2020.12.29

釜ヶ崎の労働者は外国人も非合法も同一賃金や。破る業者は許さん(吉岡基さん)

2020.12.29
望月優大

午前5時。大阪、釜ヶ崎。

日本最大の「寄せ場」があるこの街では、今も陽が登る前から労働者と手配師の間で仕事の交渉が行われている。昨日も、今日も、明日も。多くの人々がまだ寝ているうちに、日雇い労働者たちは行動を開始する。今日の賃金を稼ぎ、今日の生活を続けていくために。

(寄せ場:日雇い労働者の「寄り場」を中心とする居住まで含んだ生活拠点地域/寄り場:求人・求職活動の実際の拠点)

手配師が乗るバンが集まり、労働者たちと交渉を始める。釜ヶ崎は大阪市西成区の北端にある

「はい車通りまーす!」

労働者を集める求人車両が「寄り場」に入ってくるたび、蛍光色の上着に身を包んだ吉岡基さんが大きな声をあげる。彼が声をあげると、同じ安全誘導作業の仕事をしている労働者たちも、彼に続いてやまびこのように繰り返す。

「車通りまーす」
「車行きまーす」
「バックで入りまーす」

釜ヶ崎の寄せ場を「過去の歴史」と見る方もいるかもしれない。だが、規模こそ大きく縮小したとはいえ、今も寄せ場としての釜ヶ崎は生きており、少なくない労働者が一日一日の賃金を得るための大切な回路として機能を続けている。

吉岡基さん。早朝の釜ヶ崎で求人車両の交通整理をしている

釜ヶ崎には仕事を求めて日本中から労働者が集まる。いや日本国内に留まらず、海外から釜ヶ崎を目指す人々も数多くいた。吉岡さん自身は北海道の生まれだが、1980年代から釜ヶ崎で日雇い労働者となり、様々な職種で経験と技術を身につけながら、主に鉄筋工の日雇い労働者として数多くの現場で働いてきた。

牧師だった父のもとに生まれた彼には、一人のキリスト者として「釜ヶ崎キリスト教協友会(協友会)」の活動に長く関わってきた一面もある(現在は共同代表)。協友会は1970年に結成。キリスト教とのつながりを基盤に持つ様々な団体で構成され、釜ヶ崎で生きる労働者や家族、子どもたちを支援するためのネットワークだ。

かつてこの街が最盛期の一つを迎えたバブル景気のころ、数多くの外国人労働者が日本人の労働者と共に釜ヶ崎を通じて日雇いの現場に入っていった。当時はまだ日系人の受け入れ拡大も技能実習制度の創設もなされていない。そんな中で、人手不足を埋め合わせるために労働者として広く活用されたのが「就労資格のない外国人」だった。

政府の統計でも、在留資格の期限が過ぎた「オーバーステイ」の外国人はバブル期前後に大きく増加し、ピークの1993年には30万人近くを記録している。現在の技能実習生や留学生に迫る規模の人数であり、政府も当然この事実を認識していたはずだ。

私が文献を通じてのみ知り得たこうした歴史を、吉岡さんは自分自身の目で見、自らの身体で経験している。釜ヶ崎という地域で、そして日雇い労働の日々の現場の中で、彼は実際に数多くの外国人労働者と同じ現場で働き、彼らの家族と地域で互いに支え合い、共に暮らしてきた。

働くため、生きていくために、様々な土地から人が集まる街。出稼ぎや日雇いという経験を、異なる背景を持った人々が共に噛みしめる街。雇う側から見れば、必要な労働力をその時の都合に応じて柔軟に確保できる街。そんな「釜ヶ崎」のことを、吉岡さんに聞いた。

(※本記事は主に2020年初頭に白波瀬達也氏と共に実施したインタビューをもとに構成しています)

吉岡基(もとい)さん。1963年北海道生まれ。1982年から釜ヶ崎に関わり始め、85年から日雇い労働者となる。鉄筋施工技能士一級など様々な資格を保有。2001年から釜ヶ崎キリスト教協友会共同代表。労働者の支援や釜ヶ崎のまちづくりにも深く関わる。数年前に大病を患い、重い肉体労働はできなくなった。だが、現在も早朝から日雇いの仕事を続けている

釜ヶ崎の仕事

――吉岡さんの仕事はどういう仕事だったんですか?

どんな仕事に行っても、現場仕事は肉体労働やし、きつかったなあ。経験も技術もない初心者の頃はとにかく先輩労働者に怒られたり、教えてもらったり助けてもらったりしながら、なんとか乗り越えられたようなもんやね。

そりゃ若い頃は何でもやったよ。以前はいろんな仕事があったからね。でも、一番長くやってたんは鉄筋工っていう仕事でね。ちょっと想像つかんやろうけど、しんどい仕事やったなあ。

コンクリートの構造物ん中にはね、ほとんどの場合、鉄筋という鉄の棒がぎょうさん入ってるわけよ。完成したら見えないんやけどね。この鉄筋を加工したり、施工する場所まで運んで行って取り付けたりっていう仕事で。建物とか構造物の大きさによって扱う鉄筋の太さとか重さが変わってきたり、色々とあんねんけども。

もちろん高所とか、クレーンとの協働とか、危険な作業もある。でもまあこんなほっそい体で、クソ重たい鉄の棒を相手に、今まで大きな怪我もせず事故にも巻き込まれんとようやってきたなあとは思うんやけども。

――相当にきつい仕事なんですね。

真夏の現場の暑さって知ってる?俺ら屋外の建設現場で働くやん、温度計持ってったら何度指すと思う?振り切んのよ、どんな温度計も。

――目盛りってどこまであるんですか?

