2023.07.11

生野で誇りを持って生きる。「生野に行くの?」とラップする区長。「共に生きる」を模索する人たち

2023.07.11
望月優大

ここは「いくのパーク」

外国籍住民が全体の2割を超え、その割合が日本で最も高い大阪市生野区にできた、多文化共生の拠点となる新しい複合施設だ。

100年近い歴史の末に閉校した大阪市立御幸森(みゆきもり)小学校の跡地をいかし、今年5月にグランドオープンした。

すぐ隣にある大阪コリアタウンには、年間200万人もの人々が訪れるのだという。

写真:田川基成(2022年10月撮影、以下同)

昨年10月末のプレオープンイベント「いくの多文化クロッシングフェス2022」のステージでは、筋原章博生野区長がオリジナルのラップを歌った。

筋原区長「今日ここに来ておられます、御幸森連合町会長の宮崎隆志さん。御年77ですけど、ラップの歌詞を書かれて」

「若い子に歌ってほしいねんということで、『区長、これラップの曲、誰かつけてくれへんかな?』と持ってきていただきました」

「それで、僕今、御幸森に住んでるんですけど、近所の『クレイジーキム』さんっていうバーに行ったら、ラッパーの若い子たちが集まってくれて、彼らがラップの曲をつけてくれました。じゃあ、やっちゃいますか」

ラップする筋原区長。作詞した宮崎さんが見守る

生野行くの?今日も行くの?
生野に行くの?

鶴橋、桃谷、御幸森。
コリアタウン、キムチに焼肉。

色々あって、おもろいで。
かっこつけんと、生野に来てや。

なんでもありが、生野やで。
生野に来てや。

***

無事に歌い終わった筋原区長。

「多文化共生ですんで、伝統文化も、若者のラップ文化も、盛り上げていきたいと思います。前おいで。昨日の夜にラップ指導受けてました」

左から→ラップ:筋原章博(生野区長) リリック:宮脇隆志(御幸森連合町会長) ラップ指導:vite+DJ MADJAG(鼎埜商店)

筋原区長「彼に服も選んでもらいました。生まれて初めての腰パンで」

vite(ヴァイト)「ラッパーと協力して、このステージで区長が、しかも俺らのブランドの服を着て歌ってくれて、最高やと思ってます」

「そこの玉出の近くで『鼎埜(かなや)商店』っていう古着屋とオリジナルのブランドやってます」

「マジで俺ら、ヒップホップと生野、全部ぶち上げようと思ってやってるんで。俺らこの地域にもっと協力していきたいと思ってるんで。よろしくお願いします」

1924年創立の御幸森小は2021年3月に閉校となった。コリアタウンに多くの人が訪れる一方、生野区では少子高齢化が進み、閉校前の生徒数は全学年で70数名だった。

これまで生野を訪れるたび、色々な方からお話を聞いてきた。

日本の植民地支配に由来する「オールドカマー」の集住地域であり、そこに織り重なるようにして中国やベトナムなどからの「ニューカマー」も増え続けるこの生野という土地。

とても重要な地域だ。楽しく、魅力的な場所でもある。同時に、その複雑さを理解することの難しさも、感じ続けていた。

生野区長。ラッパー。バーの店主。いくのパークを運営するNPOと企業の方たち。コリアタウンの理事長。私が今回「いくのパーク」をきっかけに新たに出会った人たちだ。

一人ひとりが、同じ地域に対して、違う場所から、違う人生から、思いを語ってくれた。かれらの言葉は、生野や大阪の歴史と今を知るきっかけ、日本の過去と未来を考える手がかりに、きっとなると思う。

それぞれの違いを無理にまとめようとはしなかった。とにかく一度、読んでみてほしい。まずは御幸森小で長く教員を務めた、足立須香さんとの対話から。

「生野に対する偏見」には日本人こそ頑張らなあかん

足立須香(あだち すが)さん。御幸森小学校の元教員で、現在は一般社団法人ひとことつむぐの代表として地域の居場所を運営する。

――足立さんはこの御幸森小で先生をされていたんですよね。

足立さん(以下同):ここには2006年からいて、10年やって退職しました。

その前はいくつかの学校で教員をしてて。そのあと大阪市教育委員会の直轄の部署で地域人権教育推進委員会というのがあって、事務局長を5年間やりました。生野区と東成区を担当して。

――退職されたのは廃校になる前ですね。

そうです。あの、ごめんね。私は「廃校」という言い方を好まなくて。

――ああ、ごめんなさい。

いいんです、いいんです。ただ「閉校」という言い方を私はしてます。なぜかというと、残ってるからね、こうやって校舎が。今日もそうだけれど、学校が果たしている地域の拠点っていうか、シンボルみたいなところは残ってるわけだから。

旧御幸森小では朝鮮半島にもルーツを持つ子どもが半数超を占めた。多文化共生の拠点となる複合施設「いくのパーク」として再出発し、様々なNPOやお店、保育所、スポーツのクラブなどが入居し始めている

でもまあ一般的には「統廃合」とか言うから、別に喧嘩を売るつもりはなくて。

――でも、意味はよくわかりました。「閉校」で行きましょう。

うん、その思いは伝わるかなあって。これまで大阪市でも学校統廃合やって、更地にして、売り飛ばして、マンションにして、って。でもここはそうじゃないの。だからこだわってます。

もう何十年も前から、大阪市内の中央区のほうとか環状線の内側なんかは、すごい大規模統廃合があったんですよ。4つを1つにとかっていうのを既にやってる。

ところが、そこにタワーマンションとかなんとか建てたら、便利やからファミリー層が来て、結局学校が足りなくなって、えらいことになってる。

環状線の内と外で、わずか15分の距離で、片っぽは1000人近く生徒がおるのに、もう片っぽは100人切るみたいなね。便利度で言うたら変われへんのにね。土地の値段も全然ちゃうわけですよ。

――大阪市の中心部に向かってどんどん人が出て行ってしまう。

そういう現象がどんどんひどくなってきた。「越境入学」ってわかりますか?

