活動レポート

《支援者インタビュー》 難民として逃れた祖母の存在を胸にー本能寺の変にいた「アフリカン・サムライ」から日本史を描く:ロックリー・トーマスさん


    難民支援協会の活動は、様々な背景から難民に思いを寄せ、関心を持ち続けてくださる方々に支えられています。寄付者として難民支援協会(JAR)の年次報告書にメッセージを寄せてくださった、ロックリー・トーマスさんもその一人です。
    日本で10年以上教壇に立ち、国際的視野に立った日本史を教えるイギリス出身のロックリーさんに、ご自身の研究や難民に関心を寄せてくださった背景について、お話を伺いました。
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    ――ロックリーさんにJARの事務所で初めてお会いした時、難民の方への支援物資として、たくさんの食料品などと一緒に持ってきてくださったのが、ご著書の『信長と弥助 本能寺を生き延びた黒人侍』『Yasuke: The true story of the legendary African Samurai)』でした。戦国時代に織田信長に仕えたアフリカ人の侍「弥助」に関する著作で、「難民の人にも読んでほしい。きっと勇気をもらえるから」と言ってくださいました。

    あの本能寺の変に黒人の侍がいたと聞くと驚かれる方が多いのですが、1579年にイエズス会宣教師ヴァリニャーノの護衛として来日し、信長に謁見した後その家臣となったアフリカ人の弥助という人物については、存在を裏づける史料が残っています。10年以上前に初めて弥助について知ってから、この人物についてぜひ研究したいと思い、著作にまとめました。
    弥助は信長のもとで通訳や海外事情を伝える役目を果たしただけでなく、日常的には信長の前で力士と相撲をとるなど、エンターテイメントも提供していたようです。身長は185㎝を超え、容姿端麗で賢い人物だったと伝えられています。

    ――ご著書では、当時の人々が弥助の姿を見て驚く様子が描かれていました。

    弥助を見物しようとして人が押し寄せ、死者が出たという記録があります。当時の人々にとってアフリカ人の弥助は「大黒天」、神のような存在と受け止められたのでしょう。
    一方で、元々奴隷の身分で、宣教師から信長に献上された弥助が信長に認められ、昇進していったのは、武士として強かったというだけでなく、信長が求める海外の事情に通じていたことがあります。日本語もできたという記録があり、来日前に滞在していたマカオで学んでいた可能性が高いです。1582年に本能寺の変で信長が亡くなるまでの1年3か月あまり、側近として仕えました。
    弥助は本能寺の変を信長と共に戦い生き延びますが、驚くことに、その後逃げることも可能な状況だったにもかかわらず、危険を冒して信長の嫡子である織田信忠の元に駆けつけ、明智光秀との戦いに加わっています。このことから、弥助は信長の首を信忠に渡しに行ったのではという伝説すら生まれています。当時の日本がどのように動いているか的確に把握していた、たいへん優秀な人物だったのだろうと思います。
    信忠が敗北した後、弥助は明智軍に投降していますが、その後どのような人生を送ったかは、史料が十分残っておらず分かっていません。
    ――弥助は大河ドラマやゲームなどのフィクションにはキャラクターとして登場していますが、学術的な研究はこれまで少なかったようですね。ロックリーさんの著作では、これまでほとんど研究がなかった日本にたどり着くまでの弥助の足取りについても仮説を立て、アフリカから様々な土地を経由したのち宣教師の護衛として日本にたどりついた人物として、弥助を描いています。
    最近まで、歴史は国と結びつけられて語られてきました。たとえば幕末に活躍したトマス・グラバーは、日本史上とても重要な役割を果たしていますが、イギリス人なので日本史の中ではそれほど大きく取り上げられません。教科書に載っている歴史とは「国の歴史」で、その結果、弥助のような人は忘れられやすい存在になっていたと言えます。弥助はどこの国の出身かも定まらなかったため、歴史研究の隙間からこぼれ落ちており、アフリカでもその存在は知られていません。
    弥助が来日した16世紀は国際的に大規模な人の移動が起こっていた時代で、日本国内も戦国時代という社会的流動性が高まった時期にありました。弥助以外にも1630頃年までに数百人のアフリカ人が日本に滞在していたと考えられています。弥助はその時代に地球を移動した、取るに足らない数多くの人々の1人なのです。
    私が最初に弥助についての研究をインターネット上に発表した時、その人生に惹きつけられたというたくさんの反響がありました。弥助は宣教師の従者であり、自由な身分ではありませんでしたが、弥助のストーリーには、強制移住させられた人々にも一人ひとりの物語があることを思い出させる要素が詰まっています。


