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活動レポート

連載「デニスさんの道のり」

≪目次≫

【デニスさんの道のり#1】日本と難民問題
【デニスさんの道のり#2】祖国での身に迫る危険
【デニスさんの道のり#3】愛する家族との別れ、そして日本へ
【デニスさんの道のり#4】JARを知る
【デニスさんの道のり#5】境遇を共にした仲間との出会い
【デニスさんの道のり#6】初めてのセッション
【デニスさんの道のり#7】想像以上に厳しい現実
【デニスさんの道のり 番外編①】JARのカウンセリング
【デニスさんの道のり#8】ホームレス状態でシェルターの空きを待つ
【デニスさん の道のり 番外編②】JARにくるのはどんな人?
【デニスさんの道のり#9】ようやくシェルターへの入居が決定
【デニスさんの道のり#10】シェルターでの生活
【デニスさんの道のり#11】念願の家族との会話
【デニスさんの道のり#12】働けるまでの保護費の受給
【デニスさんの道のり 番外編③】外務省保護費について
【デニスさんの道のり#13】日本で初めての病院へ
【デニスさんの道のり#14】働くための日本語学習
【デニスさんの道のり#15】いざ、就職活動
【デニスさんの道のり#16】就職と明るい兆し
【デニスさんの道のり#17】最後にお願い

denis1web.jpg【デニスさんの道のり#1】日本と難民問題
日本に逃れてきた難民やJARの活動について、関心を持ってくださる方が増えてきました。日本にどんな人が逃れてきていて、どんな問題に直面するのか、具体的にお伝えしたく、コンゴ民主共和国から逃れてきたデニスさん(仮名)の道のりを連載します。
プライバシーに配慮し、デニスさんはJARにきた複数の人の話を混ぜています。実在はしませんが、JARにくる難民の方々が直面している現実が反映された典型的な事例と考えてください。デニスさんの道のりを通じて、日本も「難民問題」と決して無縁ではないこと、日本で救える命があることをお伝えできればと思います。

【デニスさんの道のり#2】祖国での身に迫る危険
denis2aweb.jpgデニスさんはコンゴ民主共和国で学校の教師として働き、妻と2歳の子どもの3人で暮らしていました。カビラ大統領の独裁下にあるコンゴ民主共和国では、政府に反対する恐れがあるとされた者は徹底的に弾圧されます。今年の12月に任期満了を迎える大統領の、任期延長を目論む動きをなんとか阻止しようと、野党関係者が活動を始めました。デニスさんも、友人に誘われ、国を変えられるチャンスなら、と会合に参加するようになりました。
あるとき、会合に突然、警察が押し入り、デニスさんを含む11人は反政府活動を企てたとして逮捕されました。拘禁中には棒やムチで激しく殴られ、二度と政治活動をしないとサインをして、家族が賄賂を用意した上で3日後に釈放されました。
その後は活動を控えていましたが、数か月後、より中心的なメンバーだった友人が殺害されたと連絡がありました。さらに、警察がデニスさんも探しているという背筋が凍るような知らせに、慌てて逃げる準備をしました。しばらく、郊外に潜伏し、友人の助けを借りてブローカーに出国を手配してもらいました。手配できたのは、日本の観光ビザと航空券。日本には誰も知り合いがいませんが、再び捕まれば、どうなるか分かりません。妻と子どもを残すことを心苦しく思いながら、出国を決意しました...

【デニスさんの道のり#3】愛する家族との別れ、そして日本へ
denis3web.jpg国内情勢が変わるまで、帰国はできません。当面は戻れないことを覚悟し、荷物をまとめました。大きなスーツケースで目立つことを恐れ、リュックと手提げかばんのみ。身軽な旅行者を装い、心臓が止まるような気持ちで空港を突破しました。

コンゴ民主共和国からエチオピア、香港で2回乗り継ぎ、30時間以上かけて成田空港にたどり着きました。「WELCOME TO JAPAN」それくらいの英語は読めますが、母語はリンガラ語とフランス語。見渡しても、フランス語がほとんど見当たらないのは想定外でした。早速、危機感が募りますが、どうしようもありません。一体、どこに向かえば良いのか見当もつきませんが、首都なら、何か情報があるかもしれないと考え、まずは「東京」を目指してみることにしました...