――はい、学区を越えて通学するという。

そうそう。被差別部落からとかね、横行してた時代があって。例えば私の子ども時代、1960年代ね、私はここが地元なんだけど、区がちょっと違くて。それで、生野区からめっちゃね、越境入学があったわけ。

このへんで住んでる子どもたちはね、朝鮮人の子も、日本人の子も、私もそうだけど、生野がなんか「みんなが出て行きたい街やねんな」「あんまりええとこに住んでないな」っていうのを子供心に刷り込まれる。それがずっと引っ掛かってて。

――いつの間にかそのイメージを。

そうそう。その後、1970年代ぐらいから、解放運動とか、差別と闘う色んな運動と共に、学校現場でも越境おかしいやないか、地域差別を減らしていこうという声が高まってきて。

それから、自分が教師になって、部落問題とか、障害とか、色んな人権のことを勉強させてもらいました。それで、やっぱり間違いやって。

自分の生まれ育ったところを「鶴橋やねん」「猪飼野(いかいの)やねん」「御幸森やねん」って語れないのはどうなん?って。

――地域と民族に対する差別や偏見が混ざり合っているような形でしょうか。

「生野に対する偏見」には、日本人こそ頑張らなあかん。地域の外から朝鮮人差別をする人には、共にこの地域に住んでる人間として「おかしい」と言わないとあかんわけやんか。でも「朝鮮人が多いからや」「お前らのせいや」っていうのが、今でもどこかにある。

そのことが私の、教師としてもそうやし、自分の人生の中の一つのテーマになったわけですよね。人権教育の研修で、在日朝鮮人差別について先生たちにわかってもらったり。民族学級を支援したり。

それでまあ、最後にちょうど御幸森に来たので、私にとってのラストということで「ユネスコスクール」の認定を取ったんです。「ユネスコ憲章」を読んでもらったらわかるんですけど、「平和のとりで」をつくるという願いを持って教育をやっていく。

日本人でも、朝鮮人でも、アイデンティティを持ってね。「どこ住んでんのん?」って言われても、ここを誇りに思えるように。

地域から学ぶ、地域を学ぶ

――いくのパークに「共生のとりで」を築くという言葉のルーツはここにもあったんですね。どんな取り組みをされてきたんですか。

主には「地域学習」です。地域から学ぶ、地域を学ぶという。みんな地域のこと知らんからね。

ここは朝鮮人の人もたくさん住んでるけど、なんでそうなったのか。友達のおじいちゃんやおばあちゃんがね。

面白いのが、ここは古代に渡来人がぎょうさん住んで、その頃から朝鮮半島との物語がある土地柄なんです。

――あ、本で読んだことがあります。確か百済の?

そうです。地域に色んな歴史があって。

*現在の生野区西部にはかつて「百済郡」という地名があったとされる。

仁徳天皇の頃に、日本で初めて架けられた橋の史跡があったりね。

――「つるのはし」ですね。あそこの、セブンイレブンの裏にある。

あそことかね。

だから、隣にいてる朝鮮人の友達のことも学ぶんやけど、日本の歴史も同時に学ぶんですよ。「ユネスコタイム」って言って、特別な授業というかね。

――さっき3階の教室を見てたらこんなカセットが置いてあって。

あ、これはね「民族学級」のやつ。まだ置いてあった?

朝鮮半島にルーツのある子どもが7割っちゅうのは、多分日本一やわね。でも、国籍はほとんど日本でね。もう、学年によったら全員っていうことも。

――御幸森小の民族学級やユネスコスクールは、閉校のあとどうなっているんですか。

合併した先の大池小学校に継承していて。なくなったわけじゃないから。今日も民族学級の子(ステージで)発表するって言うてたよ。

私かって、ここ残したかった。ユネスコスクール作ったときに申請文も全部書いて、授業もみんなやったから。御幸森には愛着があるし、だから今もここにこうやって、地域におるねんけど。

御幸森がなくなるっていうのは誰よりも嫌なこと。絶対嫌なことやねん。でも、私がなんぼ嫌や嫌や言うたって、抗えないじゃないですか。

子どもの数はどんどん減ってるし、運動会もちょろちょろって走ったら終わりやとか。修学旅行とか林間にしても、バスも借りられなくて何かと大変になるとかね。

じゃあどうやって地域の、この学校の機能を残すねん?ってなったときに、たまたまやねんけど、生野区の跡地構想があって。

更地にして学校がなくなるんじゃなくて、防災施設で、地域の拠点としてやるみたいな話で。

――その話が出てきた頃から、今「いくのパーク」の運営をされているNPO多文化ふらっとの森本宮仁子さんや宋悟さんたちと一緒に、足立さんが色々な話をしてきたと聞きました。