俺の知ってる温度計は、50度までしか目盛りがない。扱ってるの鉄やし、周り焼けてるし、風通しないとこやったらもう午前中に50度振り切ってまう。ここはサハラ砂漠かってね。それ以来もう二度と現場に温度計なんか持って行かんかったよ。

暑かろうが何だろうが鉄の棒の束をかついでな、運んでって、それをこう持ち上げたり、引っ張ったり、曲げたり、組み立てたり。一日で一人数百キロからトン単位の鉄筋を組み上げていくわけよ。

熱中症という言葉とか、スポーツドリンクなんてない時代には、忍耐と辛抱だけ。口に塩を放り込んで仕事してたよなあ、みんな。そんな環境で働いてたんよ。

――ビルやマンションを作っていたんですか?

俺らはね、高層の大きな構造物が多かった。日帰りで通える大阪市内や大阪府下が中心で、近くでは奈良や京都や神戸。遠い時は、和歌山県や滋賀県に行くこともあるけども。

例えばこのへんやったら「あべのハルカス」って今のところ日本一高い(ビル)、あれも行った。42階の床をつくりに行ったよ。

関空ももちろん行ったしね、関西国際空港。まだ橋ができる前よ。大きなフェリーや小型の船にね、みんな鈴なりになって乗って人工島まで渡るわけ。着いたら埋め立てホヤホヤやし、何にもなくて、まるで爆撃を受けた島みたいやった。

フェリーにはおっさん(労働者)ばっかり乗っててね。船の中で博打したりして、よう捕まっとったけど(笑)。もう私服(警官)が船に乗り込んどって、ほんでもう大騒ぎ(笑)。

島に着いて下船するときには、我先にと飛び出すもんやから、次々と船から落ちたりとかね、死亡事故もあったよ。まあいろんなことがあったんやけど…。

――どんどん変わっていく大阪の色々な建物をつくってきたんですね。

そうやね。まあ俺だけやなくて、ここらで働いてる建設関係のね、まあ土木もそうやけど、常用も日雇いも関係なく、現場で働く労働者っていうのは、みんなそういうのを思い出とかね、誇りにしてね…。

――街そのものをつくってきたんですもんね。

ねえ、誰も聞いても褒めてもくれへんけどね(笑)。だからどうしたんって言われるけど。いやほんまに。

もう仕事はしんどいし、労働に対して賃金は安いし、使い捨てやし、社会的にも差別されるしと、普段の扱いは踏んだり蹴ったりやけど、自分のした仕事にゃ誇りとかね、プライド持ってなやってかれへんやん、そんなんやっぱり。

――日雇いで仕事をしている人たちは、それぞれに得意なことが違うんですか。

釜ヶ崎の求人の特性で言うたらね、今は建設や土木が主流やから、技術や資格をビシッと持ってる「職人」と呼ばれるような人っていうのは、重宝されて継続的に使ってもらえて単価(賃金)もいい。とび職とか大工とか鉄筋工とか重機のオペレータとかね。でも一つの職種しかでけへんし、求人も安定せんから、仕事があったりなかったり…。

一方で「雑役」とか「土工」ていう、何でも幅広く対応せなあかん求人もある。こっちは単価は安いけど、求人数が多いから生き残れる。その代わり、言われた仕事はなんでもやらなあかん。犯罪以外やったら何でもやらされるよ(笑)。

最初は「言われたことをやる」ところからスタートするんやけど、そのうち一つの職種に専念する「職人」になっていったり、いろんな職種ができる「オールマイティー」になっていったりと。日雇い労働者として生き残るには、求人のある仕事に合わせてどんな仕事でも行けるようにひたすら経験を積まなしゃあない。

まあ、どっちにしても、きつい現場仕事ばっかりが回ってくるんやけどね。力仕事だったり、汚れる仕事だったり。

――危険だったり。

うん。日雇いで連れて行かれて、現場で労災事故にあったり死亡事故になることは多い。俺の知人も地下鉄の改修工事に行って、解体してた壁の下敷きになって亡くなった。一番危険なところで働かされたわけや。彼には小さい娘さんがいてね。俺の娘と同じ保育園に通ってたんよ。

日雇いに回ってくる仕事いうのんは、現場で働いてる常用労働者がやりたくないっていうか、できれば誰かにやってほしいような仕事に、「やってくれる誰か」とか「足りない人員」を連れていく。そういうのがメインなのかな。