【デニスさんの道のり#4】JARを知る
denis4web.jpg慣れない電車を乗り継いで、何とか「東京駅」まで出てきたものの、やはり行く当てはなく、日が暮れてしまいました。母国から持ってきたお金は、日本円にすると3万円。疲れ切っていたこともあり、どこが安い宿かも分からないまま、近くのホテルで一泊しました。1万円しました。
次の日は一日かけて、同国もしくは中部アフリカ出身らしき人を探して歩きました。見つからず、雨も降ってきてしまったので、その日もホテルに泊まりました。少しでも安い宿をと思いましたが、7,500円以下のところは見つかりませんでした。交通費や食費もかかっていたので、残りはわずか1万円。お金の減る速さに焦ります。
翌朝から引き続き、情報を得ようと歩いていると、カメルーン出身の人と出会うことができました。フランス語が通じたので、事情を話し、どこか行ける場所がないか尋ねると、JARを教えてくれました。「四ッ谷駅についたら、このフリーダイヤルにかければ、スタッフが迎えにきてくれる」と教えてくれました。「助かった。」そんな期待を旨に、デニスさんは四ッ谷に向かいました...

Photo by Moyan Brenn

【デニスさんの道のり#5】境遇を共にした仲間との出会い
denis5bweb.jpg若い人が四ッ谷駅まで迎えにきてくれ、JARに到着しました。細長いビルの6階です。ドアが開くと、「こんにちはー」とスタッフに笑顔で挨拶されました。どんな団体なのか、信頼できる相手なのか分かりませんが、穏やかな雰囲気から、何とかなるような気がしてきます。案内された待合スペースには、すでに5人が腰をかけて待っていました。アフリカ諸国出身らしき人が4人と中東出身らしき人です。


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「出身はどこ?」一人からリンガラ語で聞かれました。なんと同じコンゴ民主共和国出身の人でした。まさか母語で話せる人と会えるとは思っていなかったので、とても心強く思いました。ジョンさんといって、年齢は同じくらい。2週間前に日本にきたといいます。彼は入れ違いで呼ばれてしまったので、長く話せませんでしたが、連絡先を聞くと、「日本で使える携帯はまだ持っていないけど、JARにはよくきてるから、きっとまた会えるよ」と言われました。一人あたりの相談時間が長く、なかなか呼ばれません。少し目をつむって休むことにしました...

【デニスさんの道のり#6】初めてのセッション
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3時間後、ようやくスタッフに呼ばれました。「毎日たくさんの人が来ていて、今日のようにお待たせしてしまったり、フランス語ができる人がいないときもあるので、次回からは、このフリーダイヤルに電話して予約してくださいね」と言われました。JARは政府からは独立したNGOであること、そして、ここで聞いた話はJARの外には漏れないと約束してくれた上で、名前や生年月日などの基本情報から、日本にくることになった経緯や、コンゴ民主共和国に帰国できない理由、といった詳細な聞き取りが始まりました。担当スタッフは、野党の名前をはじめ、コンゴ民主共和国の状況もよく知っていました。信頼のおける人だと分かり、すべてを話すことにしました。
「デニスさん、今までの話で帰れない理由がよく分かりました。とても心苦しいですが、これから日本の難民受け入れの制度について説明します。日本で難民として認められるのは、ものすごく難しいです。去年は7,500人以上が申請をして、認められたのは27人でした。つまり、99%以上の人は認められません。難民申請手続きのアドバイスなど、JARはできるだけのサポートをします。でも、今日から難民不認定になることを見越して、プランB、プランCを考えていかなくてはなりません」

