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難民支援協会と、日本の難民の10年

第1回 難民支援協会設立秘話

2,400人。設立から10年間に難民支援協会(JAR)が支援してきた難民の数です。2009年12月現在では、年間10,000件以上にのぼる難民からの相談が寄せられ、18人のスタッフを抱えるJARですが、その種となったのは、「難民の抱える苦しみをほおっておけない」という数人の、しかしとても強い思いからでした。

1.設立前夜

 1990年代末、アジアでは通貨危機が起こり、日本では北海道拓殖銀行や山一証券が破綻するなど、社会的な動揺が起こっていた時代、日本の難民を取り巻く状況にも変化の兆しが見られていました。

 難民申請者数・認定数およびJARでの相談件数当時の難民申請者数は年間133人。年々増加傾向にあったのに対して、難民として認定される人の数は95年1人、96年2人、97年1人と本当に少ない数でした。しかし、98年には、申請の結果を待っている人が300人にのぼったことが国会でも取り上げられ、過去10倍以上の16人が難民としての認定を受けました。また、96年には難民問題研究フォーラムが提案書を作成、98年には全国難民弁護団連絡会議が立ち上がり、国内難民問題に関する問題意識が高まっているときでした。
 
 そのような状況に対応するため、国際的な人権NGOであるアムネスティ・インターナショナルでは、東京と大阪に「難民チーム」というグループが立ち上がりました。このチームを東西でリードしていたのが、筒井志保と石井宏明です。彼らは活動の中で、次第に難民のニーズに総合的に対応できる「窓口」としての新団体の必要性を痛感するようになります。それまで、難民は、例えば難民申請手続きや裁判が必要かどうかの相談は弁護士へ、生活に関する相談は教会やNGOへなどと、それぞれのニーズごとに別々の「ドア」をノックしなければならない状況だったのです。
 
 その後2人の声かけを中心に、NGO、弁護士、研究者、ボランティア等それぞれの立場で難民支援に取り組んでいた人たちが集まり、日本で難民支援に取り組む専門的な団体の設立を目指すこととなりました。ちょうど98年にNPO法が成立したことも、団体設立の動機付けとなりました。

 10人以上の参加を得て、99年2月には設立準備会が発足。筒井志保が事務局スタッフに立候補し、決意と不安を携えながら東京へやってきました。そして具体的な団体設立へ向けての準備がスタートしていきます。

1_s.JPG 筒井の原点は高校時代。在日外国人の友人が国籍のために制度的差別を受ける現実を知ってショックを受けたことにありました。一度は建築家を志して建築会社に就職したものの、ふとしたことからアムネスティに出会い、結局難民支援活動へと身を投じることに。当時は彼女が一人で事務作業、難民からの相談、資金調達等を中心的に担っていたため、業務量も非常に多く、事務所に毛布を持ち込み、泊まり込むことも少なくなかったようです。それでも、「日本に来た難民を救えるのは他ならぬ日本人だ」という思いが、多忙の身を突き動かしていました。

2.設立に向けて

1)初代代表理事−鴨澤巌

 設立にあたっては、多くの関係者を巻き込んでいく形になりました。その中でも設立準備会から中心的に取り組んだのは鴨澤巌でした。設立から亡くなる2003年まで、代表理事として団体の運営から難民への直接支援や発送作業、会員・ボランティアの募集等様々な業務に取り組みました。2_s.JPG
 鴨澤は、地理学者として長く法政大学で教鞭をとり、引退後、流ちょうなトルコ語を活かして急増するクルド人難民申請者の支援に取り組んでいました。クルド人たちからは「お父さん」と呼ばれ、会の代表という立場を離れて、難民申請の手続きのみならず生活の相談、時にはけんかの仲裁までも引き受けていたというエピソードが残っています。その中で、申請中の収容、生活の困難さ、クルド人が1人も難民認定されない状況等を見るにつけ、「同じ人間として放っておけない」という思いを強くしていったと語っています。