仕事に行きたければ手配師との交渉が勝負。連れてく人間は見抜かないとあかんわけで、労働者を。使えない人間を一人連れてくのと、使える人間を一人連れてくのでは全然違うわけ、雇う方はね。

となると、雇う方はまず見る目を磨くんやけど、雇われる我々の方は技術と対応力で「使える労働者」やってアピールせなあかん。見た目のハッタリとかも含めてね。

だから、なんでもいい、力仕事を、言われたことだけすりゃいいっていう世界から、何言われてもすぐ対応できるだけの経験を積まないと、なかなか生き残れない。この条件は、外国人労働者にとっても同じやったと思う。

最初は女性たちだった

――吉岡さんが釜ヶ崎で働き始めた80年代半ば頃には外国人労働者の姿がありましたか?

俺が気づかなかっただけかなあ。まだそんなに多くは出会わなかった。ただその頃はね、(外国人の)女性の方が多かったよ。

いわゆるエンターテインメントの世界に入るという体で歌手とかダンサーとかで入ったはずやのに、紹介業者や暴力団に騙されて別の仕事を強要されたり、耐えられなければ逃げ出すしかなかった人たちもいる。そんな女性たちがポツポツと釜ヶ崎に流れ着いて来たかな。

――フィリピンなどアジアの国々から来日した女性たちでしょうか。

そうそう。フィリピンとかタイとか。子どもを連れた女性たちが逃げ込む場所としてこの地域があった。80年代の半ばくらいからかな。子どもを連れてることで目立つっていうかね。

この地域には、子ども、親、女性たちが抱える問題に対応する支援団体や施設があるもんやから、そこで出会いますよね。で、どうしたん?という話になって。

まあ、このままでは強制送還される、子どもと引き離される、生活も成り立たない、なんとか助けてほしいっていうようなこととか、そういうことが具体的に出てくる。それで裁判を始めたり。

――吉岡さんが関わってきた「協友会」でも裁判の支援をしていたんですか。

このころは「アジアンフレンド」(1988年に釜ヶ崎で設立された外国人支援組織)が窓口になって、複数の女性(母子)の裁判支援をしたのを覚えてる。裁判や生活の支援をする中で、その子どもが「こどもの里」(協友会の参加団体の一つ)に来るとか、保護されるとか、親子でね。

こどもの里。1977年の創設以来、釜ヶ崎の子どもたちの権利を守るための遊び、学び、生活の場として様々な活動を続ける(現在は認定NPO法人)

こどもの里に来てた母子だけでも何組もいて、今でも暮らしている家族はもう三世代目に入ってますよ。その中で特に印象深い母子がいてね。フィリピン人のお母さんが娘を連れて二人で釜ヶ崎に流れてきて。娘さんは89年頃の生まれで、お父さんが日本人。

色々と事情があってね…。お母さんが病気がちで早くに亡くなったのよね、娘さんが小学生のとき。で、お母さんの遺骨をね、祖国のフィリピンの遺族のもとに連れて帰ろうっていうんで、娘さんと、こどもの里の施設長と、私も一緒にね、そのお骨を抱いてフィリピンまで行ったんよ。こんな形で帰国するとはねぇ…。

その後一人ぼっちになった娘さんは、釜ヶ崎でしっかり養育してくれる里親を得て、地域の子どもらと一緒にたくましく育って、社会人として旅立ってくれたんやけども。

現場で外国人労働者と出会い始める

――男性の外国人労働者たちとの出会いが増えるのはもう少し後、80年代の後半に入ってからということでしょうか?

と思いますわ。俺が現場で外国人の労働者と出会ったっていうのはね、最初は東アジアの人たち。中国とか韓国から来てる人が最初やった。当時はまだ技能実習なんかもちろんないから、日本にいる親族とか親戚、友達とかの何らかのツテで入国して、そのまま働いてる。合法的に働ける場合もあれば、もしくは違法ではあるけど働く。

――観光ビザなどで入国して働く場合もあったということですね。

88年にオリンピックでしょ、ソウルの。それよりもっと前だったと思うな。正確に覚えてないけども、円とウォンとの関係も多分この時代、若干レートが変わってきてると思う。

協友会作成の当時の資料にも、アジアからの出稼ぎ労働者に関する記述が残っていた

――1985年のプラザ合意で円高が進み、日本で働くことの価値が高まりました。

おっきいね、彼らも円はありがたいって言ってたもん。それも関係してると思うわ。一気に来たのよ、出稼ぎにね。それでしばらくして(中国や韓国からの労働者は)スーッといなくなるみたいな。

――別の国からの労働者と入れ替わっていったんですね。「ほかの労働者と現場で会う」というのは具体的にはどういう形になるのでしょうか。

俺らはこのへんから車に乗っかって、ある会社に属してる体で現場に入りますよね。「現場」ってのは複数の会社から来てる労働者で全体の仕事をするわけやから、色んなルートから色んな労働者が入ってくるわけね。で、ここで出会うわけ。