簡単なこととは思っていませんでしたが、まさかここまでとは...。突き付けられた厳しい現実に頭が真っ白になりました...。
【デニスさんの道のり#7】想像以上に厳しい現実
denis7web.jpg日本で難民として認められる可能性は限りなくゼロに近い現実を突き付けられ、酷く落ち込みながら、これからの生活に関する相談に別のスタッフが乗ってくれました。相手は若い女性スタッフ。プライドもありますが、そんなことは言っていられません。残りのお金はすでに1万円をきっているので、思い切って、泊まる場所と生活費を支援してほしいと相談しました。
難民申請中で生活が困窮している人を対象とした公的な支援があることを教えてもらい、一瞬、気が楽になりましたが、その制度にも審査があり、2~3ヶ月はかかるとのこと。
「JARはできる限りデニスさんの力になりたいと思っています。でも、デニスさんと同じように支援を必要としている人がたくさんいて、いまJARのシェルターは満室です。安く泊まれる宿をお伝えするので、まずはそこで数泊しのぎましょう」
数泊後、お金が尽きたら、どうすればいいか尋ねると、シェルターが空くまでは野宿で頑張るしかないと、耳を疑う現実を再び突き付けられました。
「JARからは食糧と、緊急支援金として15,000円まで支援できます。事務所が空いている時間は、いつでも来て休んでください。何とか頑張りましょう」ここにくれば何とかなる。そんな期待は打ち砕かれ、落胆を隠せませんでした...

写真:事務所にはキッチンがないため、フードバンクとの連携や支援者からの寄付を通じて、お湯か加熱で食べられるレトルト食品を常備

【デニスさんの道のり 番外編①: JARのカウンセリング】
番外1_カウンセリングweb.jpgJARは物やお金を「与える」だけでなく、その人の力を最大限「引き出す」カウンセリングを心がけています。デニスさんのように、日本に逃れて安全にはなっても、難民申請者に向けた公的な支援につながるまで時間がかかり、また、つながっても十分ではないため、困窮してしまう人が多くいます。
難民申請の結果が出るまで平均3年。JARに相談にくる方は年間約600名。残念ながら、一人ひとりの住まいや生活費を長期的に工面する財力はありません。日本でなんとか生き抜くためには、支援の質を高めるだけでなく、一人ひとりが日本でネットワークを少しずつ広げ、自立に向けて頑張ることが不可欠です。
例えば、「泊まる場所が欲しい」と相談を受けたとき、シェルターに空きがあっても、すぐに手配することはしません。1日でも泊めてもらえそうな人がいないか、一緒に考えます。「JARを教えてくれた同国出身の人に電話番号をもらったから、聞いてみることはできるかもしれない」そんなことが思い出されれば、電話を貸してチャレンジします。それでも見つからなければ、シェルターへの入居を考えます。
冷たいように聞こえるかもしれませんが、難民申請者への支援のリソースがわずかにしかない日本では、物やお金の支援と同じくらい、自分の力で生き抜くことに前向きになれるカウンセリングが大切だと考えています。

【デニスさんの道のり#8】ホームレス状態でシェルターの空きを待つ
denis8web.jpgJARから教えてもらい、2,000円で夜を明かせる、シャワーとリクライニングシートの付いたネットカフェに滞在することにしました。翌日、難民申請と公的な支援「保護費」を申請。あとは、持ってきた残りの10,000円とJARからの緊急支援金15,000円をいつまでもたせらえられるか、サバイバル生活の始まりです。緊急支援金は最低限の食費や交通費として使うことをおすすめされました。確かに、保護費につながるまで2ヶ月かかることを考えると、一晩2,000円のネットカフェでも到底もちません。計画的に使うべく、ネットカフェへの滞在は数日に1回と決め、路上生活に慣れるよう努めました。日中はJARの待合スペースで、他の難民の人たちと情報交換をしたり、食事を提供してもらったりします。毎食レトルト食品で、あまりおいしいとは思えませんが、お腹は満たされ、たまにあるフルーツのおいしさで気分転換できます。大きな荷物はJARに預け、夜は外で過ごします。シャワーを浴びるため、数日ごとにネットカフェへ行くの繰り返しです。初めは心に余裕がありましたが、段々と疲れがたまり、ぐったりしてきました。なぜ、日本で路上生活に陥っているんだろう...いや、安全にいられるだけ感謝しないと...そんな思いが交差しながら、夜明けを待つ日々です...