そうそう。妄想やってんけどね。でも段々なんか本気なって。宋さんにしても、森本さんにしても、ずっと地域でやってきて。私はユネスコスクールの理念を継承していってほしいし。

いくのパークを共同運営するNPO多文化ふらっと代表の森本宮仁子(もりもと くにこ)さん。すぐ近くの大阪聖和保育園で事務局長を務める保育士でもある

生野区は「みんなの学校」構想って言ったんですよ。そういうキラキラした話に乗っかったっていうか。ちょっとうさんくさいとは思ててんけど(笑)。

だからこそ逆に、自分が何か関わることで、参加していくんやったらええかなと。森本さんとかが「やっぱりここをやろう」「こんな風にやろう」って言ってくれはったから。

黙って見てたら今頃めっちゃ楽に老後を送ってるんですけど、でもね。

――いくのパークの動きにもコミットしていくことにしたんですね。

私はほんまに地域の皆さんにはお世話になってたから、小学校を退職したのを機にこっちに引っ越してきたの。自分で法人もしてるしね。

足立さんが運営する「まちの拠り所Yosuga」。この日は地域の学校の若い先生4人が足立さんを訪ねて話を聞いていた(写真:望月優大)

いよいよ地域住民になって、ある意味、限界集落って言ったら怒られるけど、地域の高齢者の方のお手伝いとかもしながら、やっていったらいいかなと思っとって。

今日、あとで区長が、うちの連合町会長が作ったラップをやるからね。「連合町会長がこんなん言うてますねんけど」とか区長に言ったら、なんか乗ってくれはって。近くにラッパーの子もおってね、ちゃんと曲になって。

もう聞いたってください。16時半からね。それ取材して。「生野に行くのん?」とかね、そんなラップ作ってね。今日は、それがお披露目だから。

壁を取り払わず、壁と壁のすきまで

筋原章博(すじはら あきひろ)さん。大阪市の大正区、港区で区長を務めたのち、2022年4月から大阪市生野区長に。ラップのときと違って、普段は「白いスーツ」がトレードマーク。

――大正区、港区を経て生野区長に。生野はいかがですか。

筋原区長(以下同):一言でいうと「濃い」です。人情がすごく深いし、優しいですね。人懐っこい。親しみやすい。普通に街を歩いてても、すごく話しかけてくれますね。色んな方が、区長ってご存知ないはずの方でも。

――生野の直面する課題、少子化や人口流出なども聞きました。どうお考えですか。

大正区もそうだったんですけれども、外へ流出するわけですよね。地元を愛しながらも、でも自分の人生の次のステージというときに外へ出ちゃうっていうパターンが多かった。生野区でも同じで。結果的に人口減少も止まらない。

ただ、日本全体で人口が減少していて、外国の方々と共生していかないと成り立っていかない。そういう意味では日本のモデルとなりうる街やとも思ってるんです。

――未来のイメージに近いと。

様々な方々が様々な文化や背景を持って暮らしておられるので、色々な課題や軋轢は出ます。僕は「異和共生」と言うてるんですけど。「多文化共生」じゃなくて。

ほかの自治体なんかでしたら「壁を取り払って一緒にやりましょう」と言うかもしれない。でも今までの経験から、ただ壁を取り払うと、強いほうが弱いほうを飲み込んでしまう。うまく共生できない。

ですので、その壁を大切にして、それを建てたまま、壁と壁を半歩ずつ超えて、壁と壁のすきまで、一緒にできることを少しずつ広げていきましょうと。それが「異和共生」の考え方なんです。

――違いを消さずに。

そうです。大事なのは、壁はそのもとにある歴史や文化が支えているので、それをリスペクトすること。尊重して、大切にする。それが大前提であり、僕の全ての基本理念です。

――大正区での経験を記した著書『異和共生のまちづくり』のタイトルにもなっていますね。

沖縄文化と大阪文化の激しいぶつかり合いと軋轢がありました。違う立場、違う考え方(*大正区には沖縄にルーツを持つ方が多く暮らす)。

だから、僕らは、行政は、壁と壁の間のコミュニケーターでないといけないと思ってるんです。

今日はこの校庭にぎゅっと集まってますけど、これから生野の街全体がこういう空間になっていくことの見える化だとも思っています。たくさんの国のお店、たくさんの国の文化。

――観光客にもっと来てほしいということもありますか。

そりゃ観光客の方が来ていただけたらありがたいですよ。でもそこに第一の優先順位はつけてないです。まあそれは、大正区のときに散々やりました。

10年前、沖縄復帰40周年のときに、大正区がNHKの朝ドラの舞台地になって大きなイベントもやったんです。でも人口減少と人口流出には何の効果もなかった。それが大ショックやって。

首長的な立場の人はまず大体そこに行くんですよ。観光集客行くんです。それがもう、全然あかんかったんで。やっぱり地域が、自分が、地域の人が住んでて面白いと思う街でないとね。

――お話聞かせていただきありがとうございました。

次は敬老大会に行くので。ちょっと行ってきます。

自分の街をめっちゃ自慢できるように

松本篤(まつもと あつし)さん。いくのパークを共同運営する株式会社RETOWNの代表取締役。2004年の創業以来、まちづくりや外食事業、飲食人大学などを展開してきた

――御幸森小跡地のプロジェクトに関わり始めたのはいつ頃でしたか?