ゼネコンがてっぺんにあってね、協力会社と呼ばれる下請け会社があって、そこにはまた子飼いの子会社があって、こういう風につながっていって、最後は「人間(労働者)をどう調達するか」っていうところが出てくるんだけども。最終的には、「何何建設」とか「何何興業」とか、会社の体でゼネコンの末端につながってる「人夫出し(手配)業者」が活躍する。

――そうした形で外国人の労働者とも現場で出会うようになったと。

うん。片言の日本語しかしゃべれない人も多かったけど、大概単独では行動してへんから、自分に仕事を紹介してくれる親戚なり友達が必ずセットで動いてくれてる。

まだ当時は建設の技術にしてもなんにしても日本の方が進んでるっていうような時代やったんで、「韓国で俺はこの仕事を生業としてやるんだ」みたいな人もおったしね。とにかく東アジアの人やったら、見た目では何ら違和感もないし、喋らん限り外国人やとは気付かんかったな。

こっから先に出てくるフィリピンの人らもそうやけど、まず「先人」がいんのよね。フロンティアがおって、彼らが道先案内役をしてくれて、次の世代が入ってくるっていうかね。

――開拓者がいるんですね。

俺が出会った頃に問題やったのは、いわゆる「ブローカー」っていう、日本国内でも、フィリピンやったらフィリピン、中国やったら中国に、必ずビジネスとして人を売り買いする連中がおったんや。

俺が言うてる(先人という)のは彼ら(ブローカー)のことやなくて、この現地(日本)に水先案内人が先駆者としておって、そこを中心にコミュニティができてくみたいな。悪徳の人もおれば、非常に献身的に同胞の人たちを守る人もいれば、人によるんだけども、いわゆるブローカーとは違う役割を果たしていた。そういうキーマンは必ずおったね。

イロイロからの人々

――フィリピンからの人が増え始めるんですね。

フィリピンのイロイロ(中部パナイ島の都市)出身のコミュニティっていうのが大阪にあったのね。Aさんていう鉄筋工の仕事の手配をしてる人もイロイロの人で、イロイロ出身者を中心に彼のネットワークに入ってきたフィリピン人たちの住むところとか仕事を紹介する。

彼が合法的に滞在したかどうかってのは、俺、定かではないのね。ちょっと行ったとこの木造アパートに住んでた。イズミヤ(地元のスーパー)に砂ずりとか買いに行って焼いて食うてんねんけど、普通に(笑)。

――イロイロからの人たちは一緒に住んでいたんですか。

バラバラやったね。でもあとからわかったんやけど、コミュニティの一番強力なサポーターっていうか、重要な連絡役をしていたイロイロ出身の女性の存在があって。日本人男性と結婚して大阪に住んでいた彼女が連絡先になって、色んな人が出たり入ったりしながら、今度は彼女を介さず新しいネットワークができてたり。

――例えばAさんを介して。

どこまで合法でどっから非合法なのかはわしにもわからんけども、複雑に入り組みながら助け合ってるようなコミュニティっていうのができてたんかなあ。もちろんイロイロだけやなしにフィリピン人同士の複数のネットワークがあったり、集まる場所とかもあっちこっちにあったみたいやけどね。

それにしても当時は携帯電話もない時代やし、有線電話にしたかてね、フィリピンの田舎のほう行ったら電話なんかないやん。俺も行ってみて初めて知ったんやけど。

村ん中のお金持った家に電話があっても、その周囲には何百軒と電話のない家があったりとか。みんなこの(電話がある)人のとこに電話をかけに行くわけやんか。

今とは環境が全然ちゃうやん。パソコンもインターネットも、携帯電話やスマホもなければ、メールもLINEも何にもあれへん。まったく連絡手段のない時代よ。こんなんでどうやって連絡すんの?って。

でも遠い外国の日本とやりとりして、段取りつけて、船から「ジャンプした」って。ええっ、どうやって?って。でもできてんのよ不思議と。いったいどんなネットワークなん?って。

――船から「ジャンプした」というのは?

うん、イロイロ出身のBさんって人なんやけど、違法に入ることを「ジャンプ」って表現してたんよ。ほんまに船から飛び込んだのか何かは知らん。笑いながらジャンプしたジャンプしたって。彼は外国船から不法入国したらしいから。

一緒に仕事したのは90年代になってからかな。Bさんなんか最後までほとんど日本語しゃべれなかったからね。タガログ語と英語だけ。でも堂々としてたよなあ(笑)。たくましいなと思うねんけど。

――仕事も一緒にしていたんですね。

そう。雇ってる親方が俺の友人やったから、俺も呼ばれれば一緒に仕事をしてたよ。

その親方は日本人と同じ単価で賃金をAさんに渡す。ただ(その後に)Aさんが一人ひとりになんぼ渡すかはまた別。まあBさんが言うには、「あいつはえぐいやつや」って(笑)。イロイロに帰ってすごい豪邸建ててるらしい。イロイロの不動産王と呼ばれてるらしい(笑)。