写真:ホームレス状態にある難民の方々から預かっている荷物の山

【デニスさん の道のり/番外編②】JARにくるのはどんな人?
番外2_どんな人がくるweb.jpgこれまで、コンゴ民主共和国出身のデニスさんの道のりを追ってきました。JARに相談にくる難民の出身国は、コンゴ民主共和国をはじめ、カメルーン、ウガンダ、エチオピアなどアフリカ諸国が多く、相談者全体の半数以上にのぼります。約8割が男性で、デニスさんのように政治的な活動によって危険が迫り、逃れてくる方が多いように思います。他にも、民族、宗教、セクシュアリティなどさまざまな理由で国を追われた方が相談にきています。親族がいる、ビジネスできたことがある、といった理由で日本を選ぶ人もいますが、ほとんどは、たまたまビザが最初にとれたという偶然から日本にたどり着いています。
アフリカ諸国出身者の相談が多い背景には、頼れるコミュニティがないという問題があります。アジアの国々など、在日コミュニティの規模が比較的大きい場合は、コミュニティ内での支え合いや、働き口などについての情報交換によって、何とか生活していける場合も少なくありません。一方で、アフリカ諸国のコミュニティはまだ規模が小さいことや、難民認定を受けて生活が安定した人が非常に限られているため、頼れる先がJARのような支援団体しかない、という状況が続いてしまっています。

【デニスさんの道のり#9】ようやくシェルターへの入居が決定
denis9web.jpgホームレス生活も3週目に差しかかりました。まともな場所で横になっていないので、身体のあちこちが痛みます。いつもの通り、食事をとりにJARへ行くと、顔見知りのスタッフが笑顔で駆け寄ってきました。
「デニスさん、シェルターが空きました!今日から入居できますよ!」

この生活からやっと抜け出せるかと思うと、嬉しさよりも疲れがドッと押し寄せます。食事後、シェルターに移動する際には、キッチンで調理できるようにと、パスタやお米、油などを紙袋につめて渡してくれました。到着したシェルターは古くて狭い部屋でしたが、屋根があるだけで本当にありがたく、布団にいたっては夢のようでした。シェルターまで案内してくれたスタッフに、笑った顔を初めて見たと言われ、いかに自分が自分でなかったことを思い知りました。シェルターであっても、帰る場所があることで、少し前向きになれる気がします...

写真: 事務所からシェルターへ出発するとき。女性や未成年者など脆弱性が特に高い方は、シェルターが満室の場合でも、宿を手配しています。

【デニスさんの道のり#10】シェルターでの生活
denis10web.jpg3週間のホームレス生活を経て、ようやくJARのシェルターに入ることができたデニスさん。キッチンは他の2人と共用です。一人はチュニジア出身で、もう一人はエリトリアの出身です。チュニジア人とはフランス語で話すことができ、エリトリア人とは、チュニジア人のアラビア語を介して意思疎通をはかっています。似た境遇に置かれていることもあり、3人はすぐに打ち解けました。全員きれい好きなため、共同生活も苦になりません。1週間後、様子を見に訪れたスタッフは、整理整頓されたキッチンと冷蔵庫を見て、感激して帰っていきました。デニスさんの楽しみは、玄関の外のお花の世話です。水やりをしているときには、先の見えない生活への不安を一瞬忘れることができます...


【デニスさんの道のり#11】念願の家族との会話
denis11web.jpg嬉しいことがありました。日本に逃れて1ヶ月たってようやく、母国に残した妻と子どもに連絡がついたのです!無料で通話できるSkypeで連絡を取るつもりでいましたが、一向に連絡がつかず、眠れないほど心配していました。妻の携帯が壊れていただけで、安心しました。
好きで置いてきたわけではありません。「日本はどう?私たちはいつそっちに行ける?」妻の言葉に胸が締め付けられるようでした。1日でも早く再会するためにも、また、その間、少しでも送金して養っていけるよう、早く自立しなければ、と気持ちを新たにしました...
【デニスさんの道のり#12】働けるまでの保護費の受給
denis12web.jpgJARのシェルターに入って1ヶ月が経ち、ようやく公的支援(外務省保護費)を受給できることが決まりました。難民申請の結果が出るまで約3年。できるだけ早く仕事を見つけて自立したいところですが、難民申請から半年間は就労許可がないので、それまでは保護費に頼るしかありません。支給されるのは月46,500円(31日の場合)の生活費と、家賃が上限4万円まで。JARや入国管理局に行きやすい都内ではなかなか見つからない金額です。そもそも、どこへ行ったら部屋が借りられるのかも分かりません。理解のある不動産屋をJARから紹介してもらい、学生インターンが手続きを仏語で通訳してくれて、無事、千葉県に見つけることができました。何しろ、自分よりあとに逃れてきて、いまJARでシェルターの空きを待っている人がいます。早く順番を回したいという気持ちで、急いで手続きをしました。