松本さん(以下同):最初はコロナのちょっと前ぐらいですね。2019年の夏ぐらい。

そこから自分たちが公募に手をあげるかどうかを検討している間にコロナになって。僕自身、一回死にかけたんですよ。40日ぐらい入院してて。当然コロナで会社もダメージを受けました。

そんな中で、何回もこのあたりを歩いてみたんですよね。コロナでもコリアタウンは無茶苦茶賑わってました。鶴橋の駅前の商店街とかも見て、リアルな街やなって。

焼肉屋を自分でやったりとかもしてるので、キムチとかお肉を卸してくれる業者さんとかもこのへんにたくさんいて、親しみもあるというか。

――商売でのつながりも。

でもやっぱ、生野は夜もったいないなあと思って。

夜も盛り上げられたら、無茶苦茶ええ街になるんちゃうかなと思ったんですよね。それだけのポテンシャルもある。

やっぱり万博が来たりとか、カジノが来たりとかっていう中で、大手が主導権握ってやるプロジェクトがあるじゃないですか。当然そこには人がたくさん来ると思うんですよ。まあ、円安やし。

今までもそうやったんですけど、大阪ドームも、ユニバーサルも、海遊館も、できたときに周辺の街が空洞化してしまう。地価が下がってしまう。大型施設ができて、街の人も期待するんですけど、受け入れの準備をしなかったら素通りされて終わりなんですね。

生野では、多文化共生をテーマにした日本で一番グローバルな「夜市」を定着させたいなと思っていて。それができるんここしかないなと。

いくのパークで開催された「いくの万国夜市」では校庭に夜店が並び、サーカスも披露された

――いくのパークを共同運営するNPO多文化ふらっとの方たちとの関係はどう築かれたんですか。

元々僕らも、多文化ふらっとの宋悟さんらも、それぞれ単独でプロポーザルに出ようとしていて。

ただ、そのあとある人から紹介されて、お会いして、お互いに補い合える関係ができるんじゃないかと。一緒にやったほうが絶対うまくいくなと思えたので。

生野には60ヵ国もの人が住んでるわけじゃないですか。だからこそ「グローバルタウン」という打ち出しをしていきたいと、そんな話を宋さんにしたら、「僕らは多文化共生をテーマにしていて、まさにそれを目指してるんや」と。それにすごく感動して。

NPO多文化ふらっとの宋悟(そん お)さん。大阪コリアタウンの事務局長でもある

――いくのパークは行政から公的な資金が入るプロジェクトではないですよね。「経営として続けていくこと」と「地域や福祉的な価値を大切にしていくこと」と、バランスを取っていくのが難しいところもあるのかなと思いました。

いや、もうまさに。ただ僕らは「RETOWN」という社名の通り、ずっとそういう仕事をやってきています。

僕の中では、これからのまちづくりって、地元と共存共栄しないと長続きしないと思っていて。コロナがそれをすごい証明してくれたんですよね。

例えば道頓堀とか、黒門市場とか、観光客で賑わっていたじゃないですか。でも、コロナで一気にお客さんがいなくなって大打撃を受けたわけですよ。逆に、地域密着でやってるお店や街にはお客さんが来てくれていた。

僕らの「タグボート大正」は4つの柱で組み立てたんですけど、優先順位は、地元客、大阪の若者、大阪ドームのお客さん、インバウンドという順番で考えました。

*「タグボート大正」は大正区の尻無川沿いにある複合施設で、株式会社RETOWNが運営する。

――近いところから。

そうです。タグボート大正もコロナ禍で一番目(地元客)と二番目(大阪の若者)の方々に支えられてなんとかやれてたので。行政とか大手企業を見ていても、コロナでまちづくりの方向性ががらっと変わったと思います。

みんなインバウンド、インバウンド言うてたんですよ。でも、普段からちゃんと地元を大事にしてやってかなあかんよねって空気が一気に高まりました。僕らはずっとそのスタンスでやってきてて。そうしたほうが、息の長い、魅力的な街ができると。

ヨーロッパに行ったときに感じたんですけど、自分の街めっちゃ自慢するんですよ。「俺の街めっちゃええやろ」と。「この街のビールめっちゃうまいやろ」って言ってくる。それがめっちゃいいなと。駅ごとにクラフトビールの銘柄が変わったり。

いくのパークに入居するMARCA BREWING作「いくのIPA」の試飲とラベル選定の会にお邪魔した。唐辛子のパンチが効いている。7月22〜23日の「いくの万国夜市」でお披露目予定(写真:望月優大)

日本だと「うちの街なんか」ってへりくだるところもあるじゃないですか。「どうせひと来おへんし」とか、「何もないし」とか。でも、地元に愛着はあるので、地元の人の地元への期待値を上げることが大事で。

だから、今日のイベントもそうですけど、地元の人が「自分らの街がこれからおもろなりそうやな」とか、「ちょっと良うなりそうやな」って思えるきっかけを作るのが僕らの仕事やと思ってます。

ただ、こういう場で最初の火が起こっても、消えそうになるときもあると思うんです。うまくいくことばっかりじゃないんで。そのときにもう一回火をつけ直したりする、そういう場かなと思ってますね。

金相文さんの「最後の仕事」

榎井縁(えのい ゆかり)さん。いくのパークを共同運営するNPO法人IKUNO・多文化ふらっと代表理事(森本宮仁子さんと二人で代表を務める)。大阪大学大学院人間科学研究科特任教授 (写真:柴田大輔)

