士 一番はやっぱり子どもには何の責任もないということですよね。彼の場合は日本国籍を失い、在留資格もすぐには取得できなかった。これは社会の一員として何とかしたい、一生懸命頑張る大人がいることを示したかったという思いです。

初めて弘明さんの満面の笑みを見たのは6回目に会ったときです。初めて会ってから約1年半が経っていました。それまではどことなく心の距離を感じていたんですが、その日は帰化申請を法務局に正式に受理してもらう日で、結婚式に着るようなスーツをビシッと着て、背筋も伸びて嬉しそうな表情を私にも見せてくれました。それがすごく嬉しかったです。

――弘明さんは施設の方々や弁護士さんたちに思っていることはありますか。

弘明さん 感謝ですね。動いてくれて。ほとんど僕は動いていないので。言われたことをやるだけであって。

住民票が要ります、じゃあとってきます。台湾のお金に換金して送金が必要です、払います、というくらいで。だから感謝しています。動いてくれていなければ(この手続きを)やっていないし、もっと違う生き方になっていたかもしれない。

もう台湾に行っていたかもしれんし。不法滞在がどんだけ悪いんか今でも分からんし、もう一切手続きをせずに、どうにかして、そのまま生きてるかも分からんし。生きよう思ったら生きている人もいると思うし。不法滞在してる人なんているでしょう絶対。そういう形で生きているかもしれない。

――もし、自分と似た境遇の人がいたら伝えたいことはありますか。

弘明さん 生きていればどうにかなる。とりあえず生きた方がいいと思います、僕は。

国とは何か

――すごく漠然とした質問になってしまうのですが、弘明さんにとって「国」って何ですか。

弘明さん ムズくないですか?(笑)

「運命」と思いますけどね、僕は。だってもっとひどい国もあるし、戦争している国もあるし、運命ですよね。そこで生まれたから、もうそう生きるしかないし。そう思いません?運やと思うんです。

――施設では近しい境遇の子どもたちで一緒に暮らしてきたと思います。

弘明さん 施設を出た者は強いと思います。弱音を吐いて脱落していく者も多いと思いますけど。今まで親と音信不通だった子が、16歳ぐらい、働ける年齢にまで育ったら親がいきなり金目当てで連絡してくるっていうような話も聞くので。どっちかですかね。潰れるか強くなるか、それはもう自分のメンタルでしょうね。

弘明さん 僕、足場でベトナム人と仕事していたんですけど、すごいですよ。レベルが違います。めっちゃ働くんです。なぜかと聞いたら、日本に来ている目的って出稼ぎなんですよ。日本に来るために選ばれる。めっちゃ仕事できるやつが来ているんです。その中でめっちゃ頑張るんです。でも日本人の新入社員より給料少ない。

――ベトナムからの技能実習生かもしれないですね。

弘明さん 2年間の契約で来ていましたね。月給15、6万で、そのうちの10万を(ベトナムの家族に)送っている。だからお弁当も自分でつくって持ってくるし、誰よりも早起きしていますよ。自分で働いて、自分で夜ご飯の買い物行って、自分でつくる。すごかったですね。

でも、僕より仕事できるのに僕より給料少ないんですよ。国の違いというだけで。それは可哀そうやったですね。でも、急に入ってきた僕が、ちょっと情けで何か奢りますって、そういうのも向こうはいらないですよね。プライドがあるから。だから一切しなかったです。腹立つっすやん、そんなの。僕より苦しんでいるやつなんかたくさんいますよ。

僕の周りは米を炊いたことのないやつもいます。すごいなって言われてもそれが普通やし、お前も俺と同じ身分やったらそうせなあかんし。二人とも一人になったとき、生きていけるのは俺やなって思います。自分が苦しくなったとき、施設の先生は多分助けてくれますけど、自分の子どものようには助けてあげられないですよ、人って。自分が終われば終わりという感じです。

取材後記

実は、このインタビューの中心部分は2019年の秋に実施している。当時はまだ弘明さんの日本国籍の取得が申請中で、その結果が不確かだったこともあり、公開を遅らせることを決めた。この記事が今(2020年夏)公開できているということは、彼が無事に日本国籍を取得し、「無国籍」ではなくなったということだ。

法務局に帰化申請が受理されてから約1年が経ったのち、弘明さんがついに日本国籍を取得できたという知らせが届いた。ほっとした。日本国籍を取得する前のタイミングで法務局に対して台湾籍を離脱したことの証書の提出が必要という段取りになっており、短くても彼がもう一度無国籍になる期間ができてしまうと聞いていたからだ。

それから、弘明さんとオンラインで久しぶりに話をした。日本国籍を取得したその日は、仕事帰りの遅い時間にわざわざ駆けつけてくれた小学校からの友人と一緒に、かなり奮発してお祝いをしたそうだ。彼にとって、特別な日だったことが伝わってきた。

「普通の人になれた、という感じかな。それだけ。(これまでは)一人だけ隅っこにいないとあかんやん。これからは喧嘩になっても大丈夫」と笑っていた。そして、新型コロナウイルスのことさえなければ、新しいパスポートを使って今すぐにでも台湾に行ってみたいと。

彼は自分自身ではどうにもできない境遇のことを「運命」だと言っていた。両親のこと、国籍のこと、確かに運命としか言いようがない人生のことを聞かせてもらった。

だが同時に、彼が20年に渡って振り回されてきた国籍や在留資格の問題は、人の手で作られ、運用される制度によって生じたものでもある。つまり、変えることのできない運命ではなく、制度のあり方次第でなくすことのできた苦労だったのではないか。

弘明さん自身の強さ、あきらめなかった施設の職員や弁護士たちとの出会い、そうした様々な要素が重なって、彼はなんとか現行の制度のまま、ただし途方もなく長い時間をかけて、国籍取得への道を切り拓くことができた。

しかし、多くの人が空気のように、それを持っていることすら意識しない国籍、にも関わらず基本的な自由や人権と緊密に結びついている国籍を得られるかどうかが、一人ひとりの運や知識、努力次第になってしまっている今の社会のあり方は変える必要があるはずだ。

弘明さんは「自分のような人のためになればと思って経験を話すことにした」と言っていた。この社会には今も、「無国籍」という現実を生きる人たちがいる。

CREDIT
野津美由紀|取材・執筆
田川基成|取材・写真
望月優大|取材・編集


弘明さんの国籍取得を支援した小田川綾音弁護士、小豆澤史絵弁護士、関聡介弁護士は、「無国籍研究会」で活動し、これまでも無国籍のケースを支援してきています。日本における無国籍者や無国籍の可能性のある当事者の事例を分析した『日本における無国籍者―類型論的調査―』(UNHCR駐日事務所 2017年)も出版されています。PDFはこちら

また、特に台湾と中国の国籍に関わる複雑な問題については、小田川弁護士と関弁護士も寄稿している『二重国籍と日本』(ちくま新書 2019年)で詳しく解説されています。あわせて、ご覧ください。

TEXT BY MIYUKI NOZU

野津美由紀
ニッポン複雑紀行編集部/難民支援協会

難民支援協会広報部所属のライター・ファンドレイザー。国際基督教大学で国際関係学を学ぶ傍ら、在学中からインターンとして難民支援協会の活動に関わる。卒業後、大手IT企業での研鑽ののち2013年から難民支援協会に参画。記事の執筆からイベント開催まで、移民・難民テーマに関わる情報発信を行っている。東京都出身。 Twitter @miyukiest