世界最悪の人道危機と言われる2015年に勃発したイエメン内戦。混乱のはじまりは、2011年から中東・北アフリカに広がった民主化運動「アラブの春」でした。
イエメンでは、アラブの春の発端となったチュニジアでのデモから4日後に首都サヌアで学生の反政府運動が始まり、2011年11月、30年にわたり権力の座にあったサレハ大統領が退陣しました。翌年2月にはハディ新政権が誕生しましたが、政府の混乱に乗じてイスラム教フーシ派が勢力を拡大。その後、フーシ派は首都を奪い、ハディ政権を追放します。それが引き金となり、2015年、隣国サウジアラビアが軍事介入。イランは反政府勢力フ―シ派を支援し、代理戦争の様相を呈した内戦が泥沼化していきます。これまでに多くの人が命を落とし、国内外への避難を余儀なくされています。最近ではガザ危機の影響も加わり、市民の苦しみが一層深まっています。
数年前にイエメンから日本に逃れ、難民認定を得たハッサンさん(仮名)に話を伺いました。
人生が変わったアラブの春
ーー 2011年アラブの春では、イエメンでも多くの人たちが民主化を求めて声を上げました。当時10代後半だったハッサンさんにとってどんな経験でしたか?
アラブの春で全てが変わりました。起きた直後は希望を感じました。でも、希望はすぐに打ち砕かれました。私が家族と暮らしていた地域はスンニ派が多いのですが、武装組織フーシ派の支配地域となってしまったのです。日々の生活の安心と安全が失われました。それから教育ですね。大学進学の道が絶たれ、自分の将来が何も見えなくなりました。夢をすべて失いました。
ーー 国を離れざるを得なくなった経緯を教えてください。
フーシ派による支配が強まるなか、独身男性や教育を受けた男性が誘拐されるようになりました。フーシ派の批判をする可能性がある人たちだからです。兄弟3人のうち独身の自分だけが狙われるようになったんです。友人の一人は誘拐され、もう一人は行方不明です。母は恐怖や不安で心臓の病を患ってしまいました。
はじめてフーシ派が私に接触してきたのは2015年。あるイベントに参加した時のことです。フーシ派のメンバーが潜んでいて、「こいつだ」という感じで私を指差してきました。その後、フーシ派の兵士にならないかと自宅に押しかけてきました。断れば暴行されることは明らかだったので、その場ではわかったと伝えましたが、危険なことになると思い、数日後、隣国に避難しました。
数年海外を転々とし、ほとぼりが冷めただろうと帰国したのですが実際は違いました。帰国後すぐに再びフーシ派の兵士が自宅に来て、連行され、ひどい暴行を受けました。今でも体に傷が残っています。ここにいては命が危ないと感じ、家族の助けも借りて、また国を出ることになったんです。
一抹の希望を託して来日
ーーなぜ日本に来ることになったのですか?
本当は欧州に行きたかったんです。でも危険すぎました。友人たちが欧州を目指し、極寒のポーランド国境で亡くなっています。日本が難民を受け入れていることはネットで知りました。でも、同時に受け入れに厳しいという情報も。それでも、なんとか認めてくれるのではないかと思い、日本行きを決意しました。ビザが1週間で取れたことは幸運でした。
ーー難民申請中の生活はどうでしたか?
結果を待つ1年半は心身ともに大変でした。それでも来日してからは身の安全を感じることができています。来日直後、数日間、持ち金が尽きて路上で寝たこともありましたが、誰かに襲われるわけでもなく、物を取られるわけでもない。イエメンの友人に話したら、とても驚いていました。
でも、難民申請の結果がでるまで平均3年かかると聞いた時は絶望的な気持ちになりました。頻繁に難民支援協会(JAR)に電話して「自分は認定されるのか?大丈夫か?」と不安を受け止めてもらいました。発熱や関節痛、寝不足など体調不良で病院にかかることもありました。検査結果は問題なく、メンタルの不調の影響だろうと言われました。イエメンで起きたこと、経験したことを忘れる日は1日もありません。
家族への募る思いを抱えつつ、未来を見据える
ーー日本で新しく知り合いはできましたか?