――榎井さんが「いくのパーク」に関わったきっかけを聞かせてください。

榎井さん(以下同):私がなんで「多文化ふらっと」の代表理事になったかって言ったら、金相文(きむ さんむん)さんの遺言なんです。何年か前に癌が発症して、何度も手術して。去年(2021年)亡くなってしまわれました。

――金相文さんはどんな方だったんですか。

相文さんは私が「とよなか国際交流協会」(大阪府豊中市)の事務局長から大阪大学に移ったときに後任をお願いした方です。元々は大阪市で小学校の先生だった方で。

専門的な話になってしまうのですが「公立学校の外国籍教員」というテーマがあって、そのタイトルの本も出しています(*明石書店、2021年刊)。

1991年までは、一部の地域を除いて外国籍の人は教員採用試験を受けられない、受けられても受からないという状態でした。

それが、1991年(*日韓外相覚書を受けた文科省通知)以降は、全国で「任用の期限を附さない常勤講師」としての採用は認める、けれども「教諭」としての採用はできないという形になっていきます。校長だったり、管理職にはなれません。

外国籍の教員は「教諭」にはなれない。なぜか。日本政府は「公務員に関する『当然の法理』」というのを持ち出してそう言っているわけです。

――「当然の法理」ですか。

ただし、大阪市など、先行していた一部の自治体では、過去に一定の時期だけ(*大阪市は1975年から82年まで)外国籍の教員を公立学校の「教諭」として採用していました。相文さんはそのうちの数少ない一人だったんですね。

金相文さんを偲ぶ会で配られたアルバムを宋悟さんに見せていただいた(写真:望月優大)

じゃあ、日本政府は1991年に相文さんたちから「教諭」を剥奪したかというとそれはしなかった。

それで、校長とか教頭になる管理職登用の試験がありますよね。あれに相文さんが「受けたい」と言って願書を出したら、校長が受け取ってポケットに入れて、辞めるまでそのままずっと持っている、みたいなことになったわけです。

――形式上は「教諭」で管理職試験を受ける資格もあるはずなのに、実際には試験を受けられない。

そうなんです。

相文さんは、大阪の民族学級を大事にしたいということで、民族講師たちを支えることもずっとしていました。待遇もすごく安いので。

私の後任で入っていただいた「とよなか国流(国際交流協会)」でも色々なルーツのある若い当事者たちを職員にしてくれたし、すごい大事に育ててくださって。

それで、引退した後の最後の望みというか最後の仕事が「生野区に『とよなか国流』みたいなところを作るんや」って。

本人は最後まで全うするつもりでいたと思うんですけれど、だんだんやっぱり体がしんどくなってきたときに、なぜかわからないんですけれども、私を呼び出して「代表理事やってくれ」って。

「多文化ふらっと」は元々生野の地元の人たちが頑張って作っていて、宋悟さんと私はすごく付き合いが長かったりもするんですけど、でも私がなぜ代表理事になったかって言ったら、本当に相文さんの遺言なんですね。

いくのパークとコリアタウンが一緒にやる

洪性翊(ほん そんいく)さん。一般社団法人大阪コリアタウン理事長。トックや冷麺などの食材を扱う徳山物産の代表取締役、会長を長く務めた。画家としての顔もあわせ持つ

――コリアタウンの人出はだいぶ戻ってきましたか?

洪さん(以下同):これ見たらわかりますわ。土日はいつもこんなやし。コリアタウンの活性化の一環として「夜市」をずーっと考えてたんですよ。

――コリアタウンでも「夜市」を。夜は静かですもんね。

やっぱり地域の方が商店の2階に住んでおられるのでね。

ただ、この界隈で昭和の後期かな、40年代、50年代とずっと「夜店」っていうのがあって。「一」のつく日は一条通、「二」のつく日は御幸通って、地域に根付いた祭りがあったわけですよ。金魚掬いとか、いろんな縁日の出店がね。

それを復活させるような形で「夜市」をやったら面白いんちゃうかなって。以前から住まれてる年配の方に昔の夜店の話をしたら、「二」のつく日がどれだけ楽しみだったかと。子供心にね。

――最近「大阪コリアタウン」として法人化されて、洪さんが理事長に。

元々この商店街自体が、御幸通東、中央、西と三つの商店街に分かれていて。1980年代、90年代と、活性化のためにイベントをしようとしても揉め合ってたわけですよね。それがようやく今回一つになって。

ただ、世界にはロスも上海もコリアタウンって色々ありますけれども、御幸通の500メーターの街をもってコリアタウンというのはおこがましいので、鶴橋からこの生野区、東成まで一角で踏まえてね。

――そういう広がりを持って構想されている。

はい。法人名も「生野コリアタウン」とかじゃなしに「大阪コリアタウン」として出していこうと。

――いくのパークの夜市ともつながりそうですね。

だからこことね、いくのパークがジョイントせんかったら、僕の構想も(いくのパークの)宋悟くんの構想も、多分まとまらないと思います。

両方が一緒になって回っていく必要がある。一緒にやることで、起爆剤となって、この通りから鶴橋までの街をつくることができるわけです。

このインタビュー後、今年の5月に2つの「夜市」が同時開催した。大阪コリアタウンは「夜市場(ヤシジャン)」。いくのパークは「いくの万国夜市」。いくの万国夜市は7月22日と23日にも開催予定。