2)目指すべき団体像−効果的な難民支援に向けて

 団体の目指すべき活動は、難民は何を必要としているのかという難民の視点に立ち、次の4つの点を強く意識して策定していきました。

 まず、難民支援に関する専門家集団であること。例えば出身国の情報や世界的な動向など、難民を取り巻く状況を適切に把握して分析する能力、法律面・生活面での専門知識がないと、効果的に支援することはできないと考え、専門性の蓄積、また専門性を持つ人たちとのネットワークに力を入れました。また、法的支援と生活支援両方が充実していなくては、難民は安心した生活が送れないことから、両方をバランスよく支援できるよう幅広い情報・知識を収集していきました。まず取り組んだのは泊まるところがない難民申請者の宿としてシェルター確保に向けた情報収集でした。

 2つめは、常駐スタッフを置くこと。法務省入国管理局での難民認定手続き、区役所や病院への同行などはほぼすべて平日・昼間でないとできないために専従で取り組むスタッフを常駐させる必要がありました。そのため、将来的なスタッフの拡充も目指しながら、筒井が初代事務局長として団体の運営、支援のすべてに関わることになりました。

 3つめは、難民への直接支援活動だけではなく、加えて調査・政策提言と広報活動という3本柱で行うこと。ただし、政策提言は現場での積み重ねの中から出てくることを重要視したいということになり、「汗を流した分だけ説得力をもつ」という方針のもと、まずは難民一人ひとりの支援に最も比重をおいて活動を行いました。

 4つめは、国際基準を意識すること。常に、現場でおきていることを国際的な基準に照らし合わせて考え、解決法を模索していくというアプローチを取りました。具体的には難民認定の手続きや審査基準のあり方を諸外国の判例、難民条約の解釈等からひもといたり、難民申請者の収容や置かれている状況について国際的な条約から考え、先進国として位置づけられている日本において自分たちが実施する支援活動の指針として参照しました。

3)財政基盤

 日本国内で外国人支援に取り組むNGOの多くが、専従スタッフを持たずにボランティア中心に運営されている状況の中、特に後ろ盾や大きなスポンサーがなくスタートしたJARも設立前から、その思いや活動計画とはうらはらに、常に財政面に課題を抱えていました。外国人支援NGOの実態を踏まえて、専従スタッフを置かずにボランティアの運営を目指してコストを抑えるようにというアドバイスもよくいただきました。しかし、前述の目指す団体像を考えた時にどうしても常駐スタッフが必要であるということを考え、事務所を持つことができるための資金を集めることとしました。まず、中心的な設立メンバーが数十万ずつを出し合い、200万円を調達しました。そして、広く寄附を呼びかけました。十数名の方より協力いただき、最終的には600万円程度の立ち上げ資金が集まり、設立の準備が整いました。中でも、法人としてまだ実績もない団体への助成に応じて下さったのは、立正佼成会一食平和基金でした。そのときの決定を、現事務局長の保科和市氏は「もともと、立正佼成会もアフリカへ毛布を届けるなど、難民さんとのご縁をもっていました。それは、『人間は大切』だから、難民である状態を何とかしたいと思いました。そして、その意味で海外であろうと国内であろうと違いはありません。とりわけ、国内の難民は社会から注目されておらず、だからこそ基金として取り組む必要があると感じました」と語っています。 

コラム:立正佼成会一食平和基金・保科和市さんのお話

3.設立後−机ひとつから

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 鴨澤や筒井の奔走、様々な人の手助けがあり、JARは1999年7月17日に設立総会を迎えました。事務所スペースは、他団体に間借りする形で何とか机1つ・パソコン1つを置くことができる場所を渋谷に確保しましたが、新聞を見たというボランティアの応募、難民からの相談に応えるうちに手狭となり、半年後には引っ越し。その後4年間お世話になる飯田橋の銀鈴会館4階へと移ります。同会館は築50年にはなろうかという建物で、エレベーターはなし、窓はあるけれども50センチ先の壁しか見えず、太陽の光が入らないという環境でしたが、最寄りの飯田橋駅からのアクセスは抜群によく、難民が相談に来るときも迷いにくいという大きなメリットがありました。4_s.JPG

 設立当初は個別の難民支援活動を軸に、難民支援に取り組むNGOとのネットワーク作りを中心に行い、その実績が認められ2000年8月、国連難民高等弁務官(UNHCR)日本・韓国地域事務所(現、駐日事務所)と契約を締結、パートナー団体として業務を共同で行うこととなりました。それにより、UNHCRに問い合わせがあった相談を受け、相談件数が増加し、団体の認知度も徐々に高まっていきます。

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