【デニスさんの道のり 番外編③:外務省保護費について】
前回、ご紹介した公的支援(外務省保護費)は、難民申請中で生活が困窮していると認められた場合に受給できるものです。しかし、その支援金を得る審査にも2~3ヶ月程度かかる上、受給額も生活保護と比較し、3分の2程度と限られています。住居費は月に上限4万円で、敷金・礼金などの初期費用は出ないため、保護費の受給が決まっても、なかなか条件下で住める部屋が見つからないこともあります。平均の受給期間は約1年。就労資格を得てからは、できるだけ早く仕事を見つけ、難民申請の結果が出るまでの間、自活していくことが求められます。また、困窮していても、受給できない場合があります。1回目の難民申請が不認定となり、再申請中の人や、日本に親族がいてサポートが得られると見なされた人(実際は受けられない人も)などです。年間の受給人数はわずか200人程度。昨年の難民申請者が7,500人を超え、またJARに相談にきた人だけでも約600人いることを考えると、一握りです。JARは保護費の制度改善についても、関係者に働きかけていきます。

【デニスさんの道のり#13】日本で初めての病院へ
denis13web.jpg生活は少し安定したものの、体調が優れません。眩暈がしたり、しめつけられるような強い胸の痛みが我慢できなくなってきました。病気でないか不安があるので、医者に診てもらいたいと思いますが、どの病院へ行けばいいのか、いくらかかるのかも分かりません。
JARへ相談したところ、保険に入っていないので、簡単な診療でも多額になること、外務省保護費から医療費は支給されるが、後日精算であることを教えてもらい、何とか前払いできるようにお金を工面して、病院にいくことを決めました。仏語で対応してくれる病院はなかなかなく、診療の流れも初めてで分からないので、JARのインターンが通訳で付き添ってくれることになりました。
自宅から近い病院にいきましたが、規模が大きく、いくつも科があることに驚きました。レントゲンをとって診察してもらった結果、ストレスによる症状で日本の生活に慣れれば落ち着いていくだろうとのこと。痛みが続くのは辛いですが、大きな病気ではないことが確認でき、安心できました。

(写真)難民に限らず、日本語が母語でない人にとって、専門的な言葉が多い病院でのコミュニケーションは課題です。病院と難民の両方から声を吸い上げて開発した「ゆびさしメディカルカード」では、痛みの種類やレベルなど、病院で最低限必要となるコミュニケーションを、ゆびさしでとることができます。カードを病院に導入し、地域の受け入れ力の強化を目指しています。また、カードによって、難民側もJARスタッフや通訳の付き添いがなくても、一人で病院に行きやすくなります。実際に、一人で病院に行くことをためらっていた人に、カードを使って頑張ってみましょうと背中を押したところ、うまくいったケースも多くあります。医療へのアクセスという観点からだけでなく、小さなことであっても異国の地で自立して何かを達成するということは、その社会の一員として生活していく自信につながります。

【デニスさんの道のり#14】働くための日本語学習
「働くための日本語教室に参加しませんか?」JARスタッフの勧めで、日本語学習を始めました。あと2ヶ月で、難民申請をして半年になりますが、まだ結果が出ない場合には、就労許可を得ることができ、自立を求められるといいます。支援に頼らず生活したいし、母国に残した家族に少しでも送金をしたいので、仕事はすぐにでも始めたいです。また、難民申請の結果を待つだけの生活は、時間を持て余してしまい、先の見えない不安が募るばかりで、忙しくしたい、という気持ちも強くありました。
二つ返事で通い始めたのは、毎日2時間の集中クラスです。自分と同じように自立を目指す、難民申請者たちに向けたものなので、仲間ができたことが嬉しく、毎日が充実し始めました。「こんなに全員、熱心なクラスは初めてだ」と先生に驚かれましたが、自分の未来はここでの学習にかかっていると思うと、本気で取り組む以外の選択肢はありません。もちろん、無遅刻・無欠席です。