我々のふるさとはこの街

――このあたりは御幸森小の卒業生が多いですか。

ええ。でも僕はこの朝鮮学校出身ですね(大阪朝鮮第四初級学校)。僕らが生まれたのはこの裏通りでね。向こうに「徳山商店」ってあるのがうちのおふくろの店で。

大阪朝鮮第四初級学校の生徒による朝鮮伝統舞踊。いくのパークの向かいにあるこの学校も、今年の3月に閉校となった

――ここで生まれ育った方は生野をどう見ていらっしゃると思いますか。

愛着はすごいある。ただ、少しお金儲けをして、成功すると、やっぱり天王寺区にみんな住みたがる。

天王寺区のすぐ横の小学校なんかは、昔やったら3クラス、4クラスしかなかったのが、今もう8クラス、9クラスになっているわけですよ。

――中心に近いほうへ。成功した人から抜けていくと。

それ多いです。元々ここは在日の食の市場で、戦前、特に戦後ですわね、日本全般に何十万ものオールドカマーの方がおられて、冠婚葬祭のときには全てのものをここに買いに来る。在日のメッカっていうぐらいの。

――朝鮮市場と呼ばれていた時代ですね。

元々の在日コリアンの方っていうのは、植民地支配でこっちに来られた。生活の糧を求めて、平野川の改修工事であったり、色んな土木工事、近鉄線の生駒の拡張であったり。

平野川は御幸通商店街の東端と接している

そこから2世、3世とやっていく中で、ものの考え方も変わってくる。

やっぱり地域に根づいて生きる。地域の人たちと共生を図るような、そういうまちづくりが必要なんじゃないかというのが湧き上がってきたのがこの20年前後ですよね。コリアタウンで街を活性化させるんだって。

――大体2000年代以降の話ですか。

はい。ただ、近所にいてる人っていうのは、表立って「なんやねん」とは言わないんですけど、クレームはみんな匿名であったり、電話であったり、そういう部分がある。

「いつからお前らの街になったんや」とか、「朝鮮人出ていけ」とか。そういう意見が多々あって。

それぐらいのところから、どう街の人たちから共鳴を得ながらコリアタウンを作っていくのか、というのはやはり大きなテーマですよね。

2021年に大阪コリアタウンで初めての公衆トイレが完成した。「行政で作ってくれないし、韓国の在外同胞財団とこの地域の人らでお金出し合って作ったんですよ」と洪さん

ヘイトスピーチで走り回ってる人らもいてますけど、表面化しない部分もありますよね。「いつからコリアの街になったんや」と。アレルギーな部分があって。

ただ、実際には、今コリアタウンの理事であったり、住まれている在日の方は、日本国籍を持っておられる方も多いですから。

――生野区は住民の20%強が外国籍ですが、ルーツという意味ではそこにとどまらないわけでよね。

違いますよね。

我々が掲げてるキャッチフレーズっていうのは「共生」です。「共に生きる」って。

我々がここに生きて、ここに根づいて。ここに住んでおられた日本の方と同じように、私もここで生まれた。

私は3世ですし、息子なりは4世、5世になる。我々の「ふるさと」っていうのはここだしね、この街だから。ここは我々の街なんだと。自分の愛する街をつくる。活性化していく。

自分の街がね、「あんな柄の悪いところに住んでるのか」と言われるよりも「あんなええとこに住んでるのか」とか「すごい面白い街やんか、また行きたい」とか、そんな街になるのを望むのが当たり前じゃないですか。

――どんどん良くしていこうと。

それは全く同じだと。だから共にこの街を作っていきましょうと。

そして、先ほどの20%の外国の国籍を持たれる方、中国やベトナム、ここらの方がどんどん増えている。だから、それも踏まえた形で、我々が本当に「共に生きる」、そういう魅力のあるまちづくりをしなけりゃダメなんだろうと。

コリアの方も一緒ですわ。生活の糧ギリギリな部分で半島から渡ってこられた我々の先祖。あるいは強制労働、徴兵や徴用で送られた方もいらっしゃる。

でもこの21世紀には、韓国の外国渡航の緩和とともに、ニューカマーの方が仕事やビジネスチャンスを求めて来られる方が多いわけです。中国の朝鮮族の方もいる。

コリアタウンの中でも、今すごい元気のあるお店っていうのは、ニューカマーの方が多いです。特に若い世代ですけど、必死じゃないですか。新しい理事にはニューカマーの方にも入ってもらっていて。

――コリアタウンの中でも違いがあるわけですね。

オールドカマーの在日の方っていうのは、やっぱり2世、3世とここに住んでる中で、日本的なルールで物事を考えるし、価値観も日本的です。

だから、韓国のニューカマーの方と、ゴミでも、そういうことで、やっぱり揉めるよな。(ニューカマーが多い)新宿の大久保であったら、ニューカマーの方と地域の方が揉めるようなところで。