――当時は中東地域からの労働者もいましたか。

中東系の人らもいっとき増えた時期があったね。この頃はアジア系の外国人が多かったから、中東系っていうのは珍しかったね。

彼らは釜ヶ崎の商店とかでぎょうさんバイトしとった。釜ヶ崎の街のなかに急に「ハッサン」が増えたりして。弁当屋のハッサンとか居酒屋のハッサンとか。いやいやほんまに。そんなことはあったなあ。なんか「よっさん」とかに似てるから、違和感なくすごい馴染めたんやけど(笑)。

――入管や警察による外国人の摘発などもあったのでしょうか。

当時はなかったね。俺の感覚やけど、わざと見逃す。

この時代はね、仕事がどんどん出てくるのよね。段々労働力が足りなくなってくる。もう猫の手も借りたいっていう状況になってくると、それに合わせて外国からも入ってくる。

ありがたい。安く使えたらもっとありがたい。無碍に帰すのはもったいない。この「非合法をうまく利用した使い方」っていうかな。わざと見逃す。この頃はグレーで通用した時代。

釜ヶ崎の中心部にある西成警察署

対立はなかったのか

――新しく外国から入ってきた労働者に対して、元からいた労働者からの反発のようなことはありましたか?

そもそも俺が(日雇いを)始めた80年代半ばから後半っていうのは、(釜ヶ崎で)大きく労働者が入れ替わる時期やったと思う。

60年代、70年代の活況のときにね、大阪万博とか、それに合わせたおっきなプロジェクトだったり、そういう仕事の多い時代に全国からかき集められた労働者がね、ちょうど高齢化してきた時期でもあったわけ。

仕事も大阪万博が終わって以降は急激に落ちたっていうのもあるし、オイルショックがあったり高齢化してきたことも追い討ちをかけて、ふるいにかけられたんやね。

この世界は選ばれてナンボやから、仕事がキャッチできなくなると完全に失業になってしまう。そういう人が路上に出現してくるのよね。仕事も収入も住む部屋も失って…。今と違って生活保護すら受けられへん時代やったからね。失業したら、即、野宿生活。

俺ら80年代から、野宿している労働者と出会っていく「夜まわり」とか、生活相談や医療相談なんかを受ける活動もしてて、そんな背景なんかがよくわかってたんよ。

――特に高齢の労働者にとって厳しい時代になってきたんですね。

80年代の半ばから後半ぐらいにかけて鉄鋼・造船の不況があったんですよね。

中国製のものが安く入るっていう時代になってきて、瀬戸内の鉄鋼・造船が大打撃を受ける。で、ほんま建設業とおんなじで末端の労働者から切られていって、釜ヶ崎に流れてくる。

ある時期、建設現場にいきなり腕のいい溶接工が増えたんよ。聞いたら「先月まで船を造ってた」って。

(鉄鋼・造船に)直接関わる下請けの労働者だけやなくて、(瀬戸内の)街全体とか島全体の経済が成り立たなくなった。だから、商売やってた人も含めて、職を求めて大阪に流れてくるみたいなね。こういう若い労働力が入ってくると、もう年寄りはいらない。

――失業した若い世代の流入で労働者の入れ替わりが進んだと。

外国から出稼ぎに来る労働者に対してもね、「あいつらのせいで、わしらにも仕事が当たらんくなる」とか「単価(賃金)も下がってまう」とか言われてた時期もあった。

でもそこは不思議とね、例えば労働組合のビラでもそうやし、アジアンフレンドの活動もそうやけど、「そうやないで」と。「彼らも仲間やで」っていうことをいろんな形で労働者に訴えていくわけ。

毎朝センター(釜ヶ崎の寄り場がある「あいりん労働福祉センター」のこと)でね、労働組合がアジテーションするんよ。早朝の暗いうちから、労働者が集まる時間に。「なんで外国人がここに来てんのか」とか、「彼らは敵なのか味方なのか」とか、みんなに問いかけるわけ。

若干の反発もあるけど、それを聞いててわかる人はやっぱりわかんのよ。

あいりん総合センター。あいりん労働福祉センターや大阪社会医療センター付属病院などが入る巨大な建物。耐震強度のない構造物であることを理由として、現地での建て替えを前提に、2019年春に閉鎖された

――仲間だっていうことが。

そうそう。これはね、理屈やない。この街で生活してる中で、自然となにか身につけていく。

「万国の労働者は団結せよ!」みたいな、そういう政治的なスローガンとかやなくって、実際に生活してるなかで、外国から出稼ぎに来てる労働者の実態とかってわかってくるやん。

理屈抜きで、ああ彼らは敵とちゃう、仲間やって。この「やつらも仲間や」っていう感覚は、日本人の労働者の中に不思議と広がってたなあ。

俺は感動したよ、ホンマに。すごいなあ釜ヶ崎の労働者はって。労働組合なんかの運動もそうなんだけども、結局同じ労働者やと。合法非合法関係なくね。

当時の単価なんぼやったかな、確か80年代から90年代にかけて最低賃金が1万円の大台に乗った頃やったかな。釜ヶ崎から労働者を雇うんやったら、とにかく最低賃金は外国人であれなんであれ一緒やと。

逆に言うたら求人業者はね、外国から来てる、非合法で働いてるっていうのをエエことに、足下見て、安くね。

――立場弱いですよね。

安い金でね、ひどかったもん。半分以下で連れて行きよる。仕事させよる。日本人と同じ仕事させといて、半額やで。

――そういう手配師はいた?