今後の連載はFacebookページをご覧ください。

【デニスさんの道のり#15】いざ、就職活動
難民申請から6ヶ月たち、結果はまだでないので、就労許可をもらいました。毎日2時間×2ヶ月、合計80時間の日本語プログラムもちょうど終えたところで、会話と読み書き、漢字も少しできます。仕事をする上で十分とは言えませんが、日本語をもっと使いたいという気持ちが高まり、就職活動に気合いが入ります。日本語プログラムを終えた仲間たちと、JARが主催する「ジョブフェア」に参加しました。難民の雇用に関心を持つ、さまざまな業種の企業がブースを出して、お互いについて知り合うマッチングの場です。自分も働きたいと思い、企業も欲しい人材だと思えば、数週間のOJT(企業内研修)に進み、最終的に採用が決まる流れです。このような場以外では、雇用先と出会うつてがないので、その日きていた6社すべてを回りました。幸い、働いてみたいなと思った鋳造所とのマッチングが成立!母国では教師だったので、工場での仕事は初めてですが、安定して働けそうな職場だったので、チャレンジしてみることにしました。これから始まるOJTは日本で初めての就労経験。緊張しますが、有意義なことに時間を使えることが嬉しく、楽しみです。

【デニスさんの道のり#16】就職と明るい兆し
工場で2週間のOJTを終えて、社員として採用されることになりました!
職場の人とコミュニケーションをとるのは緊張しますが、2週間の勤務で、だいぶ慣れてきました。日本語が十分にできない自分に、根気強く身振り手振りで伝えようとしてくれます。先日は、初めて「飲み会」に誘ってもらいました。皆が何を話しているのか、早くてついていけませんでしたが、仲間に入れてもらえたことが、何より嬉しかったです。仕事を始めるまでは、やることがなく、孤独を感じる毎日でしたが、人とのつながりができて、日本で初めて「人間らしい」生活を送れているように感じます。工場での肉体労働は大変ですが、自分を信じて雇ってくれた社長の期待と、周りの社員さんのサポートに応えられるよう、毎日頑張ります!

【デニスさんの道のり#17】最後にお願い
来日直後の路上生活、支援者との出会い、日本語学習、就職と、日本に逃れてきてからの8ヶ月は目まぐるしい変化の連続でした。さまざまな人に支えられ、何とかここまでくることができました。仕事にも慣れ、トンネルの出口が見えてきたような気持ちです。
そんななか、入国管理局から、2週間後にきてくださいと手紙がありました。仕事の休みを申請し、約束の日に訪れると、渡されたのは1枚の紙でした。難民認定申請、不認定。
その場で、目の前が真っ暗になりました。日本の難民認定基準は厳しいと聞いていましたが、実際に言い渡されると、今まで築き上げてきたものが、すべて崩れ落ちるようなショックを受けました。呆然としながらJARに電話をすると、まずは諦めずに異議申し立ての手続きをしましょう、と励まされました。見えたと思った出口は幻覚だったのだろうか...。制度の壁は高く、冷たく、感じられました。(終わり)

これまで道のりをご覧いただいた皆さま、ありがとうございました。ハッピーエンドではなく、残念に思われたかもしれませんが、これは、私たちが支援する方々のほとんどが直面している現実です。JARは、デニスさんのように、来日直後から自立に至るまでの、一人ひとりの道のりに寄り添っていますが、制度を変えるには長い時間がかかり、もどかしさや憤りを感じることも少なくありません。難民を受け入れられる社会を目指して、これからも、個人、地域、企業、政府など、社会を構成する人たちに働きかけます。よりよい難民受け入れを目指すJARの事業を、ぜひ、支えてください。皆さまからのご支援は、来日直後の難民への緊急支援から、制度を変えていくための取り組みまで幅広く、必要な事業に使わせていただきます。毎月定額で支えていただく難民スペシャルサポーターは679人になりました。さらに多くの方に加わっていただき、皆さまとともに、現状を変えていきます。どうぞよろしくお願いいたします。
難民スペシャルサポーター参加はこちら

(2016年10月11日掲載)

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