商店街を運営している理事会とかはオールドカマーの方が多いので、愚痴ばっかりですね(笑)。

でも、それで排他したり、排除したら、昔我々がこの地域で受けたことと一緒じゃないかと。ベトナムや中国人の方を排他するのも同じじゃないかと。

歴史の証を刻み込む

――コリアタウンのお店にはベトナムの方だったりも結構いらっしゃるんですか。

働いてる方は多いですよ。うちのおふくろのところでも、今はベトナムの方が二人かな。住まれてる方もむちゃくちゃ多いです。

――街の中で歴史が重なってきていますね。

コリアタウンの歴史、ヒストリーを大事にして。それと生活、ライフ、ここまで踏まえてまちづくりをちゃんとしないと。

私はここで生まれて、育って、多分ここで死んでいくだろうと思いますけれども、そういう部分を証として残していく。だから、今はコリアタウンの「歴史資料館」を作っていて。

――とてもいいですね。

4年前に大きな病気したんです。それまでもう「コリアタウンどうでもええや」と。散々苦労しましたから。揉めて、揉めてね。それが病気になって、もう先長くもないかもわからない。

それで死ぬ前にやっぱりやらなあかんと。コリアタウンの、商店街の歴史を整理しようと。

うちの親父が亡くなったときに、霊柩車が斎場に行くにあたって、この商店街ずーっと、黙礼していただいて。そういうのも頭の中に残ってたんで。

――歴史資料館はどちらに?

歩いてすぐなんで、そこ行って話しましょうか。

ここなんですけど。

写真:望月優大

――立地がすごくいいですね。

コリアタウンの要の部分ですよね。

――これは洪さんが描いた絵ですか?

ええ、私の昔の。うちの母方のおじいさんです。

済州島のことを考えながら、行くに行けなくて、結局1回も行けなくて亡くなりました。

結構長生きされて。96ぐらいかな。

ここで魚屋を。いつもこういう格好で、チャリをね。

――そうでしたか。

これがさっき言ったキャッチフレーズの「共生」で。

この「共生の碑」の後ろに金時鐘(きむ しじょん)先生が書いてくれた詩文があるんです。

詩の内容を読んで。生野、猪飼野の歴史をずーっと。僕らここで生まれて育った人間には、これはほんま歴史そのままですよ。

写真撮って、あとでゆっくり読んでください。

周りはみながみな
つっけんどんなチョウセンジン。
そのただ中で店を張り
共に耐えて暮らしを分かち
いよいよコリアタウンの日本人とはなった
いとしい「隣の従兄弟」たち。
やはり流れは広がる海に至るものだ。
日本の果てのコリアンの町に
列をなして訪れる日本の若者たちがいる。
小さい流れも合わさっていけば本流さ。
文化を持ち寄る人人の道が
今に大きく拓かれてくる。

***

このインタビューのあと、洪さんが「証」として残そうとした「大阪コリアタウン歴史資料館」は、今年の4月29日に無事オープンを迎えた。

高正子館長によると最初の一ヶ月の来館者数は1600名超。予想以上ですか?と聞くと「そうですね、予想がつかなかったけど」と笑顔でおっしゃっていた(写真:望月優大)

取材後記

今回の取材を通じて、二つの大きなテーマが分かち難く絡み合っているような感覚をずっと持っていた。

一つは、地元である生野への「愛着」「誇り」。もう一つは異なるルーツや背景を持つ人々が「共に生きる(共生)」ということ。

いくのパークに関わる方たちは、この二つの主題が生野という場所にとっていかに大切か、それぞれの仕方で、それぞれの目線から、言葉を紡いでくださったような気がする。

では、なぜこの二つなのか。どう絡み合うのか。

補助線として、生野区による「区民アンケート」を見てみたい。多文化ふらっとの宋悟さんが教えてくれた調査だ。

外国籍を含む18歳以上の住民が対象で、自分が住む生野の「魅力」について聞いた項目もある。以下は2020年度の問いと回答。

Q. あなたは、様々な方々が、生野のまちを訪れ、住みたいと感じられるような魅力あるまちだと感じますか。

A. そうである(9.4%) どちらかといえばそうである(36.9%) どちらかといえばそうでない(40.8%) そうでない(12.9%)

プラスよりマイナス寄りの回答がやや多い。

大阪コリアタウン歴史資料館の展示より(写真:望月優大)

調査ではさらに、先の質問でプラス寄り、マイナス寄りに答えた理由を深掘りして自由記述で聞き、その回答を類似の趣旨ごとにまとめて集計している。

その結果を見ると、プラス・マイナスの両方で「外国人」に関わる理由が上位に入っていた。

プラス寄りの上位3つは「住みやすい・生活しやすい」「外国人とうまく共存できている」「買物が便利・物価が安い」。

それに対して、マイナス寄りは「イメージが悪い」「治安が悪い」「外国人が多いので不安」と続く。

ここからは、外国籍住民の多さやルーツの多様性を街の魅力と捉える人もいれば、その逆向きに捉える人もいる、という生野の現状がぼんやりと見えてくる。

つまり、生野における「共生」、それは一方では客観的な「事実」であり、他方では主観的な「価値」の問題としてもある。そして、その価値をプラスに見る人もいれば、マイナスに見る人もいる。

そうした前提の中で、「いくのパーク」がどんな試みとしてあるかと言えば、生野における「共生」という事実を、「共に生きる」というプラスの価値に、この街を好きな理由に、愛着や誇りの源泉に、変えることだろう。

そう考える人を増やすことかもしれない。共に生きるために。

夜市を子どもが走り回るとき、ステージの歌が心に響くとき、図書室で親子が絵本を開くとき、屋上のレストランでBBQをしながら、そんな変化がこの場所で起きていくのだろうか。起きてほしいと思う。