いた、いた。それはあかんやろと。流石に日本人の労働者も一緒になって怒ったよ。外国人であろうと同一賃金で雇うべきやということで、釜ヶ崎では運動したな。非合法でもそんなん関係あるかいと。釜から連れてく日雇い労働者は、最低賃金はこれや、春闘で決めたんや、それを破る業者は許さんと。

――具体的に何何さんという人がいて、その人を守るという感じだったんですか?

それやっちゃうと彼が危なくなるから。

――そうか、もっと抽象化された要求でなければ。

うん。釜ヶ崎から雇用する労働者は全て同一条件。最低賃金はこれやと。

――外国からの労働者を安い賃金で働かせれば日本の労働者の賃金も下がってしまう。労働者同士が対立させられたら雇う側の思うつぼということですよね。同じ条件で合わせたほうが、連帯した方がみんなにとっていい。

「出稼ぎ」っていう意味では、元々国内の出稼ぎも多かったわけで、流動的に、色んな出身地の人が一緒に働いてきたわけやん。それと言葉がうまく通じないっていうか難しい人、くらいの違いで。出身が東北だろうと外国であろうと、同じように出稼ぎに来てんねんから。

――身ひとつで稼ぎに来たという意味では変わらない。

そうそう。だから理解はできる。お前も大変やなあと。お前すごいなあ、言葉も習慣もわからん外国までやってきて、ようやるなあと。

――「大変やなあ」ということがわかるんですね。

自分や仲間の生い立ちや生き方に重なるんかなあ。何か世話したくなるみたいなね。ほっとかれへんみたいな。

ドバイからの手紙

――バブルが崩壊して釜ヶ崎の求人も急減し、90年代に入ってからは技能実習など新しい制度も作られていきました。

90年代から2000年にかけて、ゼネコンの職員が下請け業者にね、盛んに「社長ええ話あるからこれなんとかしいや」言うて、まあ結局は「安い労働者雇えるで」と。「色々ノウハウはあるけれど、それはうちらで協力したるから、職人足らんのやったら、これ使ってみたら?」っていうのが、技能実習制度の話だった。現場の詰め所とかで平気でそんな話をしとったからね。

業界も悩みがあって、漠然とした労働力やなくて、職人として技術を持った労働者を育てられへんていうかね。取っ替え引っ替えで済む仕事もあれば、将来見据えて、ちゃんと技術を身につけてほしいっていう職種もあって。

そもそも若いモンは、3K(きつい、汚い、危険)の現場仕事を嫌うし、景気に左右されやすい建設業界なんかに定着せえへん。だからと言って、行き当たりばったりで労働力が足りたり足りなかったりっていうのは、今後の業界としてもちょっと困ったもんやなあというのはあったよね。

そこで、「安定した人員を安く供給できるとしたらどう?」っていう提案をされたわけよ、ゼネコンから。さっき話したのはそういう提案だったと思う。一定期間したらメンバーは変わるけども、安定して供給もできるし、何しろ安く済むよと。これは盛んに言ってたのを覚えてる。

この話に乗った業者が、どんどん技能実習生を受け入れていくわけ。このへんの時期は、技能実習生と、合法的に働けるようになった日系人(90年代に受け入れが拡大)と、その前からのいわゆる違法状態で働いてる人がミックスでかぶっている時代やね。

――Bさんたちはどこかのタイミングでフィリピンに帰ったんですか。

Bさんもなかなか仕事があたらんくなってきたし、えらい厳しくなってきたと。

もう現場仕事に自分らが入り込む隙間がなくなってきたし、同じ外国人でも、合法的に日系が入ってきたうえに、技能実習生っていう若くて合法的な労働者も入ってきた。

もう、あちこちでオーバーステイの取り締まりが始まっていて、捕まるのも時間の問題。罰則付きの強制送還は流石にしんどいと。このままやったら日本にいる意味がないということで、2004年か、「出国命令」で帰ったからね。大概のオーバーステイの人はこのときに帰ったわ。

――確かに、自ら出頭すれば収容されずに出国できて1年後には再入国もできるという「出国命令」の仕組みができたのが2004年ですね。

彼らと出会って初めて実感したんやけどね。フィリピンだけじゃないけども、元々「外国に行って稼いでくるんや」っていうのが当たり前の国っていっぱいあるわけですやんか。国是としてね。

Bさんみたいに、たまたま日本に来てたけど、まあ日本でなくてもええわいと。彼はエンジニアとして、資格や技術がある人やったから、外国の輸送船なりタンカーなり乗りゃあね、それなりにまとまった給料が出る。むっちゃたくましいんですよ。