仕事が忙しいので友人を作る暇はないですが、JARのシェルターで出会った難民の人たちとは今も交流しています。自分で借りたアパートに引っ越した時には皆を招待して、イエメン料理でおもてなしをしました。
職場の人たちにも恵まれています。難民申請中であったことは言ってなかったのですが、認定を得たことを伝えたら、ケーキを買ってきてくれて。飲み会を開いて、みんなでお祝いしてくれました。モスクで人との出会いはありますが挨拶する程度。小さいコミュニティなので噂はすぐに広まります(苦笑)。友人を作るのは難しいです。
ーー難民認定を得た時はどんな気持ちになりましたか?
難民認定の結果を聞いた時はうれしくて涙が出ました。こんな幸せな気持ちになったのは本当に久しぶりでした。でも、家族、特に母と会えないことは辛いです。難民となる前は自分が国と家族を離れて逃れるとは想像すらしていませんでした。できれば、家族を日本に呼び寄せたいです。
ーーどんなお母さんですか?
働き者で思いやりがあり、人前では絶対泣かない強い女性。でも優しい。認定の結果を受けた時は一番に母に伝えました。今日JARスタッフと一緒に撮った写真を母に見せたいです。
ーー仕事は何をしていますか?
ホテルの清掃の仕事をしています。ハローワークで自力で見つけました。言葉ができなくても機会をくれる職場で、マネージャーはとても理解がある人です。実は、働き始めて1か月なんですが、この前スーパーバイザーに昇格したんです。スタッフ9人の業務点検をする役割。多国籍なメンバーなので英語と日本語がごちゃまぜですが、自分がしてほしいこと、相手が望むことを確認すれば、言葉の障壁はあまりありません。
ーーこれから日本で何をしたいですか?
まずは日本語を学びたいです。次のインタビューでは日本語でやります!(笑)それから、できれば街の再建について勉強したい。戦争で荒廃した国を立て直すことが私の夢です。
ーーJARの支援について一言お願いします。
JARの支援すべてに感謝しています。シェルターの提供、RHQから保護費*がもらえるまでの生活費のサポート、それから申請中の辛い時期に精神的に寄り添ってくれたこと。いつもそばにいてくれました。初めてJARの事務所にきた時はちょっと不安でした。でも、何度か来るうちにこの団体は信頼できるとわかりました。今は家族のように感じています。JARの活動が寄付者によって支えられていると聞き、自分もいつか寄付者になって難民を支えたいと思っています。
<取材後記>
壮絶な経験とは裏腹に、穏やかで優しさが全体からにじみ出ているようなハッサンさん。インタビューでは、内戦がいかに簡単に人の人生を狂わせるか、生き抜くために彼が選んだ日本への逃避がいかに切迫したものであったかを教えてくれました。家族や友人との別れや喪失、来日後も続く不安や孤独が言葉の端々から伝わり、故郷を追われて生きることの厳しさを改めて痛感しました。
それでも未来への希望や人への深い愛情を手放さない彼のたくましさもインタビューを通じて感じました。照れくさそうに顔の前にかかげてくれた難民認定証明書。その一枚の薄い紙が与える安心を大切に抱きしめるような姿が印象的でした。ハッサンさんの話を通じて、日本社会が難民を受け入れることの意味を改めて考えるきっかけになればと思います。
※個人が特定されないよう、一部の情報を加工しています。
*RHQとは財団法人アジア福祉教育財団の難民事業本部のこと。政府(外務省)からの委託で、難民申請者のための公的な生活支援金「保護費」を支給している。保護費の課題についてはこちら。
▼イエメンについて詳しく知りたい方は以下のページが参考になります。
「アラブの春」から10年 JICA若手職員が聞く 池上さん|JICA