    ――ロックリーさんご自身は、日本で教鞭を取られて10年以上になるそうですね。

    最初の来日は2000年で、ALT(外国語指導助手)として鳥取の小学校で2年間働きました。日本に来た理由は特に何かあったわけではなく、冒険をしたいという気持ちから。初めての来日で、日本語も初めてでした。鳥取の本当に田舎の町で、外国人もほとんどおらず、必要に迫られて日本語はすぐに覚えられました。周りの人たちがとてもあたたかく、この時の経験が、後に弥助を知った時に強く惹かれたこととつながっていると思います。
    ――ご専門である外国語の学習法「内容言語統合型学習」とはどのようなものでしょうか。

    ある教科あるいは時事問題などのトピックと外国語の両方をあわせて教育する学習方法です。単に英語そのものを学ぶだけでなく、英語を通じて何かを学ぶというやり方のほうが、生徒のモチベーションになります。そのためにどのテーマがよいか考えたことをきっかけに、歴史を研究することにしました。
    日本では鎖国の歴史が強調され、外国人に対して閉鎖的な土壌があると考えられがちですが、日本の歴史を広く検証すると、むしろ国際的にオープンだったと考えています。英語教育と共に、日本人の国際的志向性についても研究しており、歴史認識が変わることで国際的志向が高まるのではと考えています。
    ――ロックリーさんが難民支援に関心をお持ちになったきっかけについて、教えてください。

    難民支援に関心を持った背景には、自分の家族の経歴が影響していると思います。私はイギリス出身ですが、祖母はドイツ出身で、第二次世界大戦中の1938年、「水晶の夜」(※注)の後に難民としてドイツからイギリスに逃れました。

    ※注:水晶の夜―1938年にドイツ各地で発生した反ユダヤ主義暴動。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、ヒトラーや親衛隊(SS)は傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。

    祖母の父親は元々ユダヤ教徒でしたが、第一次大戦直前にキリスト教に改宗しており、祖母の母は元々キリスト教でした。しかし、一家は迫害の対象になりました。祖母と曾祖母はイギリスに逃れましたが、男性は受け入れを許されなかったため、曾祖父はいったんアメリカに逃れ、戦後イギリスへ渡って家族と再会しました。
    祖母たちは逃れた先のイギリスで、JARのような民間の難民支援団体から支援を受けました。教会からも支援を受け、難民の方向けにピクニックなどが行われた様子も写真に残っています。同様に逃れられたのはたった数百人だけだったそうです。
    戦時中のイギリスでは、敵国ドイツの人間として、冷たい扱いを受けることもあったと聞いています。当時のユダヤ人は、上海や日本にも逃れていました。日本に住むようになって、日本に逃れてきた難民やJARの活動を知った時、応援したいと思いました。

    ――最後に、ロックリーさんにとって歴史とは何でしょうか。
    現代の世界を理解するには、歴史の理解が必要です。歴史を知らないと、間違いを繰り返すことになります。逆に歴史を知れば、よい将来を知ることができるのではないかと思います。
    弥助という人物の研究からは、奴隷の歴史や海上の歴史がわかります。1人から得られることは大きい。歴史の見方、そして現代世界の見方が変わると思います。

    インタビューを終えて

    難民として逃れた経験のあるお祖母さまを持ち、16世紀に日本にやってきたアフリカン・サムライ弥助を日本で研究されているロックリーさん。歴史を広い視野から見た時に初めてわかる発見に満ちたお話を聞き、JARを支えてくださっていることを、あらためてありがたく感じました。
    私たちが生きているのは多くの難民が生まれ、はるか遠くまで逃れざるを得ない時代ですが、なかなかその認識が浸透せず、日本で難民支援をしていると言うと、なぜ日本に難民がと驚かれることも少なくありません。しかし、弥助の物語に勇気づけられた多くの人々からメッセージが寄せられたというお話には、故郷を離れ移動する人々への時代を越えた共感があるのではと思いました。
    弥助の物語はハリウッドで映画化も控えているとのこと。映画が公開された時、彼の物語はどのように観られるのか、楽しみにしたいと思います。

    あなたの支援が、日本に逃れた難民を支えます。

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