確かね、息子を大学に行かしたいっていうんで、頑張ってたんやね。でも、このまま日本にいても仕送りするのも難しくなってきたし、国を出るのに一番いいチャンスやっていうんで、この機に彼の友達も含めてみな帰るんやという話でしたね。

――日本で10年以上働いて、帰ることを決めた。

そのあとBさんから絵葉書が届いてね。ドバイの絵葉書だったのよ(笑)。どこ行っとんねんと。どんだけグローバルやねんて思ったわ(笑)。

ドバイに上陸したわけではなくて、ドバイ沖で停泊してる、外国船のエンジニアとして稼いでますっていうようなことを伝えてくれてね。その後、船から国際電話までかけてくれたよ。やっぱりたくましいなと思ったね。でも、思ったように収入がないから、息子のほうが自分から「学校諦める」言うて、大学はやめたみたい。

それと、話逸れるけど、ドバイの絵葉書見て改めて思ったんやけど。ドバイのね、今観光で大変なことなってるけど、あの街を作るのにどんだけ外国人労働者が働いたかっていうのをね。

まあ要は出稼ぎ労働者で、労働者のほとんどが外国人。世界最高の構造物とか、街全体を作ったのは外国人だっていう。その労働者が、どんな環境で、どんな賃金で働いたか、その後どうなったかっていうのを、割と細かく書いた記事を見たこともあって。

外国に出稼ぎに行く労働者ってのはたくましいし、でもすごい生き方をしてるなあと思ってね。

――稼げるときに稼げるところに行く。

うんうん。で、イロイロに帰ったら、車の整備工場とかでこちょこちょ拾い仕事やって、何とか生活費は稼いで。で、まとまった金がいるときは、船に乗って、まとまったUSドルを持って帰ってくるっていう。

日本に来たのは一つの賭けで、この時代稼げると思って、勝負をかけたんかな。

地元のイロイロで、「Aさんが日本でえらい稼いでるらしい」みたいな話になってたんやろうね。Bさんもそんな話を聞いて、日本に「ジャンプする」ことを決心したんとちゃうかな。

労働者たちが団結すると

「もう一台行きますよー!」
「はい、もう一台行きますよー」

午前6時。求人車両の交通整理をする吉岡さんのそばに立って話を聞く。

2019年の春に、街の象徴だった巨大なあいりん総合センターの建物は閉鎖された。そのため、現在、釜ヶ崎の寄り場は旧センターのすぐ横の道路沿いへと仮移転した状態にある。

釜ヶ崎は変わっていく。労働者の高齢化は進み、かつてのドヤ(簡易宿所)を改装した外国人観光客向けのホテルも随分多くなった。

釜ヶ崎に隣り合うJR新今宮駅すぐそばの敷地では、高級旅館などを展開する星野リゾートのホテル建設が進む

釜ヶ崎のこれから、センターの今後や建て替えについては、当時の橋下徹大阪市長が2012年に「西成特区構想」を立ち上げて以降、釜ヶ崎のまちづくりに関する様々な会議で継続的に議論が続けられてきた。

吉岡さん自身も地域の代表委員の一人としてこの議論に深く関わり、釜ヶ崎の労働者たち、そして釜ヶ崎という街が育んできた価値や文化をどう未来に残せるか、文字通り心血を注ぐ日々を送っている。

――センターができたのがいつ頃でしたっけ?

1970年。ここの設計自体が、いっぺんに3000人の労働者が使えるっていうことを想定した床面積らしい。確かに、わしが来てからでも活況のときは凄かった。80年代後半から90年くらい。景気が良くなって、単価もどんどん上がって。

――じゃあ車もすごいし労働者もすごかった。

ホンマにすごかった、この頃は。平均でセンター周辺から毎日1万人前後の労働者が仕事に行っていた時代やからね。

冬場なんか、この(センターの)シャッター開いたら何もないホールになってんねんけど、労働者の熱気で、もうほんまに朝の築地の市場みたいに湯気がもわもわしてね。

声が飛び交って、魚市場みたいに、人間の市場。わーっていって、ブワーッとなって、そういう活気があった。まあ過去の話やけどね。日雇い労働者も労働組合もムッチャ元気な時代。毎年春闘もやってて。

――賃金の交渉を。

日雇いの場合は、いったい誰に雇われてるかわかりませんやん。重層的にどんどん上の会社がおるから。いったい誰を相手に交渉したらいいのか。ゼネコンと交渉したかて相手にされへんからね。だから、ここに手配に来る業者を直接相手にして春闘。

まあ手配師がおるわけよね。正式には「求人担当者」。この手配師が会社の代表やから、手配師や求人会社に直接ね、労働者側から要求書を出して、あんたの所の会社として解答せえよと。とりあえずこういう条件で、賃金はこう、諸条件はこう、ほんで約束したことは、4月から実行せえよと。

――色々な手配師や求人会社を相手に一斉にやるんですか?