そのチャレンジはまだ始まったばかりだ。生野や御幸森のたどった歴史と経験に、深く連なりながら。

取材後記の後記

先日、生野を再訪して、筋原区長のラップに関わった人たちにも会いに行った。

区長のラップ指導や服のコーディネートを担当したのが、ラッパーのvite(ヴァイト)さん。冒頭のステージで「ヒップホップと生野、全部ぶち上げようと思ってやってる」と言っていた彼だ。

普段は古着やレコードを扱う「鼎埜(かなや)商店」に立ちつつ、「SYJ record」というクルーの一員としてライブや楽曲制作にも励む。

viteさん。22歳。東大阪市出身。中学生の頃ヒップホップに出会い、上本町や京橋でのサイファーを通じてどっぷりハマっていった(写真:望月優大)

viteさん(以下同):俺、コロナ直撃のときに大学一回生になったんすよ。もう言うたら、全然学校もなかったし、全然違うなあ、見つからんなあと。そこで色々考えれたんで、音楽しかないなって。

――2年前に店ができて、こっちの生野にも深く関わるようになってどうですか。

いや、めっちゃおもろいっすよ。住みやすいっす。

なんやろうなあ。色んな国の人おるんで、みんな気ぃ楽すかね。日本の人も、気ぃ使う人同士を一本の道にいっぱい歩かせたら、みんな人の目気にするじゃないですか。知らんすけど(笑)。

ベトナムの人々も多く住む生野区の今里(写真:望月優大)

ここ来るお客さんも、今は遠くからも来るすけど、最初の頃はこのへんの子らなんで、在日の子とか多かったっす。人種偏見とか、そんなんし出したら終わりじゃないですか。

みんな、気ぃ楽に生きてると思います。仲もいいんで。挨拶とかも、俺もちゃんとしてるし。

――地域の人たちと。

はい。住みやすいっすね。俺もまだ生野の2年生目ぐらいなんで。まだそんな、言葉でうまいこと表現できないっす。

――生野は好きですか。

好きっすね。

「クレイジーキム5号店」のキムさん(写真:望月優大)

筋原区長と最初に出会い、区長をviteさんやDJ THさん(トラックを制作)につないだ「クレイジーキム5号店」の店主キムさんにも会いに行った。おすすめのいちごシェークを注文する。同い年だと知って、話が弾んだ。

キムさんの祖父母や両親は生野出身で、自身も中学時代に生野で暮らした。その後15歳で東京の相撲部屋に入り、関西に戻ってきたのが30代になった頃。生野に店を開けてからもうすぐ5年になる。

キムさんは在日4世で、済州島にルーツを持つ家族の「家業」は、ライダースなど皮革製品の職人だという。「おじいちゃんが裁断して、おばあちゃんが縫って、みたいな感じやったっすね」。生野にある実家の1階に工場(こうば)があり、家族は2階で暮らす。

――区長のラップに協力しようと思ったのはどうしてだったんですか。

キムさん(以下同):なんも考えてないですよ。みんな楽しくやんねやったら、それでいいっすやんみたいな。

区長と呼ばれる人でも、ストリートの文化わかって、見た目で判断せえへん人やし。文化に触れていってもらったらいいんじゃないすか、みたいな。

――これをきっかけにヒップホップに。

その裾野を広げる活動をちょっとはしたっていうか。ただ、人に伝道したみたいな。「ILL伝道者」っすね。

――「ILL伝道者」だったんすね(笑)。実際、あの場でもかなり伝道されてましたね。

伝道者っす。そんな感じっすね。

「ILL伝道者」はBUDDHA BRANDの曲名(写真:望月優大)

――生野はいいとこですか?

人によるんちゃうすか。まあハマる人もいれば。

――どんな人がハマるイメージですかね。

ハマる人すか。低所得者すかね。安く飲めて、うまい飯多いし。全然その、低所得が悪いとかいいとかもないですし。プライドある低所得者って感じすかね。プライドっていうか、誇りを持ってるみたいな。

――それは、自分に?

自分にとか、仕事にとか。まあ、親父も低所得者すけど、誇り持って仕事してますし。別に生野区から出ようとも思ってないですし。そこの家出てどっか行くとか、そういう気持ちにも多分なってないと思うんすよね。

人生諦めてる人は、僕が知ってるうちで、あんまりいないっすね。厳しくても、頑張ってるっすね。それぞれ楽しんでいったらいいっすね。色んなことして。

例えば区長がラップ歌って、みんなが「ああ良かったな」とか思う気持ちがあるじゃないですか。あれは100万払っても、その気持ちは味わえないでしょ、お金持ちが。

なんて言ったらいいんすかね、わかんないすけど、プライスレスな街ちゃうすかね。ノリで言うたら。どっちか言うたら、そうっすね。

去年5月の雨の日、店で余っていた傘を道行く人に配っていたとき筋原区長に出会った。「白スーツで、結構白っすね、みたいな話をして、そこから」(写真:望月優大)

***

いちごシェークのお代を払い、「次はご飯で来ますね」と言って、キムさんのお店を出た。コリアタウンを通り抜けて、鶴橋駅まで歩く。生野に行きたい理由が、またひとつ増えた。(後編に続く)

CREDIT望月優大(取材・執筆)、田川基成(取材・写真)

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TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

1985年生まれ。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。著書『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)。代表を務める株式会社コモンセンスでは非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21