そうそう。こっちから一方的に叩きつけて、回答せえと。

要求する賃金や条件はこっちが決める。それをセンターの寄り場の中で、みんなの見えるところにバァーッと貼り出してね。この業者は、単価はナンボで、こんな条件で、こうこうこうでと、回答を貼っていく。交渉で回答内容が変われば、その場で書き換える。

そういう交渉を数百人の労働者の見てる目の前で毎朝やるわけ。要求にも応えんと言うことも聞けへんような業者には、誰も仕事に行けへんとかね。それでも悪質な業者がおったら、なんか知らんけど、そんな求人業者の車がひっくり返ってみたりとか、火がついて燃えてるとか…。色んなことが起こるわけ(笑)。

そういうことで、労働者が団結するとすごい力強いものになる。業者はその力関係で「わかりました」と。

――たとえ不利な立場でも、団結すれば要求を通すための力になる。

そうそう。ただ、力関係やからね。求人が多くて労働者の立場が強ければ闘える。最低賃金が13500円までいった。バブルが崩壊した直後やったけど、阪神淡路大震災後の直後の、復旧、復興工事の需要のあった95年頃やったかな。

――いまだにそれを超えたことは?

一回もない。

もちろん最低がイチサンゴやから、職人単価はもっと上がったな。2万超えとかね。ただ、その後の大不況で3千円以上も下がってもうたけどね。

――あ、また車が。

「はい、車来ますよー!車ちゅーい!」

取材後記

誰のものであれ、私たち一人ひとりの人生、そしてその器としての世界は、ほかの無数の誰かがつくったもの、互いに出会うことのない労働者たちが注ぎ込んだ無数の時間と力とによって成り立っている。

中には危険で厳しい肉体労働も少なくない。労働の内容に対価が見合わない場合もたくさんある。でも、誰かがその仕事に従事しているからこそ、私たちは今日もそれぞれの日常を生きていられるのだ。

吉岡さんの話を聞き、改めて80年代から90年代以降への大きな変化を理解する。日本社会が求める外国人労働者は、非合法から合法へと徐々に変わっていった。日系人、技能実習生、留学生。今、この社会の労働を語る上で不可欠の一部となった人々の受け入れ拡大は、釜ヶ崎の風景をも少しずつ塗り替えていった。

だがこうした見かけ上の変化は、社会の根底に流れる本質的な力学をも変化させたのだろうか。80年代と90年代以降とは断絶しながらも、実はそのどこかでつながっているのではないか。あるいはもっと前の時代とも、地続きなのではないか。

吉岡さんは語っていた。炭鉱、鉄鋼、造船。かつての巨大な産業は徐々に規模を縮小し、「この場所に生活の糧はもうない」ということを様々な地方の労働者たちに告げていった。

仕事がなくなればその土地に暮らし続けることはできず、そうして移動せざるを得ない人々が次々に生み出された。ならばどこに行けば良いのか。その受け皿の一つが、釜ヶ崎だったのだと思う。

日雇いに活路を見出す労働者たちの立場は決して強くない。厳しい条件の仕事であっても、やるしかないという状況はある。そして、その構造的な弱さにこそ雇う側はつけ込むものだ。出来るだけ賃金を切り下げ、コストを圧縮しようとする。古典的な方法の一つが、選ばれる側の人々をバラバラの個人へと分解し、互いに競い合わせるというものだろう。

これは、釜ヶ崎だけの話ではない。今、日本全国で雇用の不安定化が進み、「長期の保障は無し」という条件で働く人々の割合は増加を続けている。

あるいは借金を抱え、転職も許されず、劣悪な雇い主に当たれば耐えるか逃げるかの二択に直面する外国人技能実習生。この社会では、誰かの痛みも、不自由のしわ寄せも、想定外ではない。それは、最初から織り込み済みなのだ。

労働者たちの構造的な弱さを力に転換する唯一の方法を、吉岡さんは教えてくれたように思う。それは、互いに対立し、競い合わせようとする力に対して、互いに連帯し合う道を、自覚的に選び取るということだ。つまり、表層的な対立軸に惑わされず、本質的な共通点を見出し、真の利害対立に沿って共に声をあげるということだ。そこに可能性がある。

吉岡さんの話を聞いた帰り道、ふと釜ヶ崎は移民たちの街なのかもしれないと思った。毎日、毎月、毎年、この街には様々な土地を離れた人々がやってくる。彼らの行き来が織りなす複雑な地層のような歴史。すぐに去る人がいれば、長く暮らす人もいる。吉岡さん自身も外からやってきて、40年近くを釜ヶ崎で過ごした。私が聞き取ったのは、彼のこの街に対する深い愛情とプライドだったと思う。その本質のひとかけらでも、届けたいと思った。

CREDIT
望月優大|取材・執筆
田川基成|取材・写真
白波瀬達也|取材協力

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TEXT BY HIROKI MOCHIZUKI

望月優大
ニッポン複雑紀行編集長

1985年生まれ。日本の移民文化・移民事情を伝えるウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」編集長。著書『ふたつの日本 「移民国家」の建前と現実』(講談社現代新書)。代表を務める株式会社コモンセンスでは非営利団体等への支援にも携わっている。@